林間教育通信(「東大式個別ゼミ」改め「シリウス英語個別塾」)

私立中高一貫校生徒を対象とする英語個別指導塾。小田急線の東林間駅(相模大野と中央林間の隣駅)から徒歩3分。

木村松雄のNHK基礎英語1について(まとめ)

2010年07月15日 | 英語学習
何度もとりあげましたが、木村松雄によるNHK基礎英語1は、会話重視のヒドイ独りよがりの番組です。

個別指導で行っている英語ですが、先週はとうとう[基礎英語1]を断念するに至りました。というのは、一週間すべてのスキットが難しすぎる内容ばかりだったからです。生徒は県立進学校(旧相模大野高校レベル)には確実に進学できそうな優秀な子なのです。しかし、今回ばかりはさすがに復習を諦めました。どうして、Mr.キムラはまともなバランス感覚がないのでしょうか?

もしかすると、このくらいのレベルじゃないと将来英語を使える日本人にはなれないのではないかと思う人もいるかもしれません。しかし、そういう生徒は、むしろ基礎英語2や基礎英語3を同時並行的に聴取すればよいのです。NHKにはさまざまな英語番組があるのですから。


もしよろしければ、上の基礎英語のところをクリックしてください。PCから音声を聞くことが出来ます。テキストは写真をみてください。




なお、いままでの関連記事は以下のとおり。

NHK 基礎英語1(木村松雄先生)の和訳法 2010年05月08日

NHK基礎英語1(木村松雄講師)の功罪 2010年05月29日 | 英語学習

NHK 基礎英語1(木村講師)は文法軽視への苦情 2010年06月14日 |

NHK 基礎英語1による指導の実際 2010年06月26日 | 英語学習

わからない箇所でフリーズする(数学)

2010年07月15日 | 数学学習
スバラシク面白いと評判の初めから始める数学I・A (Part1)
馬場 敬之
マセマ出版社

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いま、数学が苦手な高校生にとってもっとも分かりやすい参考書はなんだろうか?

思いつくままに候補をあげると、坂田アキラのシリーズ、マセマの『初めから始める数学』、『これでわかる数学―基礎からのシグマベスト 』(シロクマのマーク)、『語りかける高校数学』あたりではないだろうか。参考書には相性があるので、一人の高校生にはマセマをやらせている。やはり、学校で配布されている問題集や教科書よりははるかにわかりやすいようだ。

しかし、それでも躓いてしまうことがある。参考書の解説文がわからなくとなると、ある子は固まってしまっていた。パソコンでいえば、まさにフリーズ状態である。

訊いてみると、どこで分からなくなったかも分からないのだそうだ。しかし、1:2の個別指導の授業は、そのとき、もうほとんど終了時間だった。

気持ちは分かるがそれではダメだ。全体的に分からないかったのならば、1頁全体に大きく柔らかいエンピツで をつけてみたらどうだろうか。だが、そういう印をつけることができず、固まってしまっていたのだ。フリーズした頭をリセットして再起動させるのも、個別指導の役割だ。

まず、講師の私が、大きく○を書き込み、「むつかしくてわからなかった。7月14日(←フランス革命記念日ですね)」と、書いてみる。

「どうしても分からないところは飛ばして先へ進もう。別の問題ならばわかるかもしれないじゃないか。それで、どうしても先の問題もわからなかったら、今度、一緒にやろう」と声をかけて、授業を終わりにした。

参考書に書き込みを入れ、記しをつけておくこと。わからなかったと書いておくだけでもよい。しかし、たったとこれだけのことも、一人ではなかなかできません。

英語と日本語の間で(その5):メル・レヴィーン「言葉と歩む道」

2010年07月14日 | 受験
ひとりひとりこころを育てる
メル レヴィーン,メル・レヴィ―ン,岩谷 宏
ソフトバンククリエイティブ


2010年の7/10に投稿した文章「ネイティブの文法力の疑わしさ」(Scinece DailyのScience News(10 July 2010)「多くの英語の話し手は、基本文法を理解できていない」)であるが、ちょっと不適切な文章を書いてしまったなと思っている。

後書きであるが、チョムスキーや生成文法よりもバーンスティンやブルデューの研究に近いのだろうという感想を付け加えた。しかし、それでもあまり良い議論ではなかった。社会学というよりは、発達心理学、教育方法論、あるいは医学のようなテーマと理解すべきだったのだ。たとえば小児科医レヴィーンの『ひとりひとりこころを育てる』のほうが、数段くわしく同じテーマを扱っていることに気がついたからである。

レヴィーンのこの本の邦訳の中では、「言葉と歩む道」(173-221頁)がとくに重要である。(この人の英語は読みやすいので、むしろ原書を勧めたいのだが、あいにく私は持っていない)。そのほんの一部だけ、言葉の順序(199-208)だけを取り上げてみよう。

子供達が学齢期にマスターしなければならない、難しい文章構造の例を次の表に示そう。

[理解すべき課題] 文の最初の名詞が動作者でなくてもよい
[文例]The great Dane was chased by the Appalosa.

