里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

備後国分寺

2008年12月06日 | 神 仏
神辺城跡からの帰りに備後国分寺に立ち寄った。

この国分寺、創建当時は東西180mの広大な寺域の、現在より南の位置に古代山
陽道に面して建てられていたが、その後、山名氏と大内氏の合戦で焼失したり、上
流の池の決壊で廃滅するなどの災難に遭ったらしい。

(配置図)

現在は、創建当時よりずっと北側へ、江戸時代水野氏により再建されている。

という訳で、長い参道の両脇に植えられた松並木の間を進むと、ようやく仁王門と
中門に到着する。

門前には、菅茶山(本名:菅波晋帥、ときのり)と兄弟子の西山拙斎が、和歌や花
を愛でた当時の住職如實上人に贈った連句が刻まれた碑や、菅茶山の詩碑が建て
られていたが、浅学な私にはチンプンカンプンだった。

(連句、詩碑)

門を潜ると本堂があり、“醫王閣”の扁額が掲げられていた。
ご本尊は薬師如来、東方浄瑠璃世界の教主で衆生の病気を治してくれる仏だそうだ。
最近、家内に「貴方、最近少しボケてきたね!」といわれ始めたので、痴呆症になら
ないようによくお願いをしておいた。

ご住職からは、色々な説明を親切にして頂いた上に、富有柿まで頂戴した。感謝!

国分寺
聖武天皇の在位中災害や疫病(天然痘)が多発して社会不安が起き、それを仏教
の力で鎮める為、天平13年(741年)各国(66)に国分尼寺と共に一つずつ国府のそ
ばに建立されたお寺。

律令体制が弛緩すると共に国分寺や国分尼寺の多くは廃れたが、その後も宗派をか
えて存続したり、或いは再興されたりして現在でも存続しているお寺も多い。

備後国分寺概歴
・天平13年( 741年)、聖武天皇の詔により全国66ヶ寺の一寺として建立されたが、
            以後800年間の興廃については不明。
・天文7年(1538年)、大内氏と山名氏による神辺の合戦により兵火を受け焼失。
・天文19年(1550年)、舜洪上人により再建し、本尊薬師如来の供養が行われた。
・天文20年(1551年)、毛利元就が参拝し香華料を献上。
・永禄4年(1561年)、神辺城主杉原盛重が二十貫の土地を寄進して香華料とし、
            七間四方の草葺きの本堂を建立。
・慶長5年(1600年)、福島正則が芸備二国を領すると荘園を悉く没収。
・延宝元年(1673年)、大雨による大原池の決壊により伽藍廃滅。
・           その後、快範上人が晋山して現在の地に伽藍を移す。
・元禄7年(1694年)、福山城主水野勝種候より金穀役夫並びに用材が給付され、
            本堂を再建。
・元禄10年(1697年)、客殿庫裏、
・宝永4年(1707年)、梵鐘、
・元文5年(1740年)、仁王門が建立され、今日ある伽藍がほぼ整った。


神辺城跡の巨木、アベマキ

2008年12月05日 | 花 木

神辺城本丸跡と二の丸跡の間にはアベマキの巨木があった。
福山市の天然記念物に指定されていて、樹高約30m・胸高周囲3mあるという。

このアベマキ、嘗ては樹皮をコルクに用いたり、マキや炭などの燃料として利用し
たが今は全く利用されていない。

神社仏閣や公園にはこのような巨木が多い。 神域や公園の木を切るのを憚って切
らなかった為に一人で陽を浴びて大きく育ったわけだ。

しかし、それが裏目に出ると風雨や雷などの致命的なダメージを一身に受けてしまう。
巨木も巨木のままで居続けるのは難しいという事だ。 自然は厳しい!

話は飛ぶが、昨今のアメリカでは金融や自動車などの大会社の多くが、100年に
一度とかの危機を迎え倒産の瀬戸際にあるという。
産業界の巨木ともいえる企業でもこの体たらくだ。 人間社会も厳しい!

