お散歩日記 復興の日目指して

写真付きで見たことや日々感じたこと、震災に遭い今感じていることなど、記録にとどめたい。

あの日・・・3月11日 生かされた命を語り継ごう その3

2011-06-09 14:10:52 | 日記
自衛隊のヘリで石巻日赤に搬送され、私はそこで、テレビドラマでよく見る大事故が起きたあとの病院の医者たちと患者のすざましい激闘そのままの現実を味わった。

すぐさま、ストレッチャーで運ばれ、瞬時にトリアージが行われ、高校生がくれた大切な服すべてを、はさみで切られ、素っ裸にされ全身チェック。ありとあらゆるところを押されたり、曲げられたりして、どことどこをレントゲン撮るかすざましい勢いで、医師が指示し、次に運ばれた。

その間にも、泣き叫ぶ人や、きちがいになったような声を上げる人、顔中血だらけの人など、病院どこにも入り込む余地がないほど、けが人が運び込まれてきていた。

医師も看護婦も血走った目でかけずり回っていた。私はレントゲンを撮ったもののそのあと、どこがどうなったのか誰も説明に来ない。何もされないのだから、骨は折れていないんだろうがと思いながらも、腰を手術していたので、そこに入れてあるボルトが折れていないかどうか、心配でならなかった。

待てども待てども医師はこず、患者はあふれ、自分も簡易に作られたいすに寝かされているだけだったので、持病が悪化。激痛が走りどうにも耐えられず、注射を打ってもらうよう何度も訴えるが、誰も取り合ってくれなかった。(後日弟の家に避難できてから、お風呂にはいて、瓦礫に挟まれていた所から下は、すべて圧迫されたりぶったりしたのだろうが、真っ黒なアザが何カ所もあることに気づいた)

何時間そうしていたかわからないが、やっと一人の医師が見かねてやってきて、痛み止めを打ってくれた。その後は、受付の大広間に移され、ただそこにずっと寝かされていた。薬はいつも自分が飲んでいたものと同じような成分の物を一日分だけ出され、避難所に移動して欲しいといわれた。

水も、食事もなし。昨日から何も食べていない。持病があるので入院したかったが、病院では何も飲み食いできないから、避難所に行くよう説得される。

仕方なくやっと決心して、避難所に行くことにした。しかも、それはどこになるかも分からず、バスに乗りながら受け入れ先を探すという物だった。

乗り込む人全員どこかけがをしている人たち。みんなどこに連れて行かれるのか分からず、不安と疲労で疲れ切っていた。

結局40分くらい離れた桃生小学校というところの体育館に着いた。一人一人状況と名前、住んでいた地域を聞かれ、毛布とおにぎり1個と水ペットボトル1本をもらった。
夜の8時30分頃だった。

こうして、災害に遭ってから、2日目でとりあえず避難所なる物に落ち着いた。しかし、もちろん家族にも誰にも連絡が取れず、薬もない状況でどうやってここで暮らしていけばいいのか、不安と生きていけるのかという恐怖でいっぱいだった。

>あの時は、何でこんな扱いしかできないんだと涙が流れたが、突然の災害で、日赤も想定外以上のことに十分な治療ができなかったのだと思う。恐らく治療仕切れず、亡くなった方も何人もいたのだと思う。仕方がなかったとはいえ、二度とあのような安易な対応にならないよう、今回のことを検証し対策を立てて欲しい。

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