[理解すべき課題] 文の中の動作の順序は実際に行われる順序でなくても良い
[文例] Call you friend when your homework is completed.

[理解すべき課題] 一つの名詞が二つの筋の主語でもよく、節は文の中程にあっても良い。
[文例] The girl who borrowed that book showed it to her mother.

[理解すべき課題] 一つの名詞が二つの節の目的語であってもよい。代名詞が文中の誰かを指さなくても良い。
[文例] The teacher know the boy who was punished by the principal.
Jim thinks he is a good cook. (He is not Jim).


[理解すべき課題]代名詞と、それが指している誰かが文中で遠く離れても良い。
[理解すべき課題]動詞にいちばん近い名詞はその動詞の動作をした者でなくてもよい。
[理解すべき課題]質問の意味は最初の言葉で決まる。
[理解すべき課題]文の意味が複数あり得ることもある。


全部書ききれないのでこれまでとしよう。一番最初の[理解すべき課題]とは、まさに「受け身」の理解であることがわかるだろう。Science Newsに掲載されたもっともらしい論文のテーマは、Levineの啓蒙書によって、すでに簡潔に判りやすくとりあげられていたのである。

注目すべきは、これらの諸命題が我が国の英文解釈の参考書のテーマのようであるということである。おそらく、西きょうじや伊藤和夫を詳しく見れば、似たような課題を見つけることも出来るであろう。

日本人の英語学習が直面している英文解釈上の諸問題というのは、実のところ、外国語学習者特有の問題ではなかったのだ。英語ネイティヴも、英語学習する際には、かなり類似したり共通している問題に直面していたのである。英語ネイティヴの多くが苦しんでいる課題を、日本人学習者も苦労して習得しようとしているだけなのである

英文解釈法の重要性をあらためて痛感する。同時に、我が国において、「文の構造に対する直感や文法規則の理解力を持っていない」(同書、204)日本人ネイティヴ向けの、国語解釈法といえるものが本当にあるのか、考えてみる。私の生徒には、小学生向けの出口「論理エンジン」をやらせてはいるのであるが。。。。

英語と日本語の間で(その4)ーー主語って何?

2010年07月13日 | 英語学習
さあ、いよいよ「英語と日本語の間で」の本論に入るぞ。題して「主語って、何?」です。

本当は石崎さんの「カエル英語」に行きたかった。しかし、やはりこの議論を先にしないではいられない。それほど、大事なトピックです。

ここで言語哲学的な議論に立ち入るつもりは全然ない。もしかしたらピンカーとかを参照したくなるかもしれないが、そういうムツカシイ議論をしたいわけでは全然無い。それなのになぜ「主語とは何か」などという問が出てくるのかと言えば、理解力の低い生徒にも教えることがあるからです。

さて、あまり言語的な能力が高そうではない小中学生に英語を教えるのだとしても、やはり理屈を分かってもらいたい。つまり、詰め込み式の丸暗記ーーたいていの場合しばらくすると全部忘れてしまうーーじゃなくて、英文法だとか言葉の仕組みについて理解してもらいたい、そんなに風に考えています。となれば、日本語は日本語で、英語は英語でそれぞれ理屈を考えましょう、などというのはダメです。精一杯日本語の感覚とロジックを活用しながら英語を学ぶしかないはずなのです。

使用テキストは石崎の『基本にカエル英語の本』です。この本が良いと思うのは、主語や補語といった基本的概念を、まずは日本語で考えようとしている点です。(Lesson1-5)。

ケロ蔵は歌を歌っている

という文章があったら、主語が「ケロ蔵は」、目的語が「歌を」、動詞が「謳っている」であると確認する作業から始めるわけです。もちろん日本語で、主語、動詞、目的語がなんだか考えるのです。

Lesson6になってようやく英語がでてきます。英語では、「ケロ蔵は」(主語)、「謳っている」(動詞)、「歌を」(目的語)という順番なんだよと確認しながら、ゆっくりと進めていきます。

私の授業でも、こういうやり方をしています。まずは「私は」だね、英語ではIだよね。次は?ーそう「する」だ、英語ではplayだよ。最後に「野球を」が来るね、これはbaseballだよねとみんなで確認してから英作文をするのです。それが英語の文法なのです。

もちろん、それでもI amとかHe isとかbe動詞が出てきちゃいますよ。「する」は「play」だよねと教えてあげたのですが、20秒後には忘れちゃっているのです。理解力の低い子供はそうんなものなのですね。


しかし、語学教育は、そのレベルの生ぬるいものではなかった!

