お散歩日記 復興の日目指して

写真付きで見たことや日々感じたこと、震災に遭い今感じていることなど、記録にとどめたい。

あの日・・・3月11日 生かされた命を語り継ごう  その5

2011-06-30 14:44:08 | 日記
                  震災時における医療について

その4で記録したように、医療現場はとてつもなく混乱していた。受け入れるスタッフも薬も、設備も圧倒的に足りなく透析患者や糖尿患者でインスリン注射を打たなければならない人などは、それができず命の危険に迫られていた。誰もが予想しなかった大震災のため、日頃の備えや災害時の訓練が全く役に立たなかったといえる。

私も自分の薬が手に入らないと分かった時点でどうすればいいのか必死に考えた。人間は生きようとすればいろいろな知恵が湧き出でくる物だと思った。とにかく人に頼っては手に入らないから、避難所を一日も早くでることだと判断した。それからは、ボランティアに来てくれている人たちに話しかけ、弟の住んでいる内陸部の情報を必死に集めた。

なんとか、被害も少なく病院も機能しているらしいことをつかみ、あとは、どうすれば弟に連絡をつけることができるかを考えた。ライフラインが全くつながらない状態で、自分の安否をどうすればつたえることができるのか・・・。

そういえば、ここは桃生町だった。もしかすると、弟がいる地域から教員が通勤しているかもしれないと、5日目にしてやっと気づいた。

民生委員でボランティアにかり出されていた人に、声をかけたところ「なんだい。いるよ。通勤している先生いるでば。わだし、いつも学校さきで、いろいろ世話しているからわがるのしゃ。すぐよんでくるから。」と、言われたときは、本当に念ずれば通ずるだと思った。

すぐさま、その方が駆けつけてくれ、本当に偶然にも、主人と一緒に勤めた方だったので、すぐ弟の所まで車を走らせ、私の状況を知らせてくれた。その方が、行ってから気づいたのだが、そのとき一緒に乗せられていけば、二度手間にならなかったのに。ガソリンもない大変な状況が続いていたので。気が動転していたから、冷静な判断ができなかった。

しかし、やっと自分で薬を手に入れると決めてから、一週間で私は、避難所から抜け出せた。あのままいたら、どんな治療もしてもらえず、ただただ痛みに耐えて、七転八倒の日々を送らねばならなかったと思う。

弟の家に避難させてもらい、近くの病院にその日のうちに連れて行ってもらい、薬を出してもらった。いつも飲んでいる薬と同じ物は手に入らなかったが、効力は弱いがとりあえず同じような成分の薬を一週間分出す指示が、県の医師会から出たと言うことで、何とか手元に薬を置くことができた。

私は、あとはライフラインの回復をまち、本来の薬が手に入るのを待つという状況にまでなった。

しかし、あの避難所に残された人たちは、スタッフが必死になって、透析してくれる病院や、本当に限られた数のインスリンをどう使うかなど、苦労に苦労を重ねて、患者の命を守ろうとしていた。
  
政府や厚労省、医師会は、今回の震災時の医療の実態を把握し、今後の天災にどうすべきか、新たな危機管理体制を作って欲しい。
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なんたる符合&#? 3月10日

2011-06-26 16:19:13 | 日記
避難所生活を強いられてきた人々も、やっと仮設住宅に入り新しい生活が始まりつつあります。私は、避難所生活は、とても続けられないと必死に考え、内陸部にいる弟に連絡をつけ、8日目には、避難所から抜け出していました。それは、また、後日記録にとどめておくつもりです。

ところで、最近「黒田康作の秘密」なる書物を読んで、なにげなく初版はいつだろうと見たところ、なんと。この3月10日だった。震災の前日。そういえば、テレビで10日に外交官 黒田康作を見て、最終回がたのしみ^^なんて言いながら、あの日寝たんだっけと思いだした。織田裕二もとんだ災難だったろう。最終回はきっと放送が流れたのではないだろうか。

