“流し雛”は、穢れや厄を人の形をした紙の人形や雛人形などに移し、川や海に流す事
によって祓った行事で、現在でも各地に残っているそうだ。
又、この“流し雛”の行事が、宮中のひいな遊びへと発展し、女の子の健やかな成長と幸
せを願う現在の雛祭りへと変わって行った、とも言われているそうだ。
ところで、わが町の八幡神社の摂末社の一つに“淡嶋神社”があり、毎年この“流し雛”
の行事が行われている。
行事は、桟俵(さんだわら、俵の両端の口に当てる直径30cm位の円形の藁蓋)に乗せた
紙の人形(かたしろ)で自分の体を撫でて、それを神社の前の川へ流すだけの至ってシン
プルなものだ。
古代ユダヤでは、年に一度、ヤギに人々の苦難や罪を背負わせて荒野に放ったと言うが、
日本の“流し雛”の行事と似たところがある。
こんな簡単な事で苦難や罪から逃れられるのなら簡単なものだが、昨今世界中には大き
な苦難や罪が溢れている。 ヤギの大群や沢山の人形を乗せる大船を用意しなければと
ても間に合わないだろう!
わが町の八幡神社の下流には“祓殿神社”というのがあって、そこから下流には一切の
穢れを流さなかったらしい。 今や世界にはでかい“祓殿神社”も必要なようだ!
淡嶋神社(和歌山市加太)…淡嶋神社のHPから引用
祭神:少彦名命、大己貴命、息長足姫命(神功皇后)
由来:神功皇后が三韓出兵から帰る際、瀬戸内海で激しい嵐に会い危うく沈みそうにな
ったが、神のお告げで友ヶ島に辿り着く事が出来た。
島には少彦名命と大己貴命が祭られていて皇后は宝物を捧げたが、その後神功皇
后の孫にあたる仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来られた際にそのいきさつを聞き、社を
対岸の加太に移され、社殿を建てられたのが加太淡嶋神社の起こりとされている。
行事:少彦名命は裁縫の道を初めて伝えた神様で、毎年2月8日に、一年の間に納めら
れた針を本殿でお祓いを受けた後に土に返す針供養が行われる。
又、男びな女びなの始まりは、淡島神社のご祭神である少彦名命と神功皇后の男女
一対のご神像であるとされ、雛祭りが3月3日になったのは、友ヶ島から対岸の加太
への遷宮が、仁徳天皇5年3月3日であった事からだと言われている。
雛祭りの語源も、スクナヒコナ祭が後に簡略化されて、ヒナまつりと言われるように
なったとされている。
3月3日の正午からは、親が我が子の健やかな成長への願い事を書いた人形が本
殿でお祓いを受けた後に船に乗せられ、穏やかな春の海に千羽鶴がまかれて神の
国へと続く道が出来た中を、先導する船に引かれ沖へ沖へと向かい、やがて神の国
へと流れて行くと言う、雛流しの行事が行われる。
大国主(おおくにぬし)…Wikipedia から引用
日本神話の中で、出雲神話に登場する神。『日本書紀』本文ではスサノオの息子とされる。
多くの別名を持ち、これは神徳の高さを現すと説明されるが、元々別の神であった神々を
統合した為ともされる。
(別称の一部)
・大国主神(おおくにぬしのかみ) - 大国を治める帝王の意
・大己貴命(おほなむちのみこと) - 大国主の若い頃の名前
スサノオの後に少彦名命と協力して天下を経営し、まじないや医薬などの道を教え、葦原
中国の国作りを完成させ、国土を天孫ニニギに譲って杵築(きづき)の地に隠退、後に出
雲大社の祭神となる。 国造り、農業、商業、医療などの神様として信仰されている。
少彦名命(すくなひこなのみこと)…Wikipedia から引用
日本神話における神。『古事記』では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子とされ、
『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。
天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、大己貴大神(おほなむじのみこと、大国主の命)に
よって国造りに参加した、医薬・酒・温泉の神様。
インドのヒンドゥー教のシヴァ神と日本古来の大国主命が習合し、七福神の“大黒天”と
呼ばれるのに対し、少彦名命を七福神の“恵比寿”と呼ぶ事もある。
によって祓った行事で、現在でも各地に残っているそうだ。
又、この“流し雛”の行事が、宮中のひいな遊びへと発展し、女の子の健やかな成長と幸
せを願う現在の雛祭りへと変わって行った、とも言われているそうだ。
ところで、わが町の八幡神社の摂末社の一つに“淡嶋神社”があり、毎年この“流し雛”
の行事が行われている。
行事は、桟俵(さんだわら、俵の両端の口に当てる直径30cm位の円形の藁蓋)に乗せた
紙の人形(かたしろ)で自分の体を撫でて、それを神社の前の川へ流すだけの至ってシン
プルなものだ。
古代ユダヤでは、年に一度、ヤギに人々の苦難や罪を背負わせて荒野に放ったと言うが、
日本の“流し雛”の行事と似たところがある。
こんな簡単な事で苦難や罪から逃れられるのなら簡単なものだが、昨今世界中には大き
な苦難や罪が溢れている。 ヤギの大群や沢山の人形を乗せる大船を用意しなければと
ても間に合わないだろう!