主語が文の先頭になかったり、主語の先頭に所有代名詞や「あなたの」といった言葉がある場合には、学習者は主語を簡単に捜しだ出すことが出来ないのです。

どいうことか? たとえば、次の文章があったとします。

日本語: あなたのお父さんは病気です。
英語 : Your father is sick.

主語に○をつけてごらんと言うと、「あなたの」と”Your”につけてしまうのです! Yourに○をつけるのは英語初心者だから仕方ないのですが、「あなたの」に○をつけるのは非常に困ることです。だが、それが現実なのです。それが普通の公立小中学生の日本語力なのです。

私は問いかけました。「『あなたの』が主語というのは、変な感じがしない? 『あなたの』じゃ落ちつかないでしょう? 『あなたの』さんが『病気になった』というのは、よくわからないよねえ」と。

いちおう、その場では主語が何であるのかわかってもらえます。さらには『自由自在 国語3-4年生』なども使って練習問題も重ねましたし、宿題も出しました。しかし、何日か後にはすっかりわすれてしまい、やっぱり、主語はMyや「私の」になってしまいます。

要するに、主語あるいは動作主の概念がひろく日本語ネイティブにひろく共有されていないと言うことなのです。おそらく、実生活では、文脈から動作主体が何だか察することが出来ますので、苦労はしない。しかし、文脈から察することの出来ない複雑な文は理解できない。そういう言語力段階にあると言うわけです。

他にも例を挙げましょう。さて、今度の例は、沖縄で学習塾をされているyojiさんの事例です。2010年の5月6日「『私のお母さん』は複数」からです。この生徒の場合は、主語がどこの部分であるのか、わかっています。しかし、その部分の解釈が間違っているのです。一部のみ抜粋しましょう。


「すると、彼は少し躊躇していましたが、つぎのように答えました。「私のお母さんは、『私』と『お母さん』二人だから複数になる。だから基本になる。」


My mother=私のお母さん=私とお母さん というのが子供の頭の中にある。よって、My motherは複数形であると解釈してしまったのです。(なお、文中の「基本」とは、三人称の単数にはならず、sを付ける必要はないという意味です)。


さあ、これで日本語力を頼りに英文法を教えようと言う試みが、それほど簡単ではないことも明らかになっただろうと思います。動詞とは違って主語ならば、英語と日本語はそれほど違いがないと思っていたですが、日本語でも主語が分からない生徒がたくさんいるからなのです! こりゃ、大変です。が、我が国の英語教育を考えるというのは、そういう生徒をも射程に入れるということなんですね。

逆に言えば、英語教育の時間がいかに大きな役割を担っているのかと言うことです。英語の時間を通して、様々な言語力の増強の可能性が開かれていることを意味しているからです。

英語を通じて日本語や思考力を鍛えていきましょう、英語の先生方!

なお、メル レヴィーンの著作たとえば『ひとりひとりこころを育てる 』も大いに参考になりました。

英語と日本語の間で(その3)ーー古文マドンナと英文法

2010年07月12日 | 英語学習


まずは写真を見てもらいたい。受験古文のマドンナこと、荻野文子のYoutube上の授業である。

すでに知っている人は知っていることなのだろう。しかし、私にはたいそう驚くべきことに、古文なのに英文法のような言葉、主語、動詞、補語が用いられているのである。

2枚目の写真は、なんとS1 + V1 「て」 (S2+) V2である。要するに、接続詞「て」ではさまれた文章がある場合、S2が省略されていても、V2の主語はS1だというのである。(詳しくはYoutubeをもてもらいたい)。

まるで伊藤和夫のヴィジュアル英文読解の授業を見ているようではないか。(伊藤の場合は、S+V and M S+VにおけるMの解釈が詳しく説明されてあったはずだ)。おそらく、荻野の講義にも、伊藤和夫らの英文解釈の手法の影響を受けているに違いない。

