一僧侶の日常の思いを語る
沙門の法話
お陰
今日はお寺に勤めていた頃の懐かしい親友に会いました。ちょうど会葬に来られたみたいでお互い仕事と家庭をもっているとなかなか話す機会がないので束の間の昔の自分になれました。
話しながら自分ってこういうふうに笑えるんだと不思議な気分でした。
20代のころからの知り合いと今こうして40代になってからの知り合いは何か違います。
どこか人生を歩む中で置いてきてしまったものがあるのかもしれません。今は数多くの方々に関われる一方、強い責任を感じています。
きちっと仕事をこなしたい。
だからどこかいつも緊張しているのです。お寺にいた頃もそうでなかったわけではないけど責任という意味では今のが強いような気がします。
もっと多くの人のお役に立ちたい。
ただ変わらないものがあるはずです。彼はこう言いました。自分も〇〇さん(私のこと)も良い人だから人に好かれるんだよ。
確かに多くの人に今も助けられています。
でも私は思います。彼も私もどこか正直で騙されやすく、不器用な人間だと。
それでもこうして守られているのは見えない何かのお陰だと思います。
話しながら自分ってこういうふうに笑えるんだと不思議な気分でした。
20代のころからの知り合いと今こうして40代になってからの知り合いは何か違います。
どこか人生を歩む中で置いてきてしまったものがあるのかもしれません。今は数多くの方々に関われる一方、強い責任を感じています。
きちっと仕事をこなしたい。
だからどこかいつも緊張しているのです。お寺にいた頃もそうでなかったわけではないけど責任という意味では今のが強いような気がします。
もっと多くの人のお役に立ちたい。
ただ変わらないものがあるはずです。彼はこう言いました。自分も〇〇さん(私のこと)も良い人だから人に好かれるんだよ。
確かに多くの人に今も助けられています。
でも私は思います。彼も私もどこか正直で騙されやすく、不器用な人間だと。
それでもこうして守られているのは見えない何かのお陰だと思います。
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