磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

びょうきのほん 3 福音館のかがくのほん

2010年04月14日 | 読書日記など
『びょうきのほん 3 福音館のかがくのほん』
   山田真・文/柳生弦一郎・絵/福音館書店1989年

いろんなことが書かれてあります……。



■もくじ■
もうちょう  4
ていりゅうこうがん  30
ほね  48
応急手あて  74
病気ってなに?  94
索引  108


応急手当まで書かれてありますね。
理解できる子どもが何人いることか?








もくじ

もくじ

もくじ

目次



エンタメ@BlogRanking



びょうきのほん 2 福音館のかがくのほん

2010年04月14日 | 読書日記など
『びょうきのほん 2 福音館のかがくのほん』
   山田真・文/柳生弦一郎・絵/福音館書店1989年

わりとくわしく書かれてあると思いますが……。
子どもたちは、理解できるのでしょうかね?
--あたまのいい子だろうなあー。



■もくじ■
しんぞう  4
じんぞう  36
ぜんそく  58
こうじょうせん  82








もくじ

もくじ

もくじ

目次



エンタメ@BlogRanking



びょうきのほん 1 福音館のかがくのほん

2010年04月14日 | 読書日記など
『びょうきのほん 1 福音館のかがくのほん』
   山田真・文/柳生弦一郎・絵/福音館書店1989年

字がいっぱいの本です。
字だけのページのほうが多いと思います。



さいしょのほうにこう書かれてあります。下「」引用。

「この本は、きみたちが「病気」や「からだ」のことを勉強する本です。-略-」

著者は小児科医だそうです。

■もくじ■
おふたくかぜ   4
水ぼうそう  30
とびひ  54
ぼうこうえん  74
かぜ  90









もくじ

もくじ

もくじ

目次



エンタメ@BlogRanking



『ザ・タイムズ』にみる幕末維新-「日本」はいかに議論されたか-

2010年04月14日 | 読書日記など
『『ザ・タイムズ』にみる幕末維新-「日本」はいかに議論されたか- 中公新書 1405』
   皆村武一・著/中央公論社1998年

表紙の裏に書かれてあります。下「」引用。

「「ザ・タイムズ」には一八五二年から一八七八年の二六年間に四五○の日本関係記事が掲載されている。この時期はペリーの浦賀来航から西南戦争、大久保利通の暗殺事件に当るが、政治・経済・文化・風土は勿論、単に異国の紹介というに止まらず、一八六四年の薩英戦争については、イギリス議会の議論内容を詳細に報道している。同時代外国紙が報道した、国際社会に入って激動する日本の姿を、他の外国人の見聞記などと合わせて描く。」



イギリス最古の新聞『ザ・タイムズ』1788年1月1日、不偏不党の新聞として創刊。

1862年、江戸のイギリス公使館で殺人事件。

「薩摩との交渉決裂、交戦に至る」

「国際法の原則に反する鹿児島攻撃」 下「」引用。

「イギリス人は、武器の威力を背景に日本に対して圧力をかけることにより、日本人がみずから自分自身のことをやっていくという当然の権利を侵害してしまった。
 さらに、イギリスは再び国際法の原則を無視して行動していた。-略-イギリスが首都(江戸)に押しかけることは、乱暴かつ挑発的である。疑いもなく賢い政策は、いくつかの商業港を開港しておくことがあり、今からでも威厳を損なわずに江戸から退却することである。イギリスは明らかに江戸に滞在する権利を保持していない。条約は、日本の法律に従って合法的に締結されたものとは思えず、ミカド(天皇)や貴族によって署名されていないのである。」

オリファント卿……。下「」引用。

「オリファント卿も、「日本人は親しみやすく、寛大な性格の持ち主であるという新鮮な印象を毎日味わうことができた。われわれは、道路脇の庭や小屋から流れてくる料理のおいしそうな匂いに驚きと喜びを感じた。普通の兵士ですら、絶えず本を読んでいる。全体として、日本の一般的な社会状態の水準をアジアの他の国と比較することはできない」と述べている。」

薩摩の貿易は、購入主は薩摩藩ではなく、琉球王国となっていたという。

日本に関する書物……。下「」引用。

「ヨーロッパの最良の図書館でも、こと日本にかんしてはほとんどなにもそえなえていないにひとしかった。あるものといえば、二百年以上も前に書かれ、すでに時代遅れとなったケンペルの古典的著作と、時代はくだるが、主として自然科学的興味をそそるだけのシーボルトとホフマンの書物(それも未完の)だけだった。また、その頃出版されたばかりのディクソンの『日本」とアンベールの『美しき日本』にしても、好奇心をあおりこそすれ、それを満足させるものではなかった。-略-」

人間の肉ほどうまいものはない……、マルコ・ポーロの『東方見聞録』より。下「」引用。
106「「チパング諸島に住む偶像教徒は、自分たちの仲間以外の人間を捕らえてくると、その男が身代金を払えない場合には、友人や親戚を残らず招待して、捕らえた男を殺して、みんな寄り合って食べる。彼らときたら、いろいろな食べられる肉のなかで、人間の肉ほどうまいものはないと心得ている」と、まったくありそうにないことを述べている。そういう叙述が、日本を宝の国・野蛮国というふうに西洋人に印象づけることになったのであろう。」

