神辺城跡からの帰りに備後国分寺に立ち寄った。
この国分寺、創建当時は東西180mの広大な寺域の、現在より南の位置に古代山
陽道に面して建てられていたが、その後、山名氏と大内氏の合戦で焼失したり、上
流の池の決壊で廃滅するなどの災難に遭ったらしい。
(配置図)
現在は、創建当時よりずっと北側へ、江戸時代水野氏により再建されている。
という訳で、長い参道の両脇に植えられた松並木の間を進むと、ようやく仁王門と
中門に到着する。
門前には、菅茶山(本名:菅波晋帥、ときのり)と兄弟子の西山拙斎が、和歌や花
を愛でた当時の住職如實上人に贈った連句が刻まれた碑や、菅茶山の詩碑が建て
られていたが、浅学な私にはチンプンカンプンだった。
(連句、詩碑)
門を潜ると本堂があり、“醫王閣”の扁額が掲げられていた。
ご本尊は薬師如来、東方浄瑠璃世界の教主で衆生の病気を治してくれる仏だそうだ。
最近、家内に「貴方、最近少しボケてきたね!」といわれ始めたので、痴呆症になら
ないようによくお願いをしておいた。
ご住職からは、色々な説明を親切にして頂いた上に、富有柿まで頂戴した。感謝!
国分寺
聖武天皇の在位中災害や疫病(天然痘)が多発して社会不安が起き、それを仏教
の力で鎮める為、天平13年(741年)各国(66)に国分尼寺と共に一つずつ国府のそ
ばに建立されたお寺。
律令体制が弛緩すると共に国分寺や国分尼寺の多くは廃れたが、その後も宗派をか
えて存続したり、或いは再興されたりして現在でも存続しているお寺も多い。
備後国分寺概歴
・天平13年( 741年)、聖武天皇の詔により全国66ヶ寺の一寺として建立されたが、
以後800年間の興廃については不明。
・天文7年(1538年)、大内氏と山名氏による神辺の合戦により兵火を受け焼失。
・天文19年(1550年)、舜洪上人により再建し、本尊薬師如来の供養が行われた。
・天文20年(1551年)、毛利元就が参拝し香華料を献上。
・永禄4年(1561年)、神辺城主杉原盛重が二十貫の土地を寄進して香華料とし、
七間四方の草葺きの本堂を建立。
・慶長5年(1600年)、福島正則が芸備二国を領すると荘園を悉く没収。
・延宝元年(1673年)、大雨による大原池の決壊により伽藍廃滅。
・ その後、快範上人が晋山して現在の地に伽藍を移す。
・元禄7年(1694年)、福山城主水野勝種候より金穀役夫並びに用材が給付され、
本堂を再建。
・元禄10年(1697年)、客殿庫裏、
・宝永4年(1707年)、梵鐘、
・元文5年(1740年)、仁王門が建立され、今日ある伽藍がほぼ整った。
この国分寺、創建当時は東西180mの広大な寺域の、現在より南の位置に古代山
陽道に面して建てられていたが、その後、山名氏と大内氏の合戦で焼失したり、上
流の池の決壊で廃滅するなどの災難に遭ったらしい。
(配置図)
現在は、創建当時よりずっと北側へ、江戸時代水野氏により再建されている。
という訳で、長い参道の両脇に植えられた松並木の間を進むと、ようやく仁王門と
中門に到着する。
門前には、菅茶山(本名:菅波晋帥、ときのり)と兄弟子の西山拙斎が、和歌や花
を愛でた当時の住職如實上人に贈った連句が刻まれた碑や、菅茶山の詩碑が建て
られていたが、浅学な私にはチンプンカンプンだった。
(連句、詩碑)
門を潜ると本堂があり、“醫王閣”の扁額が掲げられていた。
ご本尊は薬師如来、東方浄瑠璃世界の教主で衆生の病気を治してくれる仏だそうだ。
最近、家内に「貴方、最近少しボケてきたね!」といわれ始めたので、痴呆症になら
ないようによくお願いをしておいた。
ご住職からは、色々な説明を親切にして頂いた上に、富有柿まで頂戴した。感謝!
国分寺
聖武天皇の在位中災害や疫病(天然痘)が多発して社会不安が起き、それを仏教
の力で鎮める為、天平13年(741年)各国(66)に国分尼寺と共に一つずつ国府のそ
ばに建立されたお寺。
律令体制が弛緩すると共に国分寺や国分尼寺の多くは廃れたが、その後も宗派をか
えて存続したり、或いは再興されたりして現在でも存続しているお寺も多い。
備後国分寺概歴
・天平13年( 741年)、聖武天皇の詔により全国66ヶ寺の一寺として建立されたが、
以後800年間の興廃については不明。
・天文7年(1538年)、大内氏と山名氏による神辺の合戦により兵火を受け焼失。
・天文19年(1550年)、舜洪上人により再建し、本尊薬師如来の供養が行われた。
・天文20年(1551年)、毛利元就が参拝し香華料を献上。
・永禄4年(1561年)、神辺城主杉原盛重が二十貫の土地を寄進して香華料とし、
七間四方の草葺きの本堂を建立。
・慶長5年(1600年)、福島正則が芸備二国を領すると荘園を悉く没収。
・延宝元年(1673年)、大雨による大原池の決壊により伽藍廃滅。
・ その後、快範上人が晋山して現在の地に伽藍を移す。
・元禄7年(1694年)、福山城主水野勝種候より金穀役夫並びに用材が給付され、
本堂を再建。
・元禄10年(1697年)、客殿庫裏、
・宝永4年(1707年)、梵鐘、
・元文5年(1740年)、仁王門が建立され、今日ある伽藍がほぼ整った。