『ビキニの海は忘れない 核実験被災船を追う高校生たち』
幡多高校生ゼミナール/
高知県ビキニ水爆実験被災調査団・編/
平和文化1988年
先輩の死を追っていた後輩たち……。このことは吉永小百合さんのナレーションで映画にもなったと他の本では書かれてありました。
主に二人の死をおっていく。きちんと背景も調べ上げていく。下「」引用。
「▼長崎で被爆し、さらにビキニで被災したマグロ漁船員、カツオ船で実習後病死した室戸水産高校生白血球減少症でした。この二人の青年の謎に満ちた事件の解明は、私たちの三年にわたる調査が続けられました。アメリカのビキニ水爆実験で犠牲になったのは第五福竜丸だけではなかったのです。」
ビキニ水爆実験による被災船の数はのべ856隻。
第五福竜丸以外の被災漁船員の存在は、歴史の闇に。
この30年間で事実関係をさびつかせ、事件を裏付ける公的資料の入手も困難。
被災者をつきとめるのも困難であり、すでに死亡、あるいは重病で話しもきけなかったという。
--「二重被爆」長崎でも被爆していた……。
藤井節弥は、二重被爆を苦にして自死。
母・馬(うま)に愛情深い手紙を残している……。
藤井馬は『被爆者の訴え』(高知県被爆者友の会編)に、文章に生き地獄を体験したことを書いている。
そして息子・節弥も数行便箋に残している……。
index
これは確実にそうですね。下「」引用。
「よく考えてみれば、「第五福竜丸だけが死の灰を浴びた」とするのは不自然なことだ。」
日米ともに政府は隠蔽に走ったのではないか?
【破られた手帳】
そして、節弥はメモを残す。下「」引用。
「「クリスマス島迄約七○○○K ビキニ迄約四○○○K 約百屯の航洋船デハ クリスマス島ニハ関係ナイガ ビキニハ大イニ関係アル サモア船団ニ少シ位被害ガアルカモシレヌ」
……クリスマス島までは距離があるので、この船では関係がない。しかし、ビキニ実験は大いに関係がある。長崎原爆被爆者である節弥が残したメモ。
--多くの実験
1956年5月4日から7月21日まで、アメリカは「レッドウィング作戦」と名づけた一連の核実験。ビキニ環礁で6回、エニウェトク環礁で11回実施(「アメリカ核実験公表記録」)。
【Nuclear Weapons Test-Redwing-Cherokee 3.8mt】
そして、先輩の死。
--毎日新聞(1954年9月30日付け)。下「」引用。
「船名・第五大国丸(室戸水産高校練習船一五トン)、帰港月日・五・二九、帰港地・焼津、危険区域からの距離・東経一四七度、北緯三三度(五月一八日)、水産高校漁業科三年谷脇正康(二一)、白血球が長期にわたって減少、二九日現在一五○○~一○○○で常人の六分の一」
妹が語る。下「」引用。
「兄が倒れた時、私はまだ小学生でした。じはらくして、兄のことが新聞やラジオで取り上げられると、病院にはたくさんの人がおしかけてきました。母は兄に新聞を見せないようにしていたようです。母は兄の看病疲れと心労で倒れ、いまもほとんど寝たきりです。兄の死後、船主でもあった父も亡くなり、家は倒産しました。……兄の死で、一家は大きな柱を失い、家族の運命は変わってしまったのです。」
--多い盲腸炎
遠洋漁協の漁師が、緊急に外国に入港した原因に非常に盲腸炎患者が多かったという。
盲腸炎は第五福竜丸の乗組員にも見られたという。
当時の日本の異常気候。下「」引用。
「たとえば和歌山県串本では、水爆実験のあった日の午前八時四○分頃から二時間半にわたって、波高二○~三○センチ、周期一二分の津波があった。ビキニから五時間ほどで日本の海岸に津波がとどいたのだ。しかも、この年、つまり一九五四年の六、七月の気候は異常で、北海道や東北地方の測候所では開設以来の低温を記録、各地で季節外れの雪が降っている。」
1985年ビキニ水爆実験のドキュメンタリー映画『HALE LIFE --半減期』(オーストラリアのデニス・オロウク監督)には、「ブラボー」爆弾の実験に参加した軍人・科学者・技師が証言者として登場している。
【他にも長崎出身被爆者】
高知県の乗組員、第八達美丸に乗っていた時、核爆発を目撃。
--夜空に稲光、夕焼けのように真っ赤になったという。2、30分して雨、作業を続けた。
--長崎出身の中島という乗組員は身体中にデキモノができてウミが出ていた。
大阪港につくとすぐ入院、後は知らない。
長崎県の管理主義教育の実態も非難していた。
とても被爆地・長崎とは思えない……。
ひかりのばら
【YouTube映画】Trinity And Beyond 広島・長崎原爆をこえた大量虐殺兵器
index
幡多高校生ゼミナール/
高知県ビキニ水爆実験被災調査団・編/
