お散歩日記 復興の日目指して

写真付きで見たことや日々感じたこと、震災に遭い今感じていることなど、記録にとどめたい。

あの日・・・ 3月11日  生かされた命を語り継ごう その2

2011-05-30 14:25:47 | 日記
                       希望の星

その1続き   津波から奇跡的に助かってそのまま山を一つ越えました。そしてたどり着いたのが、志津川高校でした。全身びしょ濡れになって、寒さと恐怖に震えていた私や同

じよう助け上げられてびしょ濡れになっていた人たちに、服を提供してくれたのが、高校生だったのです。ちょうど部活動に来ていた高校生たちが、自分たちが着てきた服やジャン

パーを提供してくれました。また、高校に在った、ありとあらゆる服を集めてきてくれて、濡れた服と交換してくれました。あの日は夕方から雪も降り出し、夜は電気もなく、暖房

もなしで寒さにガダガタふるえながら、高校生がくれた服にくるまってひたすら朝が明けるのを待っていました。             
                  
 私はけがをしたので翌朝、自衛隊のヘリコプターで日赤病院に搬送されてしまいましたが、高校生たちは次の日から、半袖短パンのままで、炊き出されきたおにぎりを運んだり、避

難してきた人たちの世話を献身的にやっていたそうです。本当に過酷な状況で人のために働いた彼らは、復興していく町にとってです。
                                                                            
 これだけのすばらしい、たのもしい高校生たちがいたということを、忘れないでほしい。また、彼らが就職や進学していくときに真っ先に手を上げて採用や受け入れをする社会

 で在ってほしいと思います。政府の復興政策は遅々として進みませんが、現場では黙々と自分のできることを精一杯やっている人がいるのです。

   志津川高校野球部                          
   復興祭を手伝う中学生
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北島選手   気仙沼松岩小学校に現れる !!

2011-05-28 13:24:22 | 日記
震災で南三陸町と同じように、壊滅的な被害に遭った気仙沼に、5月27日北島選手が突然訪れました。北島選手の水泳教室で交流のあった松岩小学校のプール清掃に現れました

その情報を知り、北島選手の熱狂的なファンの私は是非会いに行きたかったのですが、学校関係者以外はいけませんでした。知り合いの先生に頼んで頂いた写真を少しだけアップ

しました。子供たちは北島選手に会えとても喜んでいたそうです。その様子は、東日本放送テレビで31日の朝8時からのモーニングバードで放映されるそうです。

いずれ、また、デジブックに編集したいと思います。




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デジブック 『ここに生きる』

2011-05-25 16:21:18 | 日記
デジブック 『ここに生きる』


自然の力強さに驚かさせる。津波に遭い何もかもなくしたけれども、何がなくともそこに存在し続ける藤の花に圧倒される。一眼レフも流されたので、デジカメで撮影したので、藤やタンポポの力強さをうまく撮影できないのが残念。

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デジブック 『南三陸町よ立ち上がれ』

2011-05-22 11:30:03 | 日記
デジブック 『南三陸町よ立ち上がれ』


震災から、一ヶ月半がたった様子を息子に写真に撮ってきてもらいました。私はまだ、この目で見れる自信がありません。

しかし、皆さん復興に向けいろいろ少しずつではありますが動き始めたようです。


被災地の様子を新聞から掲載させていただきました。



モアイを復興の象徴に 南三陸・志津川高生がキャラクター化                                   
  河北新報 5月22日(日)10時34分配信
 東日本大震災で津波の被害を受けた宮城県南三陸町の志津川高の生徒有志が、モアイ像をキャラクター化して復興のシンボルにする「南三陸モアイで復興計画」に乗りだした。町内で支援活動に取り組む団体の車のフロントガラスにモアイのプレートを張ってもらい、町を元気づける。

 計画の第1弾として生徒たちは21日、行方不明者を捜索している愛知県警などにプレート30枚を贈った。登米市登米総合体育館で贈呈式があり、愛知県警警備課の加藤尚之警視が「町の復興に向け協力したい」と述べた。
 プレートはバス用のA4判、パトカー用のB5判の2種類。警察官に扮(ふん)したモアイを描いた。「復活!南三陸」のメッセージを添えている。
 発案したのは情報ビジネス科の3年生8人。昨年5月に取り組み始めたモアイをキャラクター化する町おこし企画「南三陸モアイ化計画」を発展させた。
 旧志津川町は1991年、チリ地震津波復興30年を記念し、チリ・イースター島のモアイ像の複製を町内の松原公園に設置した。公園のモアイは復興と防災、チリとの友好の象徴として親しまれたが、大震災の津波で頭部が流された。
 活動する阿部裕貴成君(17)は「復興のシンボルのモアイを前面に出し、町に元気を取り戻したい」と語った。 .最終更新:5月22日(日)10時34分

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あの日・・・ 3月11日  生かされた命を語り継ごう その1

2011-05-18 14:28:44 | 記録
 3月11

 あの日、私は地震がおさまった時すぐに車で高台に逃げた。ここまでは、津波は来ないといわれていたところに。

 しかし、誰かが下のほうで つなみだ  と叫んだ。
  え、なに。避難していた友達の家の二階に駆け上がった。
 
 気づいたときは、私は瓦礫に囲まれ、海の上にいた。幸い胸から上が、海の上にあった。友達の名前を叫んでも答えず、姿も見えない。

 必死で、瓦礫から逃げ出そうとするも一つも動かない。ここで死んでしまうのか。
 
 いや、波は必ず引く。そのとき、瓦礫も動くかもしれない。それにかけようと、自分をひたすら冷静にした。
 
 グググという音がしたら、瓦礫が少し動いた。その瞬間、私は無我夢中で瓦礫の中を抜け出し、目の前にあった鉄骨に飛び乗った。

 助かったと思った瞬間、引き波に呑まれ、また、海に落ちた。もうだめか、どうしようと思ったら、本当に天の助けか、網が見え、それにすがりついた。

 でも、下は海。鉄骨にあがることができない。何とかしなければと、もがいても もがいてもどうにもならず、ああ、こんな形で死にたくないと一心に天に祈ったとき、
 
 何かが私の足元に流れてきて、それに足をかけ鉄骨に上がれた。
 
 あとは、声を限りに山に向かって助けを呼び続けた。山で声を聞きつけて人が姿を見せるまで、何分くらい立ったのか覚えていないが、男の人たちが見つけてくれた。

 「自力であがってこいと」、叫ばれても、もうつかれきっていてそれもままならず。

 やっと一人の男性が、ほかの人が危ないからやめろというのを振り切って、駆け下りてきて私を背負ってくれた。

 本当に、本当にありがとうございました

 志津川の写真館の方が津波の様子を撮られていたのをお借りしました。

 あの日から、2ヶ月が過ぎ、何もする気になれなかったけれども・・・しかし、あの場所で助かったのは私一人。亡くなられた人のことを思うと、泣いてばかりいられない。
 
 南三陸町が復興に向かって生きようとする姿を、私なりに語りつないでいかなければとおもい、やっとブログを書き始めた。亡くなった友のためにも。
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