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龍の声

龍の声は、天の声

「弘法大師空海 真言密教④」

2018-08-10 05:38:22 | 日本

◎第六住心 他縁大乗心(たえんだいじょうしん)

「無縁に悲を起して、大悲初めて発る。幻影に心を観じて、唯識、境を遮す。」
(むえんんいひをおこして、たいひはじめておこる。げんえいにこころをかんじて、ゆいしき、きょうをしゃす。)

すべての衆生に愛の心を起こすことによって、大いなる慈悲がはじめて生ずる。すべてのものを幻影と観じて、ただこころの働きだけが実在であるとする。

他者を救済するために慈悲の行いを実践する大乗の「菩薩」の段階(法相宗)。
すべての衆生を救うこと〔他縁〕を目的とする大乗仏教の最初の段階。
すべての衆生を救うことを目的とする大乗仏教の最初の段階。
他人の悟り(利益)にも重点を置きだす。この境地にある人を菩薩(ぼさつ)と呼ぶ。

菩薩の境地
他縁とは、縁に囚われず、慈悲の心を全ての人に起こし、他者の救済のためにはたらく心。
菩薩、つまり、ここにいう他縁乗とは、すべての人たちをみな同じく救済しようという大きな誓いをおこして、
生きとし生けるもののために菩薩の道を実践し、不信心の者や声聞・縁覚のうちまだ安らぎの位にはいらない者をも、心服させて大乗の教えに入らしめる。
菩薩は、幻や陽炎のように、あるように見えて実際には存在しない心のありかたの観察にひたすら意をそそぐ。
菩薩は、心のみが真実であると悟る。心に映ったさまざまな映像は虚妄であると悟る。「唯識」と言う見方をされる。
(この世にはただ認識をすることのできる主体だけが存在するという考え方)
そしてことばも文字も離れた境地に、平穏無事の風をあおぐ。唯一真実の台に両手を組んで敬礼し、真理の世界に安らぐ菩薩の心の状態。ただ、その修行には無限に長い時間がついやされる。


◎第七住心 覚心不生心(かくしんふしょうしん)

「八不に戯を絶ち、一念に空を観れば、心原空寂にして、無相安楽なり。」
(はっぷにけをたち、いちねんにくうをみれば、しんげんくうじゃくにして、むそうあんらくなり。)

あらゆる現象の実在を否定することで、実在からの迷妄を断ち切り、ひたすら空を観じればなんらの相(すがた)なく安楽である。

「空」の論理によって一切の実在を否定する「空観」の段階(三論宗)。
心は何ものによっても生じたのではない。すべての相対的判断を否定し、心の原点に立ち返って空寂の自由の境地〔中道〕に入ることを目指す。法相宗の心を示す。
心の本性は生じることもなければ、滅びもしないと悟り、また森羅万象は全て縁によって起こる、即ち空(くう)と観て中道(ちゅうどう)を歩みだす段階。
物質に実体性がない(無我)だけではなく、自分の心に起こることも、実体がなく、本来不生であると悟る。三論宗の境地。
「心に映るものは本来生じたり滅したりせず、心は本来静かに澄みわたっている。」
この時、心主(心の主体)は自由自在になり、物の有る無しに迷うこともなく、自利・利他の行為を心のままに成すことができる。
この絶対の自由の状態を心王という。
それを悟れば、「遂にとうとう、阿字門(万有一切の本源を不生阿字で象徴する部門)にはいったのである」と大師は説かれる。本来生起しないとは、「不生、不滅、不断、不常、不一、不異、不去、不来」の八つの不の意味である。
寂滅平等の真実の智恵に住して失うことがない。


◎第八住心 一通無為心(いちどうむいしん)

「一如本浄にして、境智倶に融す。この心性を知るを、号して遮那という。」
(いちじょほんじょうにして、きょうちともにゆうす。このしんしょうをしるを、ごうしてしゃなという。)

現象はすべて清浄であって、認識としての主観も客観もともに合一している。
そのような心の本性を知るものを、仏(報身の大日如来)という。

「空・仮・中」の唯一絶対の真理、「空性無境」の「法華一乗」の段階(天台宗)。
万物は真実そのものであり、本来清浄なものである。
この境地に入るとき、従来の教えは一道に帰するはずである。法華、天台の境地。
「一念三千(いちねんさんぜん)」や「十界互具(じゅっかいごぐ)」を説く法華経の世界。
凡ての人に仏性、悟りの可能性を観ることが出来る境地。
「白蓮花のような『法華経』の教えによる精神統一」という瞑想にはいって、人びとが本来もっている徳性は汚れに染まらないと観想し、全ての人の心が清浄であることを知る。
止と観の観想を行なう。(この止観は、澄みきった水そのものと事物を映し出す水のはたらきとの関係のようなものである)静かであってよく照らし、照らしていて常に静かである。
この時、心の認識する対象(境)は、悟り(心)であり、悟りの智恵が認識の対象であることを知る。
「自分の心は清らかであり、心は外にもなく、内にもなく、その中間にもない。心は欲の世界のものでもなく物の世界のものでもなく精神世界のものでもない。」ことがわかる。
「心は眼・耳・鼻・身・意の世界にもなく、見るものでもなく、顕現するものでもない。 
心は虚空と同じであり思慮や思慮のないことを離れたものである。
自分の心そのままが、真実世界の心と同じである。それは、そのまま悟りと同じ。
心と虚空と菩提とは一つのものである。慈悲を根本として、他の者を救う手段(方便)を満足する。
菩提とは、「ありのままにみずからの心を知ることであると悟る。」と弘法大師はこの状態を説明されている。