そんなことを考えながら、昨日封切られた『アンダルシア 女神の報復』を見に行った。震災3ヶ月して、映画を見られるようになるなんて思いもしなかった。
まあ、行く途中私が避難していた、桃生町の様子や、日赤病院、何よりも一緒に支え合った石巻の人たちの状況も見たいという思いから、出かけていったのですが。

 避難所があった桃生町  日赤病院

 長雨でまたもや氾濫しそうな北上川  石巻の瓦礫置き場                            『アンダルシア 女神の報復』   

映画館のあるあたりは、津波による被害はなくいつも通りの生活でした。海側の地域とは、天と地の差です。 一日も早く皆が前の生活に戻れるようにと願わずにはいられません。     
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あの日・・・3月11日 生かされた命を語り継ごう  その4

2011-06-19 14:24:49 | 日記
     励まし合い、支え合いの避難所生活

桃生小学校は、宮城県の中程にあり石巻市と登米市の中間に位置するところにある。このことがとても重要だったことにあとで気づくことになるのだが。

日赤から運び込まれた私たちは、その日から体育館に毛布一枚をしき、毛布一枚をかけ寒さに震えながら、畳一畳分くらいのスペースに寝て、起きてのくりかえしの生活が始まった。

ほとんどの人が病院から運び込まれてきていたので、透析患者もいれば、骨折している人、妊婦さん、糖尿病患者など何らかの病気を持っている人たちがほとんどだった。

そこに詰めていたスタッフは最初どういう人たちかよく分からなかったが、看護婦さんが一人、いちども家に帰らず自分の子供を連れて、ずうと看護に当たっていた。

また、ケアマネージャーのような人たちも何人か交代で、看護に当たっていた。あとで聞いたところ、桃生町は介護事業が盛んで、介護施設を数カ所持っているということだった。

だから、訓練されたスタッフが何人もいた。その点は私は、恵まれたところに避難できたのかもしれない。まして、米所だったので一日3回おにぎりが配給になった。時に、お漬け

物や青物のゆでた物、ジャガイモのゆでた物など差し入れがあり、本当にありがたかった。しかし、それも4日間だけで、5日目からはさすがに食料を維持させていかねばならな

いと気づいたようで、二食のみになった。

 しかし、医療関係は本当に厳しかった。透析患者は一日置きに透析しなければいけないのに、それができなかった。朝早く日赤に透析を受けに行くのだが、そこには地元の患者

 が当然透析日として組み込まれているので、その人たちが終わるのを待ってからするということになったようで、結局透析できず夕方帰ってくるということが何度もあった。

スタッフは、誰をどこで透析させるかで、ありとあらゆる所と連絡を取り合い、透析場所を確保しようとしていた。一方私は、足の爪をはがしていたが、薬がないということで

消毒だけで、化膿しないよう自分で気をつけてねといわれるのみ。また、腰を手術していて、痛みが激しく、以前より特殊な薬を飲んでいたのだが、その薬は全く処方されなかった。

赤十字のスタッフが一日に一回だけ、各避難所を回ってきていたが、薬が全く足りないということで、糖尿病患者も私も毎日飲まなければならない薬が、手に入らない。

本当に病人は避難所生活なんて、できるはずがない。骨折している人たちも痛み止めは一回処方されただけで、あとは、いつ薬がでるか分からないという状況だった。

 本当にみんな不安と苦しみの日々だった。でも、桃生小に詰めていたスタッフの人たちと、その地域の民生委員さんやボランティアの人たちは、一生懸命お世話をしてくださった

みんな、車いすで遠く離れた校舎にあるトイレまではこんでくれたり、炊き出しのおにぎりをくばってくれたり、衣服を集めてきてくれたり、本当によく尽くしていただいた。

  あの人たちが励ましてくれたから、今 私は生きていられると感謝しています

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デジブック 『北島康介 気仙沼に』 浩介選手ありがとう♪♪

