龍の声

龍の声は、天の声

「炎の遺書 留魂録 二十一回猛士 ④」

2013-02-19 19:02:33 | 日本

<第6節>
間部要撃策の件で、事が成らずの時は刺し違いで死ぬこと、警護の者が邪魔する時は切り払うべしとの事につき、実際には私が云っていないことである。然るに三奉行が強いてそのように書き記し、私を誣告しようとした。私は、そのようなことは云っていないのであるから認める訳にはいかない。これにより、16日、署名の席に臨んで、石谷、池田の両奉行と言い争いになった。私は、死を恐れたのではない。両奉行の策略に屈服しない為である。これより先の9月5、10月5日の両度の吟味に吟味役までもが共に申立たのだが、死を恐れず反論した。必ずしも刺し違えや切り払いの策を講じていたのではないと。吟味役もこのことを認めていたのに、供述書に書き記すのは良からぬ策略ではなかろうか。然れども、ここに至って刺違切拂の両事に拘り認めないのは却って我々の信念の激烈を欠くことになる。同志の諸友もそう思うのではなかろうか。私も惜しまない訳ではない。よくよく考えると、身を犠牲にしても仁をなし、正義を貫き通したい。言葉尻の得失はどうでも良くなった。そういう訳で、相手の言うがままに認め、これにより策略による私の死が確定するところとなつた。全ては天地神明の照鑑(しょうかん)上にある。何を惜しむことあらん。


<第7節>
私は、これまでも今も単に生を得ようとしたことはない。死を求めたこともない。ただ、誠の道を訪ねて寿命は天命に委してきた。このたび7月9日、死を覚悟して取り調べに臨んだ。ところが、続く9月5日、10月5日の取調べが寛容なためにひょっと生きることができるのかと思った。これを慶んだ。これは命を惜しんでの気持ではない。安政5年12月30日、攘夷は一時猶予、いずれ公武合体により攘夷すべしとの勅状が幕府に下った。今春3月5日は、藩主はすでに萩をたち、策はなくなった。これにより処刑が切迫する身となった。6月末、江戸に来て、夷人の様子を見聞きした。7月9日、獄に繋がれた。天下の形勢を考えると、神国の為に私が為さねばならないことを悟り、初めて今生きていることを幸とする気持ちがふつふつと湧いた。私がもし命を長らえるとしたら、神国の為に更に尽さんとぞ思う。しかし、16日の調書で、三奉行がどあっても私を処刑にせんとしていることがはっきりし、生を願う気持をなくした。こういう気持になれたのも平素の学問の力であろう。


<第8節>
一、今日、私が死を覚悟して平穏な心境でいられるのは、春夏秋冬の四季の循環について悟るところあるからである。けだし、農事では春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れる。未だかって、この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるのを聞いたことがない。

私は現在三十歳。未だ事を成就させることなく死のうとしている。農事に例えれば未だ実らず収穫せぬままに似ている。そういう意味では生を惜しむべきかもしれない。そうではあるのだが、私自身について云えば、私なりの潮時なのであり、花咲き実りを迎えたときなのだと思う。だから哀しもうとは思わない。なぜなら、人の寿命は銘々で定まりがないのだから。農事は四季を巡って営まれるが、人の寿命はそのようなものではない。

人にはそれぞれに相応しい春夏秋冬がある。十歳にして死ぬものには十歳の中に自ずからの四季がある。二十歳には二十歳の四季が、三十歳には三十歳の四季がある。五十には五十の、百には百の四季がある。十歳をもって短いというのは、夏蝉(せみ)のはかなき命を長寿の霊木の如く命を長らせようと願うのに等しい。百歳をもって長いというのも長寿の霊椿を蝉の如く短命にしようとするようなことで、いずれも天寿ではない。

私は三十歳、四季はすでに備わっているとすべきであろう。私なりの花を咲かせ実をつけているはずである。それが単なる籾殻(もみがら)なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、私がささやかながら尽くした志に思いを馳せ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それは即ち種子が絶えずに穀物の年々の実りと同じで、私の命が生き続けていることになる。同志諸君よ、この辺りのことを熟考せよ。


