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愛とまごころの指-サリバン女史の手紙-

2010年12月07日 | 読書日記など
『愛とまごころの指-サリバン女史の手紙- 現代教養文庫 797』
   ジョン・A・メーシイ(編)/万成滋(訳)/
     遠藤豊吉・解説/社会思想社1973年

表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「盲、ろう、唖、三重の障害を負ったヘレン・ケラー。そうしたヘレンを、一人の人間として扱い、愛とまごころをもって接してサリバン女史。人間を育てることのむつかしさはどんな状況でも同じであるが、サリバン女史は、特殊な子供を育てるというのではなく、全く普通の子供を育てるのと同じ観点からヘレンを育てた。
 本書は、もって生まれたみずみずしい魂を失わずに成長していくヘレンの姿を生き生きと描いたサリバン女史の手紙である。そこには、母と子が、教師と生徒が、人間と人間がぶつかりあいながら成長していく記録があり、人間が育つのに何が必要なのか、を教えてくれるなにかがある。」



ハウ博士とローラ・ブリッジマン。下「」引用。

「サミュエル・グリッドレー・ハウ博士がローラ・ブリッジマンの指を通して彼女の知性に働きかける道を開いてから、今年で六十五年になる。ローラ・ブリッジマンとヘレン・ケラーという二つの名前は常に結び付けて記憶される名前であろうが、サリバン女史の事業を説明しようと思えば、まずハウ博士がブリッジマンのためになしとげたことを理解しておく必要がある。それと言うのも、ハウ博士こそ偉大な先駆者であって、サリバン女史の仕事だけでなく、およそ盲とろうの二重の不具に悩む人々の教育に当たる者の仕事は直接にハウ博士のおかげを受けているからである。」

嘲笑をかったハウ博士。下「」引用。

「ハウ博士は貧民と病人との救済を目的とする多くの政策を提唱し、そのために嘲笑を買ったが、しかしその主張は今日ではすでに実現されている。」

ローラ・ブリッジマン。下「」引用。

「ローラ・ブリッジマンは一八二九年十二月二十一日ニュー・ハンプシャー州ハノーバーで生まれた。ハウ博士がローラに対して実験を試み始めた時には、彼女はもう八歳近くなっていた。ローラは生後二十六ケ月のとき猩紅熱のために視覚と聴覚を失い、さらに嗅覚と味覚も失ってしまった。ハウ博士は実験を重んずる科学者であり、同時に深い信仰と慈善の精神にもとづく、ニュー・イングランドの伝統的な先験論を奉ずる人であった。科学と信仰の両者が一つになって、ハウ博士を導き、ローラ・ブリッジマンの魂に到達しようという試みを行なわせたのである。博士は、ローラもまた、他のあらゆる人間と同じく、生まれながらに魂をさずかっているものと信じて疑わなかった。博士は浮き彫りにした字を使ってローラを教育しようと計画し、まずそういう字を書いた紙片を品物に貼りつけ、次にローラに紙片をその意味する品物につけたり逆に品物を与えて、その名前の紙片を選ばせたりした。-略-」

指文字を教えたのはろうあ者。下「」引用。

「二ケ月の間、浮き彫りの文字だけを使ってローラを教育してから、ハウ博士は学院の教師の一人を派遣して、あるろうあ者から指文字を習わせて、それをローラに教えさせた。そしてそれ以後は指文字がローラとのコミュニケーションの方法となった。-略-」

