登山の後はお決まりの温泉だ。
今回は“こんぴらさん”の麓の温泉に決まっていたが、ここまで来て温泉になど
浸かっては居られない。
何しろ、次郎長親分の代参で森の石松が金刀比羅宮に参拝した帰路に殺され
てしまったという話もあるし、私にとっても三十数年ぶりで実はこちらの方を楽し
みにしていたくらいだ!
という訳で、1368段の石段の先にある奥社を目指す事にした。
先ずは、駐車場の大センダンの木。
大きさもさる事ながら、万葉の昔にはこの木の下で恋人同士がデートしたとか?
凡そ似つかわしくない話(→)が残っているそうだ。
表参道に入ると、参道脇には客を乗せて運ぶ駕籠もあったが、ウィークデーなので
随分参拝客が少なく乗る人は居ない。 いよいよ石段に差し掛かる。
暫く行くと、“金刀比羅本教総本部”というのがあった。
「主神である“大物主大神(おおものぬしのおおかみ)”の恵みを多くの人々に受
けて戴き、教祖の“厳魂彦命(いずたまひこのみこと)”の教えを後世に伝える
為に昭和44年に宗教法人を設立した」
のだそうで、戦国時代に神社の復興と布教に努めた“金毘羅大権現別当金光院”
院主だった金剛坊宥盛を、明治維新後の神仏分離令により“厳魂彦命”なる神名
に改めて、飽くまで神道として活動しているらしい。
それを過ぎると大門だ。 ここまで365段ある。
1650年に初代高松藩主・松平頼重公(水戸光圀の兄)から寄贈され、楼上の額の
“琴平山”の文字は有栖川宮熾仁親王の筆によるそうだ。
更に長い参道を進むと厩に神馬が居た。
神様が乗る為の馬で、生馬を奉納できない時には木や土や鋳物で馬形を造り献納し、
更には額に馬の絵を描いて献納したが、これが後に絵馬へと変遷したのだそうだ。
次は書院。
社務所門を潜ると300年以上前に建てられた書院や御守所(→)があり、書院では
円山応挙の襖絵が公開されているが見る間なし。
それにしてもこの他にも至る所に建屋がある。 宏大だ!
更に参道が続き、629段で旭社に到着。
祭神は、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・伊邪那岐神・伊邪那美神・天照大
御神・天津神・国津神・八百万神などで、
社殿には至る所へ天保美術の粋を集めた彫刻が施され、約40年の歳月を費やした
といわれているそうだが、時間がないのでゆっくり鑑賞できなかった。 残念!
鳥居の先の賢木門を潜るとようやく本宮に到着。 ここまで785段で海抜251m。
祭神は大物主神と崇徳天皇で、農業・殖産・医薬・海上守護の神として古くから
信仰されている。
(賢木門、本宮→向かって右の神饌殿)
本宮前には神木のクスノキがあり、幹の周りは約4.7m、高さは約25mあるそうだ。
本宮の北東側を望むと、さっき登った飯野山が見える。
飯野山を造ったといわれる“おじょも”という大男が、出来上がった飯野山とこの
金刀比羅宮の鎮座する琴平山(象頭山)に足をかけて用を足したところ、その間に
大きな土器川が出来たという伝説があるそうだが、二つの山は約10kmも離れて
いる。 どうも讃岐の人はほら吹きのようだ!
更に進むと、951段で白峰神社だ。
今から約820年前に建てられたもので、崇徳天皇と天皇の母親の待賢門院が祀られ
ているそうだ。
奥社はこれからさき石段を417段登らなくてはならず、未だ15~20分かかるそ
うで、時間がない為に今回は残念ながら参拝できなかった。
奥社は正式には“厳魂神社”といわれ、金刀比羅本教教祖の“厳魂彦命”が祀られ
ているそうだ。 又三十数年後に参拝するとしよう!
今回は“こんぴらさん”の麓の温泉に決まっていたが、ここまで来て温泉になど
浸かっては居られない。
何しろ、次郎長親分の代参で森の石松が金刀比羅宮に参拝した帰路に殺され
てしまったという話もあるし、私にとっても三十数年ぶりで実はこちらの方を楽し
みにしていたくらいだ!
という訳で、1368段の石段の先にある奥社を目指す事にした。
先ずは、駐車場の大センダンの木。
大きさもさる事ながら、万葉の昔にはこの木の下で恋人同士がデートしたとか?
凡そ似つかわしくない話(→)が残っているそうだ。
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表参道に入ると、参道脇には客を乗せて運ぶ駕籠もあったが、ウィークデーなので
随分参拝客が少なく乗る人は居ない。 いよいよ石段に差し掛かる。
暫く行くと、“金刀比羅本教総本部”というのがあった。
「主神である“大物主大神(おおものぬしのおおかみ)”の恵みを多くの人々に受
けて戴き、教祖の“厳魂彦命(いずたまひこのみこと)”の教えを後世に伝える
為に昭和44年に宗教法人を設立した」
のだそうで、戦国時代に神社の復興と布教に努めた“金毘羅大権現別当金光院”
院主だった金剛坊宥盛を、明治維新後の神仏分離令により“厳魂彦命”なる神名
に改めて、飽くまで神道として活動しているらしい。
それを過ぎると大門だ。 ここまで365段ある。
1650年に初代高松藩主・松平頼重公(水戸光圀の兄)から寄贈され、楼上の額の
“琴平山”の文字は有栖川宮熾仁親王の筆によるそうだ。
更に長い参道を進むと厩に神馬が居た。
神様が乗る為の馬で、生馬を奉納できない時には木や土や鋳物で馬形を造り献納し、
更には額に馬の絵を描いて献納したが、これが後に絵馬へと変遷したのだそうだ。
次は書院。
社務所門を潜ると300年以上前に建てられた書院や御守所(→)があり、書院では
円山応挙の襖絵が公開されているが見る間なし。
それにしてもこの他にも至る所に建屋がある。 宏大だ!
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更に参道が続き、629段で旭社に到着。
祭神は、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・伊邪那岐神・伊邪那美神・天照大
御神・天津神・国津神・八百万神などで、
社殿には至る所へ天保美術の粋を集めた彫刻が施され、約40年の歳月を費やした
といわれているそうだが、時間がないのでゆっくり鑑賞できなかった。 残念!
鳥居の先の賢木門を潜るとようやく本宮に到着。 ここまで785段で海抜251m。
祭神は大物主神と崇徳天皇で、農業・殖産・医薬・海上守護の神として古くから
信仰されている。
(賢木門、本宮→向かって右の神饌殿)
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本宮前には神木のクスノキがあり、幹の周りは約4.7m、高さは約25mあるそうだ。
本宮の北東側を望むと、さっき登った飯野山が見える。
飯野山を造ったといわれる“おじょも”という大男が、出来上がった飯野山とこの
金刀比羅宮の鎮座する琴平山(象頭山)に足をかけて用を足したところ、その間に
大きな土器川が出来たという伝説があるそうだが、二つの山は約10kmも離れて
いる。 どうも讃岐の人はほら吹きのようだ!
更に進むと、951段で白峰神社だ。
今から約820年前に建てられたもので、崇徳天皇と天皇の母親の待賢門院が祀られ
ているそうだ。
奥社はこれからさき石段を417段登らなくてはならず、未だ15~20分かかるそ
うで、時間がない為に今回は残念ながら参拝できなかった。
奥社は正式には“厳魂神社”といわれ、金刀比羅本教教祖の“厳魂彦命”が祀られ
ているそうだ。 又三十数年後に参拝するとしよう!