イギリス人ドーア。下「」引用。

「ドーアは、江戸時代の教育が、たんに「善い武士」「善い百姓」「善い町人」の教育にとどまらず、常に「より善い武士」「より善百姓」「より善い町人」への教育であり、その意味で、人々の向上の意欲を育てあげることができた。」

中国人と日本人。下「」引用。

「日本人は中国人のような愚かなうぬぼれはあまりもっていないから、もちろん外国製品の模倣をしたり、それからヒントをえたりしようとすることだろう。中国人はそのうぬぼれのゆえに、外国製品の優秀さを無視したり、否定したりしようとする。-略-」

西郷の死が報じられたという。下「」引用。

「一八七七年一一月二八日つけの『ザ・タイムズ』は、かつての薩摩藩英国留学生からの通報として西郷の死を報じている。
『西郷は、もっとも優れた、勇敢な、そして信頼された陸軍大将の一人であった。彼の死は、反乱軍(Rebel)の指導者であったにもかかわらず、すべての地方の人々によって悔やまれた』」

もくじ






もくじ

もくじ

もくじ



エンタメ@BlogRanking



高杉晋作と奇兵隊 幕末維新の個性 7

2010年04月14日 | 読書日記など
『高杉晋作と奇兵隊 幕末維新の個性 7』
   青山忠正・著/吉川弘文館2007年

高杉晋作もチャンバラドラマでは、きちんと表現されていない。
--ボクにはそう思えて仕方がない。



明治維新史跡「旧霊山官修墳墓」に、高杉晋作の墓碑があるが、名前が間違っているという。下「」引用。

「そもそも彼が病死したのは京都ではなく、下関(馬関)である。それに、「高杉晋作源暢夫」という名前がおかしい。高杉は死ぬ直前の慶応三年(一八六七)三月二十九日、谷潜蔵(たにせんぞう)という名前で新たなに一○○石取りの家臣に取り立てられ、大組に列していた。だから、墓碑の氏名としては「谷潜蔵」となるずである。それに、「源暢夫」は姓名のつもりだろうが、源姓は良いとして、諱(いみな)(実名)は春風であり、暢夫というのは、字(あざな)である。」

「東行墓」はあるが……。下「」引用。

「晋作の本当の墓は、遺言に従って、山口県吉田町の清水山にある。ここは、当時の長門国厚狭(あさ)郡吉田村であり、奇兵隊陣屋のすぐ近くでもあった。その碑面には、表に「東行(とうぎょう)墓」とだけあり、裏に「谷潜蔵源春風号東行 慶応三年丁卯四月十四日病歿赤間関(あかまぜき) 享年二十九」と刻されている。ありていに言えば、この世に「高杉晋作の墓」は存在しないのだ。」

十六歳で江戸へ。下「」引用。

「嘉永七年のことならば、晋作十六歳のときである。父の小忠太(小左衛門改め)が、又兵衛隠居により家督を継ぐのは、翌安政二年だから、晋作の肩書きは、たしかに「又兵衛嫡孫」である。この時点で、晋作が江戸に行っていたとすれば、父小忠太が〓尉公子(ろくのじょうこうし)の小姓(こしょう)として江戸に出た際、息子をともなっていたものと思われる。一時的な勤番と違って、ある程度の長期にわたり、江戸に滞在する定府の場合、家族を同伴することは珍しくない。ただし、当主である父又兵衛がすでに高齢であるため、嫁のミチをはじめ娘まで連れてゆくことは困難だったろう。」

「土佐藩士の坂本」の藩士とは……。下「」引用。

「-略-龍馬自身が坂本家の家督を継いだことはなく、嫡子でもなかったから、土佐山内家の家中(家臣)とも称しかねる。ところが、「土佐藩の坂本」と言えば、そのような煩わしさをすべて解消できるし、また、大名家を背負って活動しているわけではない草莽浪士の交流関係のうえでは、お互いにそれで十分である。」

晋作、学習院……。下「」引用。

「晋作は、右の書簡を出したしばらく後の閏八月二日、京都屋敷で、「学習院一件御用掛り仰せ付けられ、江戸において右御用引き請けの面々、申し談じ、所勤仰せ付けられ候事」との辞令を受け、江戸に向かうことになった。学習院はもともと公家子弟の学校だが、この当時は公家と武家(諸大名家臣)との折衝の場になっており、「京都における議政堂」と目され、毛利家では、一般に公武周旋に関わる事務のことを「学習院一件御用」と呼んでいた。周布政之助・山田亦介・桂小五郎が、先に任命されている(『周布政之助』)。晋作の京都出立は、閏八月六日だつた。」










もくじ

もくじ

もくじ

もくじ



エンタメ@BlogRanking