日本語の読解や、日本語文法をかたるときにも、英文法は欠かすことが出来ない時代にはいっているということなのだろう。私が学生時代にもたしかにそういう感じはあったのだが、現代ではさらに進展しているというわけだ。

ちなみに国語辞典をみてみると、日本語の補語・目的語も載っている。(以前紹介したipodtouch用の大辞林)。どうやら、英語教師と日本語教師が協力して文法教育を考えていかなければならない時代になったようです。

【補語】

①〔complement〕英文法などで,不完全自動詞・不完全他動詞の意味を補う語。He is a teacher. He made her happy. などにおけるa teacher,happyなど。
②①にならって国文法で,述語動詞の意味を補って,文意を完全にする役割を果たす語句をいう。連用修飾語のうち,主として格助詞「に」「と」を伴うもの。「花が実になる」「白を黒という」における「実に」「黒と」の類。格助詞「を」を伴うものを目的語または客語というのに対する。

【目的語】

文の成分のうち,述語動詞の表す動作・作用が及ぶ対象物や相手を表す語。「卵を割る」「湯をわかす」「辞書をひく」の「卵を」「湯を」「辞書を」などのように,現代語では,多くの場合,格助詞「を」を伴う。もっとも,国文法では,一般に連用修飾語に含めて取り扱われ

大辞林 第三版



ネイティヴの文法力の疑わしさ

2010年07月10日 | 英語学習
一部の障碍者をのぞけば、誰だって母語については、ある程度以上の言語力が身に付いていると考えていたと思う。外国語や書き言葉の習得については、旨いとか下手とかの違いはあったとも、母語を話したり聞いたりする基本的能力については、ほとんど格差がないはずだと思いこんでいたはずだ。


ところが最近のScinece DailyのScience News(10 July 2010)によれば、そういう前提が誤っている。題して、「多くの英語の話し手は、基本文法を理解できていない」である。



Northumbria University の研究者Dr Dabrowskaが述べることを要約する。

語彙の大小だとか、複雑な構文を理解するかとか、そういうレベルでの言語力の違いはあるかもしれない。しかし、核となる文法についていえば、同じ言語コミュニティーの者ならば誰もが共有しているはずだと想定されていた。ところが、Dr Dabrowskaの研究によれば、基礎的な文法が共有化されているという想定は誤りで、英語のネイティブ・スピーカーであっても、ごく基礎的な英文法が共有されているとは限らない。たとえば、受け身の意味を解さない人たちが多数存在することが分かったというのである。

"The soldier was hit by the sailor."(その兵士は、水夫に殴られた)といった類の文章を、大学院生から16歳で学校教育をやめてしまった人まで、その意味を解読するテストを受けさせたのだそうだ。すると、受け身を理解していない成人ネイティヴスピーカーがかなりいることがわかったのである。

受け身の文章を理解していない人々は、学校教育をあまり受けていない人に多いのであるが、決してテスト慣れしていなかったからとか、知性が劣っているのだとか、そう言う理由によるものではないとのことだ。

Dr Dabrowskaが言うには、この調査の持つ含意は広範囲にわたり、チョムスキーの普遍文法論などの言語理論や、従来の教育方法論についても見直しを図らなければならない。





なるほどと思う。アジアの言語とは異なって、英語は主語を重視する言語だ。だから、主語が捻れている受け身文が普遍的に受け入れられないのかもしれないなと勝手な想像を巡らす。だが、もう少し研究成果をじっくりと読んでみたい。英語のネイティブにおいて、受け身の文法が共有されていないというのは、どういうことなのか、より具体的に知りたいではないか。

同時に、日本語ネイティブにおいて、文法が共有されないという事態はあるのだろうか、という疑問も浮かぶ。欧文脈だとか、翻訳語的表現が、もしかしたら、日本語話者に共有していないのではないかとも想像する。また、次か、次の次の機会に詳しく述べるが、少なくとも中学生などにおいては、主語の概念を理解していない者が何人もいるのである。いずれにせよ、心理言語学者たちに調査をしてもらいたいことばかりである。

もちろん、日本の教育一般や英語教育の問題点についても思いを広げざるをえない。教師が普遍的であると思いこんでいた日本語文法が、実は全然普遍的ではなかったかもしれないではないか。多数の生徒が理解できない文章を、教師たちが書いたり、話したり、書いてしまってはいなかっただろうか、と危惧するのである>。

Northumbria University. "Many English Speakers Cannot Understand Basic Grammar." ScienceDaily 6. 10 July 2010 <http://www.sciencedaily.com&amp;amp;amp;amp;amp;#173; /releases/2010/07/100706082156.htm>.

