里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

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南宮神社の別当寺

2008年07月01日 | 神 仏

“あじさい寺”の神宮寺は、面白い寺だった。
裏山にある南宮神社の別当寺だったそうで、その境内にお寺の鐘楼があるのだ!
本来なら、明治新政府の施策で神仏を分離させられる筈だったのだが、何故か鐘楼
だけ神社の境内に取り残されたらしい。

説明文を読むと、
初代の梵鐘は、広島藩主・福島正則が広島へ持ち帰ろうとして尾道沖で沈没し、
2代目は、1855年のペリー来朝の際、外国船に備えて大砲に改鋳する為に徴発さ
れ、それ以来平成16年に至るまで梵鐘が無かったと言う。

流石に明治新政府も、空っぽになった鐘楼を「境内から移動しろ!」とはいい難か
ったのだろうか? 今となっては定かではないが、いずれにしても150年も梵鐘の
無い鐘楼はさぞや寂しかったであろうと同情する!
お寺の遠景お寺の近景
南宮神社にある鐘楼


孝霊天皇を祀った南宮神社の近くには孝霊塚という古墳もあった。
古墳には宝筐印塔(供養塔)が立っていて、孝霊天皇の御陵(天皇のお墓)と言い
伝えられているそうだ。
息子は四道将軍として山陽道を制圧した吉備津彦命で、備前・備中・備後にある
吉備津神社の祭神として祀られている。 
父子共に神話の世界の人達で、実在したかどうかについてははっきりしないらしい
のだが、こうして神社に祀られていると嘗て実在した人物と感じてしまう。
宗教とは不思議なものだ!
(南宮神社)
主祭神は第7代孝霊天皇などで創建は
807年。昔は新市の吉備津神社と肩を並べる
備後三大社のひとつであった。
神社に鐘楼があるのは神仏習合時代の名残
りで、広島県内には二社、全国でも二百余
社しかなくて珍しい。
(孝霊塚)
孝霊天皇の御陵と伝えられる古墳で、
・孝霊天皇が退位後、仙洞(退位した天皇の
御所)として住んでいたが、死後そこに御
陵が築かれた と言う説や、
・息子の吉備津彦命が四道将軍として吉備国
に滞在中、孝霊天皇を偲んで分霊を祀る御
陵を築いた、と言う説がある。

神仏習合
一般的には、新しく入って来た仏教への信仰と、それまでにあった神祇信仰、つま
り天津神(高天原に居る神々)や国津神(地に現れた神々)への信仰とが合わさっ
て、一つの信仰体系として信仰された事を指す。

奈良時代(710~794年)から平安時代(794~1185年)にかけて、
仏教が広まるに連れて神にも人間と同じように、迷いや苦しみがあると考えられる
ようになり、神社にお寺を建立して仏の救済を求めるようになった。
このような神社で、祭祀を仏式で執り行う者を“別当”や“社僧”と呼び、別当の
居る寺を“別当寺”、“神宮寺”、“神護寺”、“宮寺”と呼んだ。
又、一方では、逆にその寺院に関係のある神を守護神とする動きも現れた。

お 寺神 社
延暦寺日吉大社
興福寺春日大社
金剛峰寺丹生神社
東 寺伏見稲荷
東大寺宇佐八幡

更に平安時代(794~1185年)には、
神々は仏の化身であるとする“本地垂迹説”が広まり、それまで異質のものと考え
られていた神仏が、全く同質の仏そのものであると考えられるようになった。

明治時代(1868~1912年)になると新政府は、
1868年には、“神仏分離令”により、神仏習合を禁止し、
1870年には、“大教宣布”により、天皇に神格を与え神道を国教と定めて、日本を
      祭政一致の国家とする方針を定めた。
      その為に、神社から仏教的な要素を全て払拭する“廃仏毀釈”運動を
      引き起こして日本中が大混乱に陥り、
1871年に至り、ようやく混乱が収まったものの、回復には長期間を要した。

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