平和文化1988年
先輩の死を追っていた後輩たち……。このことは吉永小百合さんのナレーションで映画にもなったと他の本では書かれてありました。
主に二人の死をおっていく。きちんと背景も調べ上げていく。下「」引用。
「▼長崎で被爆し、さらにビキニで被災したマグロ漁船員、カツオ船で実習後病死した室戸水産高校生白血球減少症でした。この二人の青年の謎に満ちた事件の解明は、私たちの三年にわたる調査が続けられました。アメリカのビキニ水爆実験で犠牲になったのは第五福竜丸だけではなかったのです。」
ビキニ水爆実験による被災船の数はのべ856隻。
第五福竜丸以外の被災漁船員の存在は、歴史の闇に。
この30年間で事実関係をさびつかせ、事件を裏付ける公的資料の入手も困難。
被災者をつきとめるのも困難であり、すでに死亡、あるいは重病で話しもきけなかったという。
--「二重被爆」長崎でも被爆していた……。
藤井節弥は、二重被爆を苦にして自死。
母・馬(うま)に愛情深い手紙を残している……。
藤井馬は『被爆者の訴え』(高知県被爆者友の会編)に、文章に生き地獄を体験したことを書いている。
そして息子・節弥も数行便箋に残している……。
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これは確実にそうですね。下「」引用。
「よく考えてみれば、「第五福竜丸だけが死の灰を浴びた」とするのは不自然なことだ。」
日米ともに政府は隠蔽に走ったのではないか?
【破られた手帳】
そして、節弥はメモを残す。下「」引用。
「「クリスマス島迄約七○○○K ビキニ迄約四○○○K 約百屯の航洋船デハ クリスマス島ニハ関係ナイガ ビキニハ大イニ関係アル サモア船団ニ少シ位被害ガアルカモシレヌ」
……クリスマス島までは距離があるので、この船では関係がない。しかし、ビキニ実験は大いに関係がある。長崎原爆被爆者である節弥が残したメモ。
--多くの実験
1956年5月4日から7月21日まで、アメリカは「レッドウィング作戦」と名づけた一連の核実験。ビキニ環礁で6回、エニウェトク環礁で11回実施(「アメリカ核実験公表記録」)。
【Nuclear Weapons Test-Redwing-Cherokee 3.8mt】
そして、先輩の死。
--毎日新聞(1954年9月30日付け)。下「」引用。
「船名・第五大国丸(室戸水産高校練習船一五トン)、帰港月日・五・二九、帰港地・焼津、危険区域からの距離・東経一四七度、北緯三三度(五月一八日)、水産高校漁業科三年谷脇正康(二一)、白血球が長期にわたって減少、二九日現在一五○○~一○○○で常人の六分の一」
妹が語る。下「」引用。
「兄が倒れた時、私はまだ小学生でした。じはらくして、兄のことが新聞やラジオで取り上げられると、病院にはたくさんの人がおしかけてきました。母は兄に新聞を見せないようにしていたようです。母は兄の看病疲れと心労で倒れ、いまもほとんど寝たきりです。兄の死後、船主でもあった父も亡くなり、家は倒産しました。……兄の死で、一家は大きな柱を失い、家族の運命は変わってしまったのです。」
--多い盲腸炎
遠洋漁協の漁師が、緊急に外国に入港した原因に非常に盲腸炎患者が多かったという。
盲腸炎は第五福竜丸の乗組員にも見られたという。
当時の日本の異常気候。下「」引用。
「たとえば和歌山県串本では、水爆実験のあった日の午前八時四○分頃から二時間半にわたって、波高二○~三○センチ、周期一二分の津波があった。ビキニから五時間ほどで日本の海岸に津波がとどいたのだ。しかも、この年、つまり一九五四年の六、七月の気候は異常で、北海道や東北地方の測候所では開設以来の低温を記録、各地で季節外れの雪が降っている。」
1985年ビキニ水爆実験のドキュメンタリー映画『HALE LIFE --半減期』(オーストラリアのデニス・オロウク監督)には、「ブラボー」爆弾の実験に参加した軍人・科学者・技師が証言者として登場している。
【他にも長崎出身被爆者】
高知県の乗組員、第八達美丸に乗っていた時、核爆発を目撃。
--夜空に稲光、夕焼けのように真っ赤になったという。2、30分して雨、作業を続けた。
--長崎出身の中島という乗組員は身体中にデキモノができてウミが出ていた。
大阪港につくとすぐ入院、後は知らない。
長崎県の管理主義教育の実態も非難していた。
とても被爆地・長崎とは思えない……。
ひかりのばら
【YouTube映画】Trinity And Beyond 広島・長崎原爆をこえた大量虐殺兵器
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