(アベマキ→胸高周囲)
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神辺城

2008年12月04日 | 歴 史
JR福塩線神辺駅の直ぐ東側の黄葉山(標高:133m)の山頂には、江戸時代初期
まで初代福山藩主水野勝成の神辺城があったそうだ。

山麓の“天別豊姫(あまわけとよひめ)神社”の由来によれば、
「黄葉山にはその昔楓の巨木があった事から“紅葉山、楓山”と呼ばれ、山頂の城
 も紅葉山道上城(別名:楓山城)と呼ばれていたが、天保14年(1843年)に福山
 藩主阿部正弘が老中筆頭職に就いた時、
 “我が領内に紅葉山あるは、将軍家衣城の紅葉山鶴舞城に対して憚りあり”
 として、黄葉山に改名されたという」

(北の高屋川土手から見た黄葉山)


本丸直下の駐車場に掲げられている神辺城の由来に寄れば、
「元弘の乱(南北朝争乱)で戦功をあげた朝山景連が備後国守護職に任じられ、
 建武2年(1335年)築城。

 以来、神辺城は備後国守護職の居城として使われ、仁木義長・細川頼春・高師康
 ・上杉顕能・渋川義兼・山名時義が守護となり、一時期を除いて山名氏の備後支
 配が続きそれぞれ守護代が居城した。

 戦国時代には、杉原理興・平賀隆宗・杉原盛重・藤井皓玄・毛利元康が居城し、
 江戸時代には、福島正澄(丹波)・水野勝成が入城し、その間幾度もの改築が
 行われ福島時代に完成した。
 元和5年(1619年)水野氏が福山城築城の際には、神辺城の櫓楼や門が取り壊さ
 れ移築されたといわれている」
と書かれていた。

神辺城の殆どは移築されたらしく北側山麓にあった外堀も埋め尽くされてしまい、
嘗てどのようなお城があったのか今となっては知る事も出来ないらしいが、山頂や
尾根を削って平坦にした郭が約25箇所確認され、郭には建物や土塀が建てられ、
石垣や空堀・井戸の跡も残っている事から、画像のような城があったと想像されて
いるそうだ。 

(北側から見た神辺城想像図)

本丸南下(上の画像の裏側)の登山道を通り、最西端の4番櫓があったと思われる
所から本丸を目指して登って行くと、何段もの平坦な場所はあったが、福山城築城
に利用したせいか石垣は全く見当たらなかった。

その代わりにたくさんの桜の木が植えてあった。 
何年か前、山頂に歴史民俗資料館を立て周辺に桜を植えて公園にする計画が持ち
上がったが、かろうじて歴史民俗資料館を別の場所に建て桜だけを植える事になった
らしい。 山頂には何も無いのだが、変なものを建てるよりは余程ましだ!
本丸跡から歴史民俗資料館を望む本丸跡
二の丸跡から本丸跡を望む最西端4番櫓跡から二の丸跡を望む

二の丸から見ると、
南西方向から北側山麓に向けて黄葉山を取り巻くように近世(江戸時代)の山陽道
が走り、北側遠くの山裾には古代(奈良時代)の山陽道が走っていてその道路沿い
には国分寺も見える。

嘗て、この神辺平野では備後国の覇権を巡って多くの軍があり、特に戦国時代には
大内・毛利氏と尼子氏を中心とする激しい軍があったらしい!

その恐ろしい時代に生まれなくて良かったと思う反面、昨今の世界の様相を見ると
ある意味で昔に負けないくらい恐ろしい世の中になってしまったような感じがする。
人間は余り成長のない生き物なのだろうか?