ローラとヘレン。下「」引用。

「ローラは常に意欲的な研究の対象であったに過ぎないが、ヘレン・ケラーはまたたく間にはっきりとした個性を持つ人間になったので、彼女の教師は、生徒の欲求に追いつくために、息もつげずに走りつづけなければならず、そのため科学的な研究を行なう時間も精力もなかったのである。
 ある意味ではそこれは不幸なことである。サリバン女史は最初、ヘレン・ケラーがローラ・ブリッジマンよりずっと興味があり、成果もあがる生徒と知って、ある手紙の中に記録を取ることが必要だと記している。しかしサリバン女史は、その性格からしても、またそれまで受けた訓練からしても、生徒をその成長発展に無用な実験や観察の対象にすることはできない人だった。-略-物を書くことは彼女の目にとってはいつも大きな重荷であったということが一つ、もう一つは、最初彼女が発表したものが不正確に使用されたため、データの発表を控えるようにったことである。
 サリバン女史が、ハウ博士の義弟で、パーキンズ学院院長であり、博士の後継者となったマイクル・アナグノス氏にヘレンの教育について初めて報告を送ったとき、ボストンの新聞紙はすぐさま大げさな記事を載せはじめた。サリバン女史はそれに対して抗議した。一八八七年四月十日、すなわち彼女がヘレン・ケラーのところへ行ってからわずか五週間後の日付けの友人への手紙の中で、彼女はこう述べている。
「……ボストン・ヘラルドを送ってもらって見ましたが、ヘレンについてばかげた記事が載っていました。ヘレンが“すでに流暢に話して”いるとなどいうのですから呆れてしまいます。それなら二歳の子が片言をしゃべるのだって、流暢に話すい言えるでしょう。二歳の子が金切り声をあげたり、はしゃいだり、泣いたり、鼻を鳴らしたり、わめいたり、ものを蹴とばしたりするのまで会話だと言うのならば、それは流暢どころか、雄弁だと言っていいでしょう。わたしが、任された大きな仕事を果たせるように念入りな準備教育を受けたなどと書いてあるのもこっけいです。残念なことに、準備教育の中に単語のつづりを教えることが入っていなかったのてす。それさえあったら、どれだけ助かったか知れませんのに」-略-」

ローラと暮らしたサリヴァン先生。下「」引用。

「一八八六年サリバン女史はパーキンズ学院を卒業した。ケラー大尉が学院長にヘレンの教師を送ってほしいと頼んだ時、アナグノス氏は彼女を推せなした。ケラー大尉が依頼の手紙を書いた一八八六年八月から一八八七年二月までのわずかな機関に、サリバン女史は、生徒を教えるための準備をしなければならなかったが、その間に彼女はハウ博士の報告書を読んだ。さらに力になったのは、学院で学んだ六年間、彼女が寮でローラ・ブリッジマンと共に暮らしていたという事実であった。ローラ・ブリッジマンの教育によってサリバン女史の仕事を可能にししたのは、ハウ博士であったが、盲とろうの二重苦を持つ者に言葉を教える方法を発見したのは、サリバン女史であった。」

指導なし。下「」引用。

「サリバン女史が前人の経験助力に頼らず、独力で問題を解決しなければならなかったということを忘れてはならない。彼女がヘレン・ケラーに言語を教えた教育の代一年目には師弟はタスカンビアにいた。そして二人が北部に来て、パーキンズ学院を訪れたときも、ヘレン・ケラーは学院の教育を受けたり、正規の生徒であったことはない。サリバン女史が「アナグノス氏の指揮に従って」ヘレン・ケラーを教育したという印象があるのは、誤りである。ヘレン・ケラーはサリバン女史は三年間のうちに何度かパーキンズ学院に招かれたが、学院の教師たちはサリバン女史の手助けはしなかったし、アナグノス氏は意志疏通の方法としての指文字すら容易に使いこなす人ではなかった。アナグノス氏は一八八八年十一月二十七日付のパーキンズ学院報告書に書いている。「わたしの緊急の依頼に応じ、ヘレンは母と教師につきそわれて、五月の最後の週に北部へ来、学院の客として数ケ月滞在した……学院では、喜んで彼女が、浮出し印刷の書物類や動物の剥製、貝類、花や植物の標本などのコレクションや、その他触覚によって盲者を教える施設一切を自由に使用することを許した。ヘレンがそれらを大いに楽しみ、少なからぬ利益を得たことはたしかである。しかし自宅にいようと、どこかに旅行しようと、ヘレンの教育は常に彼女の教師、サリバン女史の直接の指導と単独の監督のもとに行われている。-略-」

サンタクロースに靴下2つ、見落としてはいけないとヘレン。

ベル博士の称賛。下「」引用。

「ベル博士は、ヘレンの進歩はろう者教育史上比類のないものであるというようなことを述べて、先生のわたしのこともほめちぎって下さっています。」








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