(次回は、「英語と日本語の間で」の続きをやりたいと思います。なお、広島大学の柳瀬さんのご親切なアドバイスにしたがって多少文章を書き改めました。結果、Dr Dabrowskaの研究の意義を、彼女自身が想定しているような「普遍文法」概念への挑戦と見なすのではなく、むしろ言語力の社会的格差の問題ーーブルデューやバーンスティン流の研究ーーとして解釈しなおし、ブログを書き改めたのです)。

英語と日本語の間で(その2) 

2010年07月09日 | 英語学習
7月3日のブログでも紹介しましたが、江利川先生は”Nice to meet you”といったレベルであれば、日本語の介在は不要であると考えています。「しかし、大学入試レベルの英文となれば、自分の持てる日本語力(=思考力)を総動員したCALPの出番です。このレベルでは、英語よりも前に日本語(母語)で論理的に考え、表現する力が身についていないと使い物になりません」とします。

私はこの考え方を基本的に支持してはいます。しかし、この議論には一つ大きな前提があることを忘れてはなりません。進学校に通っている、ある程度以上の言語能力の持ち主の生徒に限定した議論だということです。言い換えれば、全生徒のうち10%前後のトップ層限定の話だということです。(江利川先生は、将来の普通の英語教員になる大学生に教えていると思うのですが、そういうロジックだけで良いのでしょうか?)

もし、残りの大半の生徒に英語を教えようと試みるのであれば、別のロジックが求められているはずです。すると、<日常伝達能力(BICS)の守備範囲なのか>、<高度な内容について読み、書き、論じるための認知学習言語能力(CALP)のレベルなのか>という二分法では不適切だとわかります。<日常伝達能力(BICS)>をさらに細分化する必要が出てくるからです。つまり、“Nice to meet you”だとか“How are you?”のような短い決まり文句を覚えるレベルなのか(≒小学校英語の現在)、それとも、“Is this a pen?”“ No, it isn't.”といった文法的理解と運用が求められているレベル(≒中学英語)なのかといった二分法です。

後者のレベル(中学英語レベル、あるいは初歩文法運用レベル)に対しては、前回述べたように、文法的理屈を重視したアプローチと反復練習を重視したアプローチとがあるわけです。(もちろん併用もある)。そして、もし前者のアプローチを採用するとなれば、常に日本語を英語に介在させることが求められるでしょう 

こんなことを書くと、“Is this a pen?”“ No, it isn't.”を理解させるのに、日本語の介在がそんなに必要なのかと疑問を持たれる方もおられるしれません。しかし、"This is a pen."を疑問文にしなさいと命じて書かせると”Is this is a pen."(←?を忘れるのは仕方ないかもしれないが)になってしまったりする生徒が多いのが現状です。また、10時間以上の個人レッスンをしているのに "No, it isn''t." がどうしても把握できないということは、現実にあるのです。そして積み重なっては、80%以上の生徒は中学卒業までにbe動詞と一般動詞の区別が出来ずに終わるのです。(←区別が出来なくても、通信簿で4はとれます)。このような現実をふまえるならば、日本語を用いた逐語的な英語理解というアプローチを簡単には否定できないはずなのです。


さて文法の基本中の基本は、英語ならば「主語」と「動詞」、日本語ならば「主語」と「述語」を理解することでしょう。つまり、「主語」「動詞」といった概念を把握させることから、文法教育を始める必要があります。このとき、日本語を最大限に活用すること、英単語と日本語を1対1対応にさせていくような視点が求められるはずです。

同時に、日本語の文法力の増強につながるような、英和対照的学習である必要があります。優秀な高校生の英文解釈法的な思考力増強とはかなりレベルが違いますが、英和双方の実力向上を目指す教育と言う意味では方向性は同じです。(つづく)


英語と日本語の間で(その1) 『基本にカエル英語の本』

2010年07月09日 | 英語学習
基本にカエル英語の本 英文法入門 レベル1
石崎 秀穂
スリーエーネットワーク


英語の基本は英文法のはずだ。しかし、日本語を母語とする者にとって、英語はまったく別系統の言語であるから、その文法の習得はかなり苦労することになる。当塾では、進学校に通う大学受験生であっても、そのほとんどには中学英語からやり直してもらっているくらいである。