2011-06-12 16:44:01 | 日記
デジブック 『北島康介 気仙沼に』



泳ぎたいという子供たちのメッセージを見た、北島選手が気仙沼にやってきてくれました。

写真は、訪れた松岩小学校の友人の先生から頂いた物です。私が彼の熱烈なファンなので、特別もらいました。

アテネ、北京とすべての大会ビデオに撮っていたのに、すべて流されがっくり来ていたので、一生モンの宝にします。

子供たちもとても喜び、『絶対あきらめない』という彼のメッセージを心に刻んだと思います。

世界水泳 た の し み 。
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あの日・・・3月11日 生かされた命を語り継ごう その3

2011-06-09 14:10:52 | 日記
自衛隊のヘリで石巻日赤に搬送され、私はそこで、テレビドラマでよく見る大事故が起きたあとの病院の医者たちと患者のすざましい激闘そのままの現実を味わった。

すぐさま、ストレッチャーで運ばれ、瞬時にトリアージが行われ、高校生がくれた大切な服すべてを、はさみで切られ、素っ裸にされ全身チェック。ありとあらゆるところを押されたり、曲げられたりして、どことどこをレントゲン撮るかすざましい勢いで、医師が指示し、次に運ばれた。

その間にも、泣き叫ぶ人や、きちがいになったような声を上げる人、顔中血だらけの人など、病院どこにも入り込む余地がないほど、けが人が運び込まれてきていた。

医師も看護婦も血走った目でかけずり回っていた。私はレントゲンを撮ったもののそのあと、どこがどうなったのか誰も説明に来ない。何もされないのだから、骨は折れていないんだろうがと思いながらも、腰を手術していたので、そこに入れてあるボルトが折れていないかどうか、心配でならなかった。

待てども待てども医師はこず、患者はあふれ、自分も簡易に作られたいすに寝かされているだけだったので、持病が悪化。激痛が走りどうにも耐えられず、注射を打ってもらうよう何度も訴えるが、誰も取り合ってくれなかった。(後日弟の家に避難できてから、お風呂にはいて、瓦礫に挟まれていた所から下は、すべて圧迫されたりぶったりしたのだろうが、真っ黒なアザが何カ所もあることに気づいた)

何時間そうしていたかわからないが、やっと一人の医師が見かねてやってきて、痛み止めを打ってくれた。その後は、受付の大広間に移され、ただそこにずっと寝かされていた。薬はいつも自分が飲んでいたものと同じような成分の物を一日分だけ出され、避難所に移動して欲しいといわれた。

水も、食事もなし。昨日から何も食べていない。持病があるので入院したかったが、病院では何も飲み食いできないから、避難所に行くよう説得される。

仕方なくやっと決心して、避難所に行くことにした。しかも、それはどこになるかも分からず、バスに乗りながら受け入れ先を探すという物だった。

乗り込む人全員どこかけがをしている人たち。みんなどこに連れて行かれるのか分からず、不安と疲労で疲れ切っていた。

結局40分くらい離れた桃生小学校というところの体育館に着いた。一人一人状況と名前、住んでいた地域を聞かれ、毛布とおにぎり1個と水ペットボトル1本をもらった。
夜の8時30分頃だった。

こうして、災害に遭ってから、2日目でとりあえず避難所なる物に落ち着いた。しかし、もちろん家族にも誰にも連絡が取れず、薬もない状況でどうやってここで暮らしていけばいいのか、不安と生きていけるのかという恐怖でいっぱいだった。

>あの時は、何でこんな扱いしかできないんだと涙が流れたが、突然の災害で、日赤も想定外以上のことに十分な治療ができなかったのだと思う。恐らく治療仕切れず、亡くなった方も何人もいたのだと思う。仕方がなかったとはいえ、二度とあのような安易な対応にならないよう、今回のことを検証し対策を立てて欲しい。
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