磯野鱧男Blog [平和・読書日記・創作・etc.]

鱧男の小説などをUP。環境問題に戦争・原発を!環境問題解決に民主主義は不可欠!

もくじ・語りべ

2006年07月01日 | TOP【もくじ】
もくじ・語りべ


[児童文学]

ヒロシマ語り部の歌

[山岡ミチコさん]

もう一度 子どもたちの前に


[渡辺千恵子さん]

長崎を忘れない

[松原美代子さん]

原爆の絵アメリカを行く

[沼田鈴子さん]

平和の芽 語りつぐ原爆・沼田鈴子ものがたり

青桐の下で 「ヒロシマの語り部」 沼田鈴子ものがたり

ヒロシマ花一輪物語 被爆者・沼田鈴子の終わりなき青春

2011-8/30

[坂本文子さん]

紅梅-坂本文子・遺稿・追悼文集-

[笠原美代さん]

八月九日の語り部

[江頭千代子さん]

原爆先生 ナガサキに生きる

[高田チエ子さん]

夾竹桃(きょうちくとう)の花ふたたび

[神戸美和子さん]

ひろしまの夏

[黒川万千代さん]

猫ちゃんは帰らない 何よりも平和を


[出島艶子さん]

戦争は終っていない----- 出島艶子さんの《ヒロシマ》

[佐伯敏子さん]

ヒロシマに歳はないんよ

[高橋昭博]

ヒロシマ いのちの伝言 被爆者 高橋昭博の50年

ヒバクシャのこころ

■多 数■

NHK戦争を知っていますか


[被爆者の声の伊藤明彦さん]

未来からの遺言 ある被害者体験の伝記

シナリオ 被爆太郎伝説

原子野の『ヨブ記』

被爆者の声 伊藤 明彦さん 死去

[修学旅行]

碑(いしぶみ)に誓う 中学生のヒロシマ修学旅行


【CD関連】

原爆と日常-聴覚的面のデジタル化-

図書館でCD貸し出し中

【高校生との交流】

絆(きずな)-高校生とヒロシマ


語り部ではありません。間接的ですが、内容には意味があります。

index


【関連サイト】

生々しいヒロシマ・ナガサキの証言が聞けます!

平和データベース
↑をクリックして、「被爆者証言ビデオ」をさらにクリックしていって下さい。

ヒロシマの心を伝える会

シリーズ 被爆者の証言【NBC長崎放送】

【中国新聞】

被爆者の伝言
被爆者から若者へ ヒロシマを聞く


NHK平和アーカイブス ETV2000シリーズ
太平洋戦争と日本人 伝えたし、されど……


















核関連Web小説

ナガサキの原爆読本   上級用 原子野のこえ

2006年07月01日 | 読書日記など
『ナガサキの原爆読本
  上級用 原子野のこえ』
  長崎県原爆被爆教師の会 平和教育資料編集委員会・編/
    長崎教職員組合1972年、1980年5版

小学校上級でもかなりのことが書かれあります。



ガラスの中に手というのが写真も掲載されていました。そして下「」引用。

「そのガラスの中に人間の手があるのです。手の骨が付着しているのです。これこそ永久に原爆をのろいつづける人の手です。かつてはしなやかに動いたその手が、あの日からガラスにとざされて動かないのを、正男はぼうぜんと見ていました。」