(天別豊姫神社の由来に書かれている神辺城主歴代一覧
・建武2年(1336年)浅山備後守條就、建武中興の功により備後国守護となり神辺
          城完成入城。 同日備中福山城にて討死。
・正平17年(1362年)浅山次郎義基、山名時氏に攻め落とされ出雲の国へ退去。
・元中8年(1391年)山名陸奥守氏清、足利義満に叛き(明徳の乱)誅せらる。
・         山名宮内少輔時濫(細川満之家臣備後守護職山名伊豆守時義
          の子)
・         山名備後守氏幸、細川基之家臣備中守を兼摂す。
・嘉吉元年(1441年)山名持豊(宗全)備後守護となり、二子の山名近江守是豊
          城主となって城の再築外堀を完成。
・享徳2年(1453年)山名中務少輔時豊、城主となる。
・         山名忠義(宗全の臣)応仁の乱(1467年~)により守護代。
・文明3年(1471年)山名俊豊、城主となる。
・永正中 (1504年)山名宮内少輔忠勝、城主となるが一家衰之大内に屈す。
・大永 年(1520年)山名宮内少輔氏政、備後国探題職として在城したが
 天文7年(1538年)大内義隆に攻略さる。
・天文19年(1550年)山名宮内少輔忠興(本名:杉原理興)、山名宮内少輔氏政攻
          略の功により城主となるも大内臣平賀隆宗の謀略により雲州
          尼子のもとへ去る。
・天文22年(1553年)平賀安芸守隆宗、城中にて病死。 秋丸開祖。
・天文24年(1555年)平賀太郎左衛門隆祐、山名忠興毛利に乞い再び神辺城主となる。 
          隆祐は更地賜り徳田天神城主に転出。
・弘治3年(1557年)山名宮内少輔忠興、病没嗣子なし。
・弘治4年(1558年)杉原播磨守盛重、毛利の命により城主となるも、毛利に従い
          九州出陣中の永禄12年に藤井皓玄に城を奪取される。
・永禄12年(1569年)藤井能登守皓玄、城を奪取するも直ぐに奪還されて自刃。
・永禄12年(1569年)杉原播磨守盛重、藤井皓玄を追落し城を奪回。
・         杉原左京亮後、伯州八つ橋に居城。 神辺に城代を置く。
・天正9年(1581年)杉原弥八郎、重盛没後城主となるも翌年弟に殺され城は毛利
          に収められる。
・天正10年(1582年)毛利大蔵大輔元康、城主となるも慶長5年に防長へ退く。
・慶長5年(1600年)福島正則、安芸備後両国を領し福島丹波を神辺城代として置
          いたが、元和5年罰則ありて福島正則は領地没収。
・元和5年(1619年)水野日向守勝成、備後10万石を領し大和郡山より入城したが、
 元和8年(1622年)福山城入城に伴い廃城となる。


日本一の石燈籠 

2008年12月02日 | 神 仏
“恋しき”の直ぐ隣の金刀比羅神社には“日本一の石燈籠”があるというので訪ねてみた。

鳥居を潜ると右手に石碑があり、正面にそのでかい石灯籠があった。
石碑の碑文を読むと、
「福山城主阿部伊勢守の家老代理を務めていた当所林新五郎が発起して金刀比羅宮
 を建立」
「次いで日本一の大石燈籠を思い立ち、近郷二十ヶ町村の人夫2万余人の寄進と銀
 5貫匁の浄財により、8年の年月を費やして天保12年(1841年)に高さ8.9m、笠石
 の面積4畳半余の大石燈籠がようやく完成」 と書かれていた。

拝殿の後ろにはこじんまりとした本殿があった。

この時代、全国的に気候不順で、平年の3~4分作の凶作が何年も続いた天保飢饉
(江戸三大飢饉の一つ、天保4~10年、1833~1839年)の真っ最中で、天保8年に
はあの有名な大塩平八郎の乱も起きている。
福山藩も同様に凶作だったわけで、碑文に書かれているような“人夫の寄進”や
“浄財”などが集まったとはとても信じられない!



“恋しき”

2008年12月01日 | その他
浮いた話なら良いのだが、“恋しき”というのは府中市にある料亭の名前だ。
実は、ここの2階で“備後国府展”をやるというので行って来たのだが、残念な
がら終了していた。

この料亭は、明治5年創業の備後随一といわれていた「御宿恋しき」という名の
料亭旅館だったそうで、平成2年まで創業していたがその後取り壊しの話も出て
いたという。
それに対し、地元経済界から“府中の歴史が作られてきたシンボルの一つ”との
思いから保存運動が起き、新会社を設立して土地建物を買収し、建物の改修や
庭の整備を行って、H19年に「こころのふる里恋しき」として再オープンしたのだ
そうだ。

この料亭、嘗て石見銀山から陸路で大阪へ銀を運んだ石州街道に面した場所
にある。 当時は相当賑わっていたらしい。


料亭入り口の方に回ってみると建物の配置が表示してある。

外から見ると、いかにも大金持ちといった佇まいだ。

門を潜ると、大正から昭和初期に建てられたという5棟の離れを配した、300坪
の回遊式日本庭園がある。

行ったついでに“そば処”で蕎麦を食べて帰ったが、1階ロビーには、
犬飼毅元首相が泊まった際に残した扁額や、作家の山口瞳さんが訪れた時の資料や
永六輔さんが泊まった時のエッセイなども展示してあった。

今は裏道になってしまったこの石州街道、その昔には色々な人達がやって来たらしい!