<第9節>
東口揚屋(ひがしぐちあがえいや)(松陰は西口にいた)にいる水戸の郷士堀江克之助(ほりえよしのすけ)とはこれまで面識はなかったが心友である。真の為になる友である。彼が私に曰く、その昔、矢部駿州は、桑名侯へ御預けの日より絶食して仇を呪って死を全うした。足下も死を覚悟するからには祈念を篭めて内外の敵を呪詛せよと。丁寧に告戒してくれた。私は、その言に感服した。又、鮎沢伊太夫(あゆざわいだゆう)は堀江と同房しており、私に告げて曰く、あなたの沙汰がどう出るかは分からないが、もし遠島されれば天下の事は全て天命に委ねるしかあるまい。但し、天下の益になることについては同志に後事を託し、言い置くべきことを伝えておかねばならない。この言は、大いに私の志を強めた。私が祈念を籠めるところのものに対して、同志は甲斐甲斐しく私の志を継承し、必ずや尊攘の大功を建てんことを願う。私が死んでも、堀江、鮎沢の両氏は遠島になろうが獄にいようが、私の同志たらんとする者は交わりを結んで欲しい。又、本所亀沢町の山口三輶(やまぐちさんゆう)は義に厚い人のようで、堀江、鮎沢の両氏の内外の世話取りをされている。特に言及しておきたいことは小林民部(こばやしみんぶ)のことで、堀江、鮎沢の両氏の意向を受けて小林の為に周旋している。この人について思うに、非凡な方ではなかろうか。三氏への連絡は、この三輶老にすれば良い。


<第10節>
堀江氏は神道に熱心で、天皇を崇敬し、その御政道を明らかにし異端邪説を排除せんと奮闘している。その教えをまとめて本を出版しようとしている。私が思うに、本の出版は良いことだが更に策を講じ、京都に大学をつくり、天朝の御学風を天下に示し、全国の優秀な人材を集め、天下古今の正論、定説を編集して書物をつくり、その学問を普及せしめ、これを世に広めていけば人心は確固としたものとしてまとまるのではなかろうか。そういう訳で、私は平素より子遠と密議し、尊攘堂建設のことを堀江に謀り、この役を子遠に任じた。子遠れを入江杉蔵に託した。子遠が能く同志と謀り、内外の同志をしてこれに向かわしめれば私の志も幾分か叶うであろう。去年、勅諚綸旨等の事につき挫折したが、尊皇攘夷は已むべきものではないので、もっと善い方法を編み出し、この運動の緒を継承せねばならない。京師学校の論も言うまでもなく然りである。




「炎の遺書 留魂録 二十一回猛士 ②」

2013-02-19 18:55:25 | 日本

◎.留魂録概要


留魂録は、刑死の前日、即ち安政6年10月26日の夕方、江戸の獄舎で書かれたもので、松陰の遺言書というべきものである。「留魂録」は「…留め置かまし大和魂」からきている。

「身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも留置(とどめおか)まし大和魂」

これは吉田松陰の遺書『留魂録』の冒頭に書かれた辞世の歌である。この和歌の意を表すように、自ら留魂録と名づけた。この留魂録は弟子にあてた遺書であり、肉親宛てには別に遺書を書いている。そちらの方は、

「親思うこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらん」

という有名な辞世の一首で始まっており、こちらは完全に私的なもので、親族に語りかけたものである。

留魂録は16章からなっており、松陰が死を前にした心境やそこに至った心の変化や、死を言い渡されるにいたった役人とのやり取りの経過、その中で幕府への意見を述べたことやそれに対する幕府の反応、幕府の役人への感想や評価、哲学的な見方、死生観、更には安政の大獄でとらえられた人物との獄中での交流が語られ、その中には面識はなかったが、橋本佐内の死を惜しんでいる部分もある。またそれらの人物についての連絡法や、そこからたどれる人脈についても書かれ、門弟にそれらの人びとと連絡を取り、同志として交流し、自分が果たせなかった約束を代わって果たしてくれるように頼んでいる。またこれらの人に門弟達のことを話しておいたということと、それは今後のことを考えてのことだということを書いている。

松陰は、たとえ幕府の役人であろうと、

「至誠にして動かざる者は未だ之有らざるなり」

という孟子の言葉を信念として動いたが「終(つい)に事をなすこと能わず、今日に至る」それはわが徳の薄さ故であって、誰を怨むことがあろうかと言って、従容と潔く討たれた。

