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関東大震災時の朝鮮人虐殺-その国家責任と民衆責任-

2011年05月01日 | 読書日記など
『関東大震災時の朝鮮人虐殺-その国家責任と民衆責任-』
   山田昭次・著/創史社2003年

帯に書かれてあります。下「」引用。

「未清算の国家責任、民衆責任を問う!
朝鮮人暴動のデマを流した日本国家・日本の軍隊・民衆が朝鮮人を多数虐殺その歴史的、社会的背景とは何か?」



九月二日を非難する『東京朝日新聞』夕刊「今日の問題」(1924(大正13)年八月末に)。下「」引用。

「ここで「九月二日の鮮人騒ぎ」といっているのは、朝鮮人が暴動を起こしたというデマと、その結果としての朝鮮人虐殺が盛んになったのは九月二日からだったことを指しているのだろう。この筆者は大地震以上に朝鮮人虐殺を大きな問題だとみなし、虐殺した上にその責任を闇に葬ってしまうのは二重の犯罪であり、恥の上塗りだというのである。発禁処分を受けるのを避けるために批判の対象は明示していないが、それは日本国家の態度であることはいうまでもない。」

流言蜚語を警察官から聞いた……。下「」引用。

「こういう流言飛語が震災当時市民の神経を病的にとがらせた。品川でもスガモでも千葉県でもほとんど時を同じうして人々を不安に導いたこの種の流言飛語が一体どこから湧いたのであろう。市民の大多数はこの流言は警察官から聞いたといっている。説をなすものは警視庁が市民に自分の役目を手伝ってもらう為に考え出した名案? といっている。」

金持ちの寄付。自警団は警察署長まで裸に……。下「」引用。

「続いて在郷軍人、青年団、消防組を通じて自警団という、槍や大刀を持ったすごい一隊を造らせた。慾に目のない金持ちは喜んでこの大正一き〔一揆〕に銭を寄付した。腕自慢の八公、熊公はこの時とばかり岩見重太郎や荒木又右衛門気取りで天下御免の人殺しをした。社会主義者とその妻と罪のない子供を殺した。自警団は面白がって『きさまは朝鮮人だろう』といって軍人や警察署長まではだかにした。警視庁は余り薬がききすぎたのにびっくりしたものか、約半年目に自警団をやめさせた。」

船橋海軍無線電信送信所長 海軍大尉・大森良三。下「」引用。

「この記事にいう「船橋無電局長」とは、船橋海軍無線電信送信所長海軍大尉大森良三が、二三年一○月一二日に千葉地方裁判で開かれた千葉県東葛飾郡法典村自警団の朝鮮人虐殺事件の公判に際して、打電した電報中には内務省「警保局長から山口、福岡両知事にあてて朝鮮人が暴動を起しているから当分朝鮮から日本に来る者は差し止めよというらしき意味のものであった」とか、九月三日午後五、六時頃、通信所の警戒の応援に来た村民に対して「同夜送信所襲撃の目的を以て来る朝鮮人を殺しても差支えなく、自分が責任を負う」といった証言したことを指す(『報知新聞』二三年一一月一三日夕刊)。」

千葉県船橋に建立された追悼碑。
神奈川県横浜に建立された追悼碑。

加害者の明記を避ける追悼碑。下「」引用。

「藤岡の新追悼碑にも「朝鮮人暴動の流言が伝わり、各地に於て多くの犠牲者を出すに至った。藤岡市に於ても東京・埼玉方面より避難してきた十七名の者が悲惨な最後を遂げた」と記され、虐殺主体の明記は避けられている。-略-」

「朝鮮人・韓国人が独自に建立した追悼碑」のことも書かれてあった。

メーデー……。下「」引用。

「一九二三年五月一日に東京のメーデーに参加した難波大助は、警官の猛烈な弾圧に対する朝鮮人労働者の勇敢な闘いぶりに驚嘆して友人への手紙にその感想を次のように記した。
「メーデーにおける、
サーベルの朝鮮人に対して行なった
あの暴圧と圧制ぶりはどうであったか。
東京の真中で、白昼衆目視のうちで--
あの半島における文化的善政(?)ぶりが
想像できるではないか。
(中略)
爆裂弾が飛ぶよ、赤旗が走るよ
勇敢なる朝鮮人、水平人と共に
proletariat emancipation movement 〔プロレタリアート解放運動〕の
最前線だ。
人道的、せん香臭い同情を
朝鮮人の人々に--被圧制者たちに
与えるのはお互いよそう」(大島英三郎、一五三~一五四頁)」

弾圧……。下「」引用。

「後に述べるように、この年のメーデーでは警察は朝鮮人を一切メーデーに参加させまいとし、それでも参加した朝鮮人に対してはよってたかって殴る、蹴るの暴行を加え、その弾圧は日本人新聞記者の目からみても残忍だった。
 しかし朝鮮人の抵抗や難波や秋田が驚嘆したほどのものだった。ここに現れた在日朝鮮人運動の高揚と警察の猛烈な弾圧ぶりが、それから四カ月後の関東大震災時に、治安当局が朝鮮人が暴動を起こしたという幻想にとりつかれてデマを流したことと、無関係とは思われない。
 従来の研究には、官憲が関東大震災時に朝鮮人暴動の幻想に襲われた原因として三・一運動を挙げている例がある。しかし朝鮮人の解放運動は三・一運動で足踏みをしていたのではなく、その後さらに高揚したのであって、この見解はあまり妥当ではないように思われる。」

検束……。下「」引用。

「しかし学生の運動に対する抑圧は厳しかった。前掲の『朝鮮人概況』第三によれば、三・一運動一周年の二○年三月一日、東京の朝鮮キリスト教青年会館に約五○名の朝鮮人学生が集まったが、西神田署長が解散を命じ、これに抵抗する学生のうち四名が検束された。しかし学生たちは日比谷公園に移動して集まり、その数は七、八○名になった。警察署長の解散命令に抵抗した学生が五三名も検束された(朴慶植、七五年、a、一○五頁)。-略-」

「不逞鮮人」の集まり……。下「」引用。

「朝鮮人が少数でも集まれば、「不逞鮮人」の集まりと疑うのが警察の習性となってきた。」

石橋湛山(後に総理)。下「」引用。

「さすがに東洋経済新報社の石橋湛山は、司法省発表に対して次のような痛烈な批判を呈した。
「官憲の発表に依れば、殆ど皆風説に等しく、多分は氏名不詳、たまたまその明白に氏名を揚げるものも、現にその者を捕らえたるは少ない。斯くてその犯罪者が、果たして鮮人であったか、内地人であったかも、わからぬわけである。」(『東洋経済新報』23・10・27。-略-)」

「戦前に日本人が建立した墓碑、追悼碑」モノクロの写真も掲載されている。

長野県でも「あとがき」より。下「」引用。

「一九七二年四月に、歴史教育者協議会大学部会に所属する学生諸君と、長野県南佐久郡佐久町へ旧大日向村の満州移民の調査に出かけた時のことである。同町本郷の坪井高則氏が、「関東大震災の時、朝鮮人が山に入って放火するという情報が小諸からきたので、〔大日向村の〕の村民のほとんどが日本刀などを持って山狩りに出た。〔中略〕佐久の村はあちらこちらで山狩りしたと思う」と話してくださった。」

そして、第二の契機。下「」引用。

「一九八二年の夏の初め頃だったと思う。若い人々がやってきて、関東大震災時に東京都墨田区の旧四ツ木橋付近の荒川放水路で虐殺され、河川敷に埋められた朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会を創設する、ついては会の代表になって欲しいと私に要請した。-略-」








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