◎第九住心 極無自性心(ごくむじしょうしん)

「水は自性なし、風に遇うてすなわち波たつ。法界は極にあらず、警を蒙って忽ちに進む。」
(みずはじしょうなし、かぜにおうてすなわちなみたつ。ほうかいはきょくにあらず、けいをこうむってたちまちにすすむ。)

水はそれ自体定まった性はない。風にあたって波が立つだけ。
さとりの世界は、この段階が究極ではないという戒めによって、さらに進むものである。

対立を超え一切万有が連関し合う、重々無尽の「法界縁起」の段階(華厳宗)。
世界には一つとして固定的本性はなく、すべてがそのまま真実そのものであるとみる境地。華厳宗の心の段階。
「法界縁起(ほうかいえんぎ)」や「蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)」を説く華厳経の世界。
宇宙のなかの全ては互いに交じり合いながら流動していることを悟る境地。
仏は空の悟り(無為)がまだ究極ではないことをさとす。
華厳経には、海印という精神統一に入り、法の性質が互いに溶け合っていることを悟る。
一人の修業者の心が大なる仏の心に等しいことを知る。「一と多が互いに融合している。」
一人一人の心が、仏と何も変わらず、同一のものであると悟る。一つ一つの心が互いに溶け合っている。
初めて悟りを求める心を起こした瞬間に悟りの世界にはいる。という華厳三昧の世界である。
しかし、この三昧はまだ完全な悟りではなく、一切如来より「鼻先に月輪を想い、月輪の中にオン字の観を成さずして成仏を得ることはない。」と知らしめられる。

 
◎第十住心 秘密荘厳心(ひみつしょうごんしん)

「顕薬塵を払い、真言、庫を開く。秘宝忽ちに陳じて、万徳すなわち証す。」
(けんやくちりをはらい、しんごん、くらをひらく。ひほうたちまちにちんじて、まんどくすなわちしょうす。)

密教以外の一般仏教は塵を払うだけで、真言密教は倉の扉を開く。そこで倉の中の宝は、たちまちに現れて、あらゆる価値が実現されるのである。

宇宙法界の人間的な真実相を示す荘厳の「マンダラ」の段階(真言宗)。
ここに至って万物は真実のあらわれとして、大きな歓びをもって万人の知、情、意に受けとめられる。真言秘密の境地言語、分別を超えた境地である故に「秘密」と云う。
「大日経(だいにちきょう)」「理趣経(りしゅきょう」を経典とし、言葉、文字を超えた秘密の世界を説く真言密教の世界。
世界、即ち大日如来(だいにちにょらい)と自己が一体化した究極の境地 機根 (信仰心と能力のある) を持つ者を、法界マンダラに入れしむ。
「全ての人は、貪り、瞋り、痴さを離れ、月輪の観想をすることにより本来の心の姿を見ることができる。
それは清らかで、満月のように虚空に普くして隔てがない。」修業者の心と、仏、そして生きとし生ける者一つ一つの心が互いに溶け合っている様子を悟る。
身語意の働きを本尊の働きと合一して初めて、この真理の世界にはいることができる。見たり、とかではなく、三密の合一によって、仏の不思議な力を感じそして、この世界にはいることができる。
「行人慇懃に修習して、よく三密を本尊に同ぜしむれば、この一門より法界に入ることを得る。
即ち、これ普く法界門に入るなり。」加持をもって各々法界の一門より現じて、一つの善知識の身となることを得る。
この時、心が量り知れないことを知り、身体も無量であり、知も無量である。生きとし生けるものも(衆生も)無量であり、虚空も量り知れない。無量の心識、無量の身を会得する、ここに秘密荘厳心がある。
初めの法門の実行をした者を利益し、如来加持して、大神通力を奮迅示現したまう。一つの平等の身より普く一切の威儀を現ずる。この威儀は秘密の印でないものはない。一平等の語より普く一切の音声を表わす。かくのごとき音声は全て真言である。一平等の心から普く一切の本尊(三昧の状態の本尊)を現ず。
しかし、この大日如来の三昧地の法を未潅頂の者に説いてはならない。たとえ、同じ行をしているものにも、容易く説いてはならないと、戒められている。















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