わが町の八幡神社の下流には“祓殿神社”というのがあって、そこから下流には一切の
穢れを流さなかったらしい。 今や世界にはでかい“祓殿神社”も必要なようだ!
淡嶋神社(和歌山市加太)…淡嶋神社のHPから引用
祭神:少彦名命、大己貴命、息長足姫命(神功皇后)
由来:神功皇后が三韓出兵から帰る際、瀬戸内海で激しい嵐に会い危うく沈みそうにな
ったが、神のお告げで友ヶ島に辿り着く事が出来た。
島には少彦名命と大己貴命が祭られていて皇后は宝物を捧げたが、その後神功皇
后の孫にあたる仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来られた際にそのいきさつを聞き、社を
対岸の加太に移され、社殿を建てられたのが加太淡嶋神社の起こりとされている。
行事:少彦名命は裁縫の道を初めて伝えた神様で、毎年2月8日に、一年の間に納めら
れた針を本殿でお祓いを受けた後に土に返す針供養が行われる。
又、男びな女びなの始まりは、淡島神社のご祭神である少彦名命と神功皇后の男女
一対のご神像であるとされ、雛祭りが3月3日になったのは、友ヶ島から対岸の加太
への遷宮が、仁徳天皇5年3月3日であった事からだと言われている。
雛祭りの語源も、スクナヒコナ祭が後に簡略化されて、ヒナまつりと言われるように
なったとされている。
3月3日の正午からは、親が我が子の健やかな成長への願い事を書いた人形が本
殿でお祓いを受けた後に船に乗せられ、穏やかな春の海に千羽鶴がまかれて神の
国へと続く道が出来た中を、先導する船に引かれ沖へ沖へと向かい、やがて神の国
へと流れて行くと言う、雛流しの行事が行われる。
大国主(おおくにぬし)…Wikipedia から引用
日本神話の中で、出雲神話に登場する神。『日本書紀』本文ではスサノオの息子とされる。
多くの別名を持ち、これは神徳の高さを現すと説明されるが、元々別の神であった神々を
統合した為ともされる。
(別称の一部)
・大国主神(おおくにぬしのかみ) - 大国を治める帝王の意
・大己貴命(おほなむちのみこと) - 大国主の若い頃の名前
スサノオの後に少彦名命と協力して天下を経営し、まじないや医薬などの道を教え、葦原
中国の国作りを完成させ、国土を天孫ニニギに譲って杵築(きづき)の地に隠退、後に出
雲大社の祭神となる。 国造り、農業、商業、医療などの神様として信仰されている。
少彦名命(すくなひこなのみこと)…Wikipedia から引用
日本神話における神。『古事記』では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子とされ、
『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。
天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、大己貴大神(おほなむじのみこと、大国主の命)に
よって国造りに参加した、医薬・酒・温泉の神様。
インドのヒンドゥー教のシヴァ神と日本古来の大国主命が習合し、七福神の“大黒天”と
呼ばれるのに対し、少彦名命を七福神の“恵比寿”と呼ぶ事もある。
拝見させて頂いておりましたが、初コメントです
現在この様な地域文化の継承が難しくなっている中で、地域にある伝統文化を後世に伝えていかれている事は素晴らしいと思います
地域活動の大切さと高齢の方々ではなく若い方の参加
が重要だと思います
また、何気にある地域の社の云われをこの様に調べられる事も大切だと思います
我が町では、公民館の主催で1年に一度、町内の史跡巡りをやっていて、
それには子供達も参加しています。
そのほかに、今はやりの“ふるさとに関する検定試験”もやっていて、
これには学校で“郷土学習”をしている子供達の方が好成績をあげています。
子供達が、先人の苦労や思いを知り、未来を築くよすがにしてくれると良いですね。