松陰が死罪となったのは、老中間部詮勝の暗殺を企てたのを自ら自白したのが原因であり、そうでなければ死罪はありえなかったのである。松陰は幕府の役人と話すことで幕府に諫言できると思い、幕府の政策への意見を述べるうちにうっかりしゃべってしまったようである、と某松陰研究家は言う。それでも生きて帰ることに一縷の望みを懐いていたが、結局は叶わなかった。うっかりとはいえ死罪に相当する自白までして、それでも自分の幕府への意見がまったく取り上げられずに、握りつぶされてしまったことや、罪状が自分の証言とは違って適当に役人に作り上げられてしまっていることなどに悔しい思いがあったようである。死に臨んで、自分の憂国の情を弟子たちに引き継いでほしいという思いが、この留魂録を書かせたのであろう。生きていれば自分が、ここで知り合ったすぐれた人物と交流し、尊王攘夷の運動をしていくであろうはずの未来を弟子に託そうとしたようにみえる。

この留魂録は同文のものが二通作られた。二日でこれを書くにあたって、松陰と同じ牢にいた牢名主の沼崎吉五郎の好意がなければ完成も門下生への引き渡しもできなかったかもしれない。沼崎は福島藩士能勢久米次郎の家臣で、殺人容疑で牢につながれていたが、冤罪であったようである。沼崎は松陰を尊敬し、松陰から孫子、孟子の講義を受けている。親身になって松陰の世話をして、留魂録を含めた遺品を自分の手紙を添えて門下生に無事渡すことに成功した。松陰は留魂録が没収されることを考えて、もう一通を沼崎に託し、牢から出たら、長州の人間なら誰でもよいから渡してくれと頼んだ。沼崎はこの遺書を肌身離さず持ち歩き、三宅島に遠島になるときには褌に隠して渡ったと言う。そうして明治九年に自由の身となった沼崎によって、約束が果たされ、もう一通が陽の目を見た。弟子に渡った方は紛失してしまい、写本には抜け落ちた文章があった。直筆の留魂録の完全なものが伝わったのは、この沼崎の松陰の心に感応した篤志によるものであった。





「炎の遺書 留魂録 二十一回猛士 ①」

2013-02-19 18:55:25 | 日本

日本人の魂をゆさぶる生き方を示した吉田松陰。
今回は、先師の論文「留魂録二十一回猛士」をひも解き、その生き方について5回にわたり学ぶ。



吉田松陰は、幼時の名字は杉。幼名は虎之助。吉田家に養子入り後、大次郎と改める。通称は寅次郎。諱は矩方。字は義卿、号は松陰の他、二十一回猛士。松陰の号は寛政の三奇人の一人で尊皇家の高山彦九郎のおくり名にちなんでつけられた。また、「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、および、「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解でき、これらを組み合わせると「二十一回」となることによりつけられている。

文政13年(1830年)8月4日、萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となるが、天保6年(1835年)に大助が死去したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。11歳の時、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。
しかしアヘン戦争で清が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。ついで、江戸に出て佐久間象山に師事する。

嘉永5年(1852年)、友人である宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形(通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸で会沢正志斎と面会、会津で日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田では相馬大作事件の真相を地区住民に尋ね、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を視察し、西洋の先進文明に心を打たれ、外国留学を決意。同郷の金子重之輔と長崎に寄港していたプチャーチンのロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争にイギリスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航した為に失敗。
安政元年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には金子と二人で伊豆下田港に停泊中のポーハタン号へ赴き、乗船して密航を訴えるが拒否された(一説ではペリーの暗殺を計画していたともいわれる)。松陰は乗り捨てた小舟から発見されるであろう証拠が幕府に渡る前に下田町隣村の名主に自首し、下田で取調べを受けた後、伝馬町の牢屋敷に送られた。この密航事件に連座して佐久間象山も投獄されている。幕府の一部ではこのときに佐久間、吉田両名を死罪にしようという動きもあったが、老中首座の 阿部正弘が反対したため、助命されて長州へ檻送され野山獄に幽囚される。獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に著す。

安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、吉田稔麿、入江九一、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義などの面々を教育していった。なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。

安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。だが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫した。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される。

やがて大老・井伊直弼による安政の大獄が始まると、江戸の伝馬町牢屋敷に送られる。幕閣の大半は暗殺計画は実行以前に頓挫したことや松陰が素直に罪を自供していたことから、「遠島」にするのが妥当だと考えていたようである。しかし松陰は尋問に際し老中暗殺計画の詳細を自供し、自身を「死罪」にするのが妥当だと主張。これが井伊の逆鱗に触れ、安政6年(1859年)10月27日に斬刑に処された。享年30(満29歳没)。生涯独身であった。