聖書では、のろいはよくないものされていますね。
そして、のろうのはたぶん、霊魂であって、遺骨ではないとボクは思います。

永井図書館のことが書かれてありました。長崎の永井隆と、広島の長田新はいろいろと、地域で貢献され方だとつくづく思います。

ながい桜のことも書かれてありました。下「」引用。

「そういえば、校門の坂や、運動場のさくらの木も、博士が寄贈されたもので、みんな「ながいざくら」といって親しんでいます。」

このことは永井隆の文章にもかかれてありました。

長崎の人は桜好きなのかなあ? 
日本人なら、そうかもしれませんね……。
ぼくは梅が好きですね。


学校工場というのが、書かれてありました。下「」引用。

「わたしは、昭和十八年から、三菱造船所の近くにある飽浦(あくのうら)国民学校につとめていました。−略−
 このようにして、あいた教室のうち、二つの教室の間のかべをこわして仕切りをなくし、ゆか板をはいで、そこへ三菱造船所から二十八台の工作機械をはこんできてすえつけ、学校工場をつくりました。これは、工場の疎開といえます。
 ところが、機械の音がゴウゴウと鳴り、近くの教室では勉強ができなくなり、二階の職員室までも、その音が聞こえてきました。
 また、五・六年の子どもたちは、体育の時間などに、ろうかにこしをおろして、三菱の工場から持ってきたまがった鉄線を、金とこの上にのせ金づちでたたいてのばしていました。」


三菱の兵器工場があったから、原爆投下されたという方は多いですね。






目 次






愛と不安の夏 原爆乙女沙依子の軌跡

2006年07月01日 | 読書日記など
『愛と不安の夏 原爆乙女沙依子の軌跡』
   田中舘哲彦(たなかだて・てつひこ)/主婦の友社s62年

原爆乙女をテーマにした、
フィクション(小説)です。



このBlogでは何度か「原爆乙女」という言葉を
使ってきましたが、彼女たちはアメリカで呼ばれた
「ヒロシマガールズ」を好まれたそうです。
訳せば「ヒロシマ娘。」かな?

大きな事業あるいは運動だった僕は思います。下「」引用。

「文豪で知られるバール・バックやジョン・ハーシー等の文化人が支援した。カズンズしの嘱託医であり、ニューヨーク五番街にある歴史も権威もある「マウント・サイナイ病院」の副院長だったW・ヒッチング博士が強力にあと押しした。同病院が無償で二十五人の被爆乙女たちの入院、手術の治療に当たることょを受け入れた。
 博愛主義をモットーにするキリスト教の一宗派、クエーカー教の人々、民間人の有志が協力を申し出た。資金づくり、宿泊施設……。二十五人のホームスティを提供した家は九十五家族に上った。テレビや新聞でそのプロジェクトを知り、一般の人々から五万六千ドル(当時で二千万円)の募金も寄せられた。激励の手紙や訪問者も相次いだ。
 二十五人の乙女たちはそれから一年余りの間に総計三十三回の手術を受け、ケロイドの修復、機能障害の回復の闘病生活を過ごした。なお、二十五人のホームスティ、入院等の生活の差配には、戦前に米国に学び、終戦直後はABCC(原爆傷害調査委員会=アメリカがつくった組織)で働いていた横山初子女史が当たった。夫と三人の子と離れての献身であった。また、手術には日本の医師も立ち会い、その執行に手を尽した。」

その日本の医師の一人が原田東岷という方です。

日本人は原爆乙女を無視していたわけでもない。
有名人が募金をしていたという。同。

「一九五二年秋、作家・真杉静枝の呼びかけを受けて、石川代志子(作家の石川達三夫人)、轟夕起子、長谷川一夫、乙羽信子、田中絹代、高峰秀子、柳家金語楼、古川ロッパら俳優の協力をによる治療募金を得て、東大病院・小石川分院ですでに数度の手術を受けている者もいた」

アメリカで治療が成功した喜びは大きかったようです。
一年間の長き滞在でしたから、進路まで考えておられたようです。

二人の乙女はホームスティ先の「里親」の知り合いから
陶芸を習ったという。
また点字タイプを習ったり、洋裁学校、美容学校、
デザイン学校、ファッションスクールなどに通ったという。

四人が外国で暮し、一人はアメリカ人と結婚したという。
アメリカは自由の国と、この方たちを知ると思います。

しかし、すべての人がそうではないのです。
原爆製造し、今も核兵器で平和をつくっていると、
恐喝的にいう方もおられる国ですね。

平和ではなく、消極的な戦争抑止でしかなく、
上辺では止まっているというべきではないでしょうか?





