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高杉晋作と奇兵隊 幕末維新の個性 7

2010年04月14日 | 読書日記など
『高杉晋作と奇兵隊 幕末維新の個性 7』
   青山忠正・著/吉川弘文館2007年

高杉晋作もチャンバラドラマでは、きちんと表現されていない。
--ボクにはそう思えて仕方がない。



明治維新史跡「旧霊山官修墳墓」に、高杉晋作の墓碑があるが、名前が間違っているという。下「」引用。

「そもそも彼が病死したのは京都ではなく、下関(馬関)である。それに、「高杉晋作源暢夫」という名前がおかしい。高杉は死ぬ直前の慶応三年(一八六七)三月二十九日、谷潜蔵(たにせんぞう)という名前で新たなに一○○石取りの家臣に取り立てられ、大組に列していた。だから、墓碑の氏名としては「谷潜蔵」となるずである。それに、「源暢夫」は姓名のつもりだろうが、源姓は良いとして、諱(いみな)(実名)は春風であり、暢夫というのは、字(あざな)である。」

「東行墓」はあるが……。下「」引用。

「晋作の本当の墓は、遺言に従って、山口県吉田町の清水山にある。ここは、当時の長門国厚狭(あさ)郡吉田村であり、奇兵隊陣屋のすぐ近くでもあった。その碑面には、表に「東行(とうぎょう)墓」とだけあり、裏に「谷潜蔵源春風号東行 慶応三年丁卯四月十四日病歿赤間関(あかまぜき) 享年二十九」と刻されている。ありていに言えば、この世に「高杉晋作の墓」は存在しないのだ。」

十六歳で江戸へ。下「」引用。

「嘉永七年のことならば、晋作十六歳のときである。父の小忠太(小左衛門改め)が、又兵衛隠居により家督を継ぐのは、翌安政二年だから、晋作の肩書きは、たしかに「又兵衛嫡孫」である。この時点で、晋作が江戸に行っていたとすれば、父小忠太が〓尉公子(ろくのじょうこうし)の小姓(こしょう)として江戸に出た際、息子をともなっていたものと思われる。一時的な勤番と違って、ある程度の長期にわたり、江戸に滞在する定府の場合、家族を同伴することは珍しくない。ただし、当主である父又兵衛がすでに高齢であるため、嫁のミチをはじめ娘まで連れてゆくことは困難だったろう。」

「土佐藩士の坂本」の藩士とは……。下「」引用。

「-略-龍馬自身が坂本家の家督を継いだことはなく、嫡子でもなかったから、土佐山内家の家中(家臣)とも称しかねる。ところが、「土佐藩の坂本」と言えば、そのような煩わしさをすべて解消できるし、また、大名家を背負って活動しているわけではない草莽浪士の交流関係のうえでは、お互いにそれで十分である。」

晋作、学習院……。下「」引用。

「晋作は、右の書簡を出したしばらく後の閏八月二日、京都屋敷で、「学習院一件御用掛り仰せ付けられ、江戸において右御用引き請けの面々、申し談じ、所勤仰せ付けられ候事」との辞令を受け、江戸に向かうことになった。学習院はもともと公家子弟の学校だが、この当時は公家と武家(諸大名家臣)との折衝の場になっており、「京都における議政堂」と目され、毛利家では、一般に公武周旋に関わる事務のことを「学習院一件御用」と呼んでいた。周布政之助・山田亦介・桂小五郎が、先に任命されている(『周布政之助』)。晋作の京都出立は、閏八月六日だつた。」










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