私たちの経験から言えば、公立の中堅進学高(高校入試偏差値65以上か)の生徒、あるいは私立中堅校の生徒であれば、中学英文法を短期間で集中的に習得することは、それほど難しくない。だが、一般の公立中学の生徒(あるいは、一般の高校生)が初歩的な中学文法をマスターすることは非常に困難だ。中学校の学区にもよるだろうが、私たちの周囲の公立中学校の生徒の80%以上は、be動詞と一般動詞の区別ができないままに中学を卒業することになっているはずだ。

どういうことかといえば、”He plays the piano.”を疑問文にしろと言われると、”Is He plays the piano.”となってしまうかもしれない。あるいは、「この花はきれいです」を英訳しろと求められると、”This flower beautiful."となったりするだろう。つまり一般動詞の疑問文や否定文にbe動詞をもちいたり、あるいは、動詞がない文章を平気で書いてしまったりするのだ。

大袈裟に言えば、日本社会は大きく分裂しているのである。つまり、英語の動詞の使い方を容易に理解できてしまう生徒と、どうしても理解できない生徒とにである。

私が推察するに、言語に対する意識(気づき)を高めることができる生徒なのか、それとも無関心のままの生徒なのかが、分岐点なのだ。しかし、それにしても、何故そういうふうに大きく分裂してしまうのか、本当の理由はわかっていない。

さら残念なことがある。それは、この問題の原因を解明し、さらに解決しようとがんばっているような、大学人や英語の達人がほとんど存在しないように見えることである。(おそらく、勉強の出来ない子には無関心なのだろう)。

とはいえ、実践的には、少なくとも二つ以上の指針がある。一つは丹念にパターン練習を繰り返す方法だ。要するに、徹底的に体で覚えさせるようなやり方である。もう一つは、本当に易しいと思えるような、英文法を説明する言葉を模索することである。つまり、理解力の低い子にも理屈でなっとくしてもらうという方法論である。(さらにもう一つ理想的アプローチを付け加えるならば、言語意識を高めるような教育を実践することであろう)。

学者たちはbe動詞と一般動詞の区別とか、そういう超初歩英文法には興味がないようだが、一介の塾講師などはむしろこういう問題に敏感なのかもしれない。パターン練習によって英文法を習得させるアプローチのものとしては、以前にも紹介した東後幸生『英文法をイチから理解する』(←ただし、この本はbe動詞と一般動詞の弁別については、お勧めできない)などがある。

他方、英文法をなんとか普通の中学生にも理解してもらおうと考えたのが、たとえば、石崎秀穂である。石崎は日本語と日本語<文法>の感覚を最大限に活用しながら、英文法の論理を説明して見せようとしているのである。彼の説明それ自体は実はそれほどユニークであるわけではない。だが石崎の本は、理解力の低い中学生を相手に、なんとか英文法をわかってもらおうと格闘している多くの現場教師の共通の願いを代弁しているもので、見逃せないのである。(続く)

慶應シンポーー大学人と予備校講師

2010年07月04日 | 受験
7月11日(日)に行われる慶應大学言語教育シンポジウム「英文解釈法再考---日本人にふさわしい英語学習法を考える」は、塾屋からみても非常に興味深い。

端的に述べよう。大学に所属するアカデミズムの学者たちが、アカデミズムの外部に位置する受験参考書や予備校講師らを正面から論じようとしているからである。とりわけ、江利川氏(和歌山大学)と大津氏(慶應大学)においては、その姿勢が強い。江利川氏の場合は日本の受験参考書の歴史を主題化している。このことは氏のブログからもすぐに分かることだ。また、大津氏においてはかつてのカリスマ英語講師であった故伊藤和夫を評価している。伊藤は受験英語界ではカリスマ講師だったかもしれないが、アカデミックなキャリアからいえば単なる学部卒だ。たんなる駿台予備校講師でしかないすぎないのだ。その伊藤の『英文解釈教室』をとりあげて高く評価しているのである。(同時に東大名誉教授の朱牟田夏雄の『英文をいかに読むか』をもとりあげている)。

普通のキャリアを経て大学教授になった学者たちが受験参考書や予備校講師を評価するというのは、ちょっと異例のことではないのだろうか。非常に良い傾向だとおもう。だが、だからこそ、あえて問いたいのである。英語教育または言語教育ということを考えるにあたって、いわゆる大学関係者と予備校講師とはどのような関係にあるのかとか、大学教授が伊藤を評価するというのはどういう意味があるのかとか、ちょっとコメントしてくれても良いではないか。

