里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

井伊家墓所と松陰神社

2011年11月09日 | 神 仏
豪徳寺の井伊家墓所の次に松陰神社を訪れた。

先ず、菩提寺の豪徳寺境内にある井伊家墓所を訪れた。

江戸で亡くなった藩主や家族を葬ってある場所だ。
参道正面の奥まった所には2代藩主井伊直孝の墓があり、
そこから左に折れて奥まった所へは13代藩主の井伊直弼の墓がある。
真ん中の墓が井伊直孝の墓だ。

父から引き継いだ彦根藩が一代で18万石から35万石に加増されるなど、譜代大名筆頭の家柄となる礎を築いた人物だ。
これが井伊直弼の墓だ。

老中阿部正弘の死後に大老となり、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、将軍後継者としては徳川家茂を後援して、これらの諸策に反対する尊皇攘夷派や一橋派を弾圧する為に安政の大獄を行い、桜田門外の変で暗殺された人物だ。
次に松陰神社を訪れた。
安政の大獄に連座し、江戸の伝馬町で30才の若さで刑死した吉田松陰を祀ってある神社で、刑死4年後の文久3年(1863年)に門下生であった高杉晋作・伊藤博文などによってこの地に改葬され、明治15年(1882年)に門下生達により墓のそばに社が築かれた。
安政の大獄を行った井伊直弼の墓の直ぐ近くに、殺された松陰の神社があるとは驚いた!
左が社務所で正面が社殿だ。
これが社殿だ。
社殿の右側には、山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模した建屋がある。

嘗てこの塾で松陰の教えを受けた久坂玄瑞・高杉晋作・木戸孝允・山縣有朋・品川弥二郎・伊藤博文などの、やがて明治維新を通して近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出した。

阿部正弘といえば備後福山藩の藩主だ。
井伊直弼共々、幕末の動乱期に老中のトップを務める為にかさむ経費で国許を疲弊させながら開国を進め、挙句の果てに阿部正弘は37才で若死にし、井伊直弼に至っては暗殺されてしまった!
一方の尊王攘夷派は、当初は開国に反対して多くの犠牲者を出したものの、倒幕後は結局開国に踏み切った。

昨今のTPP(環太平洋経済連携協定)交渉参加も国論を2分する論議を呼んでいるが、これも嘗て起きた開国論議によく似ている。
まさか殺しあう事は起きないだろうが、何時まで経っても結論が出そうにない?


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