里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

豪徳寺の招き猫

2011年11月08日 | 神 仏

豪徳寺の前身は世田谷城主吉良政忠が建立した弘徳院で、寛永10年(1633年)に世田谷20ヵ村が彦根藩主井伊直孝に加増された後に井伊家の菩提寺となり、直孝の死後その院号「久昌院殿豪徳天英居士」に因んで寺の名前を豪徳寺と改めた。
因みに、上町駅の南東には彦根藩の代官屋敷があるが、代官の大場氏は元は吉良氏の家臣で初代以来廃藩置県まで世襲で代官を務めた。
松並木を見ながら参道を進むと、正面に山門がある。
その先にある仏殿をはじめ、井伊直孝の娘掃雲院は多くの堂舎を建立、寄進し、井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。
仏殿とその三世仏像、達磨・大権修理菩薩像及び石灯籠2基、梵鐘が当時のままに現在に伝わっている。
その更に奥には本殿があるが、昭和42年に建てられた鉄筋コンクリート造りの新しいものだ。

面白いのは井伊家の菩提寺となったいきさつだ。
鷹狩の帰りに通りかかった直孝が寺の飼い猫が手招きをした為に一休みし、寺の住職からお茶の接待を受けている間に雷雨になった事から、ずぶ濡れにならずに済んだと大いに喜び、これが縁で菩提寺にしたそうだ。
仏殿の左側には招猫堂の山門がある。

吉良家が滅亡して以来貧乏暮らしをしていたお寺が、飼い猫のおかげで一夜にして裕福になったものだから、住職は猫が死ぬと墓を建てて手厚く葬り、その後招猫堂を建てたという。
豪徳寺では招猫堂に招猫観音を祀ってある。
猫は“招福猫児、まねぎねこ”と呼ばれ、招猫観音の眷属とされている。
招猫堂の横にはたくさんの絵馬が掲げられており、
願がかなったお礼に多くの招福猫児が奉納されている。
仏殿の左手前には2006年に完成した三重塔がある。

ボランテイアガイドの話では、塔の建設にあたって檀家の寄付は少額で済んだそうだ。
何しろ豪徳寺は裕福で、広大な境内の周りの多くも寺有地で相当な額の地代が入るのだそうだ。
正に猫様々で、我が家に始終出入りする近所の猫に見習って欲しいものだ!
三重塔の2層目の軒下には招福猫児観音像の周りに子猫達が配置されている。
ボランテイアガイドの話では、その内の1匹は直孝公を手招きしたタマちゃんだそうだ。

豪徳寺…wikipedia より引用
本寺付近は、中世の武蔵吉良氏が居館とし、天正18年(1590年)の小田原の役で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。
文明12年(1480年)、世田谷城主吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院の為に
弘徳院」と称する庵を結んだ。
当初は臨済宗に属していたが、天正12年(1584年)曹洞宗に転じる。
寛永10年(1633年)彦根藩主井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備した。
寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」による。

井伊家…wikipedia より引用
戦国時代は今川氏の配下にあったが、今川氏の滅亡後の天正3年(1575年)に井伊直政が徳川家康の配下となり多くの武功を立てた。
天正18年(1590年)には家康の関東入府に伴い上野国箕輪12万石、関ヶ原の戦いの後には近江国佐和山に18万石を与えられた。
直政の死後、直政の子の井伊直勝は慶長9年(1604年)に近江国彦根に移り築城し、
1615年(元和元年)幕命により弟の掃部頭直孝に彦根藩主の座を譲ったが、直孝の代には35万石の譜代大名となる。
江戸時代の彦根藩家は、直澄直該直幸直亮直弼と5代にわたって大老職を出すなど譜代大名筆頭の家柄となったが、堀田家、雅楽頭酒井家、本多家などの有力譜代大名が転封を繰り返す中で彦根藩家は1度の転封もなかった。

江戸時代後期に直弼は老中阿部正弘の死後に大老となり、将軍後継問題では南紀派を後援し、一橋派への弾圧である安政の大獄を行うが、桜田門外の変で暗殺された。
直弼の死後、幕政の混乱の責任を直弼に押し付けられる形で10万石を没収された事から、大政奉還後には譜代筆頭にもかかわらず新政府側に藩論を転向し、以後は新政府側に属して転戦し、明治17年(1884年)には伯爵となり華族に列した。


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