アカデミズムと予備校は互いに無視しあってきた歴史があるだろう。しかし、とくに教員養成系教育学部と民間教育機関は、ほとんど同じ領域を扱ってきたではないか。互いに切磋琢磨することは不可能なのだろうか? 架け橋を担ってもらうことを期待できないのかとか、そういったことも願ってしまうのだ。


だが実のところ、私はもっと突っ込んだ指摘をしたいのである。

慶應大学の大津氏が駿台予備校の伊藤和夫をもちあげたのはまことに結構なことだ。しかし、伊藤和夫を評価すると言うことは、駿台に通うような、高校のごく上位の生徒の英語学習に焦点をあててしまったということではないか。同じ事は江利川氏にも言える。「認知学習言語能力」(CALP: Cognitive/Academic Language Proficiency)レベルには英文解釈法が有効であるといった趣旨の文章だが、言い換えれば、全高校生の10%未満あるいは国公立大学ないしはMARCH志望レベル以上の上位学力の高校生だけを念頭に議論してしまったということではないか。(東大出身で東大教授になった斎藤氏になると、さらにエリート主義的に限定的になる)。

学者・大学人であれば、国民一般大衆の英語教育にも目を向けるべきではないのか。国民の70-80%以上を占める、be動詞と一般動詞の区別も付かない普通の人たちの英語教育も、大事なのではないのか。そして、そういった一般の人々を教えようとする学校教師・塾講師の仕事にも視野を広げて論じるべきではないのか。

たしかに大津氏らは、稀代の天才中学英語教師である田尻悟郎には何冊かの本まで執筆している。だが、田尻のような天才でもないし、英語力もないかもしれないような(失礼!)、民間英語講師たちも、さまざまな工夫をしているのだ。たとえば私が注目しているのが、民間英語文法の開発を試みている『基本にカエル英語の本』 の石崎秀穂氏、英語と日本語の「英和中間語」なる概念を提唱しているselfyoji氏である。いずれも理解力の低い中高生などを念頭におきながら、ある意味では無茶苦茶な日本語的英語的なあるいは英語的日本語的文法論を展開しているのである。

学者が公的責任を果たそうとするならば、この二人の努力も無視してはならないと思う。ということで、今日はこれまでとさせておきます。次回はできたらですが、お二人の文法論をちょっと紹介しようと思っています。

江利川論文を読んで(英文和訳の必要性)

2010年07月03日 | 英語学習
前回の続きです。

さっそく大津先生のブログからシンポのためのパンフレットをダウンロードして読んでみました。興味深い議論だとか参考書が出ているのですが、私が一番嬉しかったのは江利川先生の文章の中に、「日常伝達能力」(BICS: BAsic Interpersonal Communicative Skills)「認知学習言語能力」(CALP: Cognitivie/Academic Language Proficiency)という概念をみつけたことです。私はこの概念は知りませんでしたが、同じ趣旨の内容を、このブログで書いていたからです。



(↑ 江利川春雄「英文解釈法の歴史的意義と現代的課題」より)


要するに、このペーパーの写真の項目では、歴史的英文解釈法(戦前の岡倉由三郎)を評価しつつ、かつそれを江利川なりに発展させたものです。つまり、英語のレベルが「日常伝達能力」が求められるくらいのものであれば日本語は不要だろうが、大学入試レベルの複雑な英語になるならば「認知学習言語能力」が必要となり、したがって日本語力=思考力も必要になってくると述べているのです。

私は、もっと露骨な表現を用いながらもほぼ同じ趣旨の内容を、2010年の1月の記事「英語長文学習において英文和訳は必要か」 で述べています。江利川のBICSとCALPに替えて、「センター試験および日東駒専目標レベルの英語」と「MARCH以上レベルの英語」という分類を用いていますが、ほぼ同じ主張であることがわかると思います。

和訳作成が全然要らないよと言えてしまうのは、簡単な英文を読めさえすれば良いという生徒だけだということです。英語で言えばセンター入試レベルが上限、大学で言えば日本大学、神奈川大学、大妻女子大学を目標とする生徒までです。青山学院が良いなあとか、学習院にあこがれる人、あるいは早稲田や横浜国大を目指そうとかいう生徒ならば、和訳作成はほぼ絶対に必要です!