もくじ





エンタメ@BlogRanking



原爆の子●12●空白への挑戦 反戦詩に偏向批判

2006年07月01日 | 読書日記など
朝日新聞夕刊1991年7月11日
原爆の子●12●
空白への挑戦

反戦詩に偏向批判
教委と教祖真っ向対立


「『原爆の子』を読んでその感想を書いた青森県・黒石小学校四年根岸の「おとな」という詩である。青年教師鈴木嘉代春が五十人の四年生全員に書かせ、手がけていた文集『みつばちの子』にのせた。それが転載されたのだ。子どもの目に映った、戦争を憎む気持を素直につづったものだった。ところが、それが社会問題になるのである。」


鈴木嘉代春さん。あの「事件」のあと、
青森を訪ねた長田先生に励まされたこと
が印象深いという
=東京都葛飾区の自宅で


「おとな

ぼくたちの苦しみも考えないで
せんそうをはじめている
そのため ひろしまピカドンおちて
たくさん人が死んだ

いまのおとなはこうして
人にめいわくをかける」


時代背景を考えると、
「戦争反対、平和教育と聞いただけで左翼だ」
という人がいた時代らしいです。

足の不自由な子どもが、早く逃げられないから戦争はやめてと書いても、偏向教育だったそうですよ。どちらが偏向されているか?

僕はそれぞれの立場で、それぞれの価値判断があってこそ、国民国家は作られると書く方のほうをとりますね。

いろいろな物差しを人はもって生きていますね。
そこを離れて努力することは誰もできないのです。

人をロボットのようにしたら、その国家はダメになると僕は思います。









もくじ










日経おとなのOFF おとなの京都事典

2006年07月01日 | 読書日記など
『日経おとなのOFF おとなの京都事典』
   「日経おとなのOFF」特別編集/
      日経ホームマガジン2006年

「1年365日愉しめる、全277の風景・名刹・名店・名宿
ガイドブックでは分らない「京都・おとなの歩き方」をすべて見せます!」
と、表紙に書かれてありますね。



祇園祭ですね。



高いところから、祇園祭を観られるというわけらしい。要予約らしいです。
たぶん、もう今年はダメでしょう。
見晴らしはええみたいですね。
屋根にいる兄ちゃんもしっかり見えますね。

真夏にごくりと三室戸寺ハス酒が飲めるそうです。

岡崎桜回廊十石舟めぐり

桜について生物について、ええ文章が掲載されています。これは大切なことと思われます。ぜひ、よく読んでくださいませ。下「」引用。

「「桜といえば山桜か彼岸桜のこと京都の桜は染井吉野ではありません」
    京都・植藤 第十六代 桜守 佐野藤右衛門
−略−なぜ、染井吉野が京都の桜ではないのか。それは生れてからせいぜい100年ちょっとの歴史しかないからです。
 もともと染井吉野は江戸時代に東京でうまれたもの。接木が簡単で定着率が高く、すぐに育つ。人間の都合によい“便利な桜”として、全国各地に植樹されました。でもクローンと同じやから、容姿も咲き方も同じ。ハナを一斉に咲かせて、一斉に散る。だから日本中、どこに行っても同じ風景。見方を変えれば、可哀相な桜やわ。
 しかも、ここに来て染井吉野の老木が寿命を迎え始めている。100年経ってやっと染井吉野の特徴が分り始めた。京都のこともせやけど、自然の凄さは100年くらい経ってみないと、その良さが分からんということですよ。」


それにくらべて、京都の桜とこの渋い御仁がいわれるものについても書かれています。下「」引用。

「何百年もの樹齢を持つ桜は、京都ではざらですわ。嵐山に行って目の前の山にぱっと咲く山桜にも、300年、400年も経った桜が普通に混ざっています。
 そんな長い年月を重ねた桜にこそ、美しい花が咲くものなのです。「姥桜」というと、少し女性差別みたいに聞こえるかもしれませんが、桜のもつ“色香”は姥桜にしか出せません。若い木は“色気”があるけど、“色香”はない。皺くちゃになった幹の姥桜は、はっとするほど美しい花をつけるのです。」


遺伝子操作の大豆食べたく余計になりました。(-_-;)

いい加減に大量生産されている外国製品は食べたくありません。(-_-#)






もくじ



エンタメ@BlogRanking