日本語力を使って英語の文法を説明するというのは、所詮無理のある試みだ。それは分かっている。だが、そうせざるをえないと思われる事情もあるのだ。今回は、そのことをメモ的に書いておこう。
まずは次の説明だ。
私は、○○です。
↑
↓
I am ○○.
こうして、私=I=主語、○○=○○=補語、です=am(be動詞)と説明する。もちろん批判も予想される。
たとえば、日本語に主語があるといえるのか?というのは、よく言われる話だ。しかも、日本語に補語があるのかとか、「です動詞」とか批判されたら、私たちはさらに非常にキビシくなるわけです(笑)。
さて、広島大学の柳瀬さんの「文法・機能構造に関する日英語比較のための基礎的ノート」をよむと、日英比較の興味深い議論がある。ある意味で、です動詞派にとってはキビシイ議論です。
中学生はしばしば “Today is/was test.”や “Today is/was interesting.”と言う。高校生が、“Matsusaka is Red Sox.”や “Tokyo is many people”といった英文を書く例も珍しくない。あるいは実話か笑い話かは不明だが、何を飲みたいか聞かれたビジネスマンが “I’m coffee.”と言ったとか、自らの専攻を聞かれた英文学者が “I’m Shakespeare.”と答えたなどのエピソードすら聞かれる
だが、ここでは柳瀬論文にコメントするのではなく、教える側からちょっと別の次元からこういった問題の周辺について考えておこうと思う。要するに、きわめて実際的な話である。
「です」が「be動詞」だとおしえたりしたら、「僕は珈琲だ」を直訳して"I am coffee"みたいな文章が生まれてしまうだろうと僕もは思う。本当の問題は、「主語」の問題ではない。むしろ、「補語」の理解の仕方にあるのではないだろうか。補語を「です動詞」によって理解させようとしているのが最大の問題なのだ。 (←とくに「基本にカエル」石崎の説明はそうなっている)
ではなぜ一体「です動詞」などというふざけた概念などによって補語を説明するのか?私の立場からすると簡単だ!
大半の小・中学生は、”=”の記号を理解できないからなのだ。
大半の中学生と、多くの中堅進学校の生徒ですら、”=”の記号の意味が良く理解できないのである。これが現実だ! 逆に、”=”というのを、「は、○○だ」という風にしか理解していないのである。だから英語の授業でも”=”の記号を使うわけにはいかないはずだ。(使っても良いが、生徒は理解できないだろう)。
つまり、
補語は=(等号)の関係だよ、
目的語は≠(不等号)だよ、
と教えるわけにはいかない。
I am a frog.という子に対しては、「お前はカエルか」? え、え、え!といって、一生懸命、補語と目的語の違いを説明しようとはしていますよ。しかし、何度やっても、多くの生徒は、概念的に補語と目的語の違いをよく把握することができない。数学語がわからないので、概念的に理解できないからなのです。仕方ないですね。
まとめです。
(1)主語も大事だけれど、目的語と補語の理解も大事です。
(2)日英語の比較だけでなく、数学語(といってもたいした数学力ではない)理解も大事だ。
と、今回はここまでとしておきます。(今後、文章を修正するかもしれません)
まずは次の説明だ。
私は、○○です。
↑
↓
I am ○○.
こうして、私=I=主語、○○=○○=補語、です=am(be動詞)と説明する。もちろん批判も予想される。
たとえば、日本語に主語があるといえるのか?というのは、よく言われる話だ。しかも、日本語に補語があるのかとか、「です動詞」とか批判されたら、私たちはさらに非常にキビシくなるわけです(笑)。
さて、広島大学の柳瀬さんの「文法・機能構造に関する日英語比較のための基礎的ノート」をよむと、日英比較の興味深い議論がある。ある意味で、です動詞派にとってはキビシイ議論です。
中学生はしばしば “Today is/was test.”や “Today is/was interesting.”と言う。高校生が、“Matsusaka is Red Sox.”や “Tokyo is many people”といった英文を書く例も珍しくない。あるいは実話か笑い話かは不明だが、何を飲みたいか聞かれたビジネスマンが “I’m coffee.”と言ったとか、自らの専攻を聞かれた英文学者が “I’m Shakespeare.”と答えたなどのエピソードすら聞かれる
だが、ここでは柳瀬論文にコメントするのではなく、教える側からちょっと別の次元からこういった問題の周辺について考えておこうと思う。要するに、きわめて実際的な話である。
「です」が「be動詞」だとおしえたりしたら、「僕は珈琲だ」を直訳して"I am coffee"みたいな文章が生まれてしまうだろうと僕もは思う。本当の問題は、「主語」の問題ではない。むしろ、「補語」の理解の仕方にあるのではないだろうか。補語を「です動詞」によって理解させようとしているのが最大の問題なのだ。 (←とくに「基本にカエル」石崎の説明はそうなっている)
ではなぜ一体「です動詞」などというふざけた概念などによって補語を説明するのか?私の立場からすると簡単だ!
大半の小・中学生は、”=”の記号を理解できないからなのだ。
大半の中学生と、多くの中堅進学校の生徒ですら、”=”の記号の意味が良く理解できないのである。これが現実だ! 逆に、”=”というのを、「は、○○だ」という風にしか理解していないのである。だから英語の授業でも”=”の記号を使うわけにはいかないはずだ。(使っても良いが、生徒は理解できないだろう)。
つまり、
補語は=(等号)の関係だよ、
目的語は≠(不等号)だよ、
と教えるわけにはいかない。
I am a frog.という子に対しては、「お前はカエルか」? え、え、え!といって、一生懸命、補語と目的語の違いを説明しようとはしていますよ。しかし、何度やっても、多くの生徒は、概念的に補語と目的語の違いをよく把握することができない。数学語がわからないので、概念的に理解できないからなのです。仕方ないですね。
まとめです。
(1)主語も大事だけれど、目的語と補語の理解も大事です。
(2)日英語の比較だけでなく、数学語(といってもたいした数学力ではない)理解も大事だ。
と、今回はここまでとしておきます。(今後、文章を修正するかもしれません)