その根拠は、次の通りです。

一言でいえば、GMARCHレベルになると、英語の文章に盛られている内容が相当難しくなるからです。つまり、和訳を読んでもすぐには理解できないような議論が展開されているからです。したがって、その文章を理解するためには、学習者の日本語の力を活用することがどうしても必要となってくるからです。たとえば、次の文章を読んでみましょう」

アメリカ人が『自由』という言葉で意味しているのは、すべての個人が、政府や貴族の支配階級や教会や組織化された他のいかなる権威による外的干渉を受けずに、自分自身の運命を支配したいという要求と能力である」(青山学院大学経営学部2007年度の英語問題の訳文より)
[←江利川の言うところのCALPあるいは認知学習言語能力が問われている英文の典型例だと言えるでしょう。]

GMARCHを目指す高校生でこの日本語が簡単だといえる人は少ないでしょう。ましてや英語で書かれてあるとすれば、ますます苦労するはずです。しかし、このレベルの文章は、英語だろうと日本語だろうと、しっかりと理解できるにしなくてはならないわけですね。それが大学受験の英語なのです。したがって、日本語力も英語力もフルに活用して、こういう文章が前提としている世界を獲得するように努めなくてはなりません。つまり、口頭で和訳をするのではなく、しっかりと和文を書きながら、じっくり考えていくべきなのです。

難解な和訳を作成すると言うことは、日本語力と英語力の世界を豊かにするために、どうしてもくぐり抜けなくてはならない重要で貴重な作業となることでしょう。




要するに、日東駒専神やセンター試験ならば和訳は不要かもしれないが、MARCH以上ならば和訳と日本語力が必要だという趣旨でした。受験大学のレベルによって和訳が必要になったり不要になったりすると言った論旨は、いかにも塾屋ですというような、ちょっとイヤラシイ文章ではあります。しかし、今回の江利川ペーパーを読んでみて、同じ考えの諸先生も多いのだと言うことで、勇気づけられた次第です。

江利川先生ブログ更新(英文解釈法の意義と課題)

2010年07月02日 | 英語学習
江利川先生のブログが更新されました。このたびの慶應でのシンポでのレジュメの最初の部分が発表されています。注目です。


 英文解釈法や和訳は、本当に「悪」なのでしょうか。
 もしそうならば、なぜ今日まで根強く生き続けているのでしょうか。


 では、英文解釈法が根強い支持を集めるのはなぜでしょうか。

 一言で言えば、千年以上をかけて日本に定着した、日本人にふさわしい外国語学習法だからです。
 この重みを無視するから、教授法改革は成功しないのです。




なお大津研究室BLOGでは、今度慶應シンポの詳しいパンフレットが用意されているようです。さっそく読まなくては。

新ipod(iPad)でお勉強かも

2010年07月01日 | 英語学習
私、まだiPadを購入していない。というか、今のところは買う予定はありません。しかし、iPad用所有者向けに発信された情報が、ipodtouch(iPHone)所有者にも有効である場合がありますので、ちょっと触れてみます。

英語タウンというところが制作した英語学習向けのipadないしはipodで読めるRetold Readersのソフトが出来たようです。写真は、オックスフォード大学出版局の許可を得てつくったもので『不思議の国のアリス』『赤毛のアン』『シャーロック・ホームズ』などの名作のRetold(分かりやすく書き直した物語)を600円という価格(iPad版は600円、iphoneまたはiPod版は450円)でダウンロードできるようにしたものです。難しい単語は解説を簡単に出せるので、使いやすいそうだ。



とはいえ600円という価格は決して安くないように思うので、私はちょっと気乗りがしない。たとえば、Oz(オズの魔法使い)をみてみよう。本で購入すれば中古で400円ipadならば600円 だ。Aliceだと新品で700円未満だ。ちょっと紙の本よりも安いかもしれないが、飛びつきたくなるほどでもない。英語タウンのソフトだと辞書不要なのかもしれないが、なんだかかえって面倒な気もする。

もちろん塾屋としての最大の問題点は、生徒に購入を勧めにくい点である。なにしろipadなる高価なPCを予め購入しなくてはならないからだ。(しかも通学途中に持ち歩くというわけにはいかない)

率直に思うに『アリス』とかではなく、英字新聞等のルビ訳(難しい単語には日本語訳がついているもの)のほうが大人の要望にぴったりではないだろうか。 英語タウンさん、もしよろしかったら、そのところお願いします。

なお、『アリス』『ホームズ』等の原文はGutenbergなどの無料ネット図書館でダウンロード可能なはずだ。また、ボランティアの朗読も無料で入手できる。しかし、無料でダウンロードしてプリントアウトするくらいなら、お金を出して買えば良いのでは良いじゃないかと思わないわけでもない。私自身は、Conrad, The Secret Agentを無料でダウンロードして50頁くらい読みましたが、挫折しましたことを告白してきます。