前回の続きです。
さっそく大津先生のブログからシンポのためのパンフレットをダウンロードして読んでみました。興味深い議論だとか参考書が出ているのですが、私が一番嬉しかったのは江利川先生の文章の中に、「日常伝達能力」(BICS: BAsic Interpersonal Communicative Skills)と「認知学習言語能力」(CALP: Cognitivie/Academic Language Proficiency)という概念をみつけたことです。私はこの概念は知りませんでしたが、同じ趣旨の内容を、このブログで書いていたからです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/2e/33ca3ab0b606fabd9cbe391fbbb7184a.jpg)
(↑ 江利川春雄「英文解釈法の歴史的意義と現代的課題」より)
要するに、このペーパーの写真の項目では、歴史的英文解釈法(戦前の岡倉由三郎)を評価しつつ、かつそれを江利川なりに発展させたものです。つまり、英語のレベルが「日常伝達能力」が求められるくらいのものであれば日本語は不要だろうが、大学入試レベルの複雑な英語になるならば「認知学習言語能力」が必要となり、したがって日本語力=思考力も必要になってくると述べているのです。
私は、もっと露骨な表現を用いながらもほぼ同じ趣旨の内容を、2010年の1月の記事「英語長文学習において英文和訳は必要か」 で述べています。江利川のBICSとCALPに替えて、「センター試験および日東駒専目標レベルの英語」と「MARCH以上レベルの英語」という分類を用いていますが、ほぼ同じ主張であることがわかると思います。
「和訳作成が全然要らないよと言えてしまうのは、簡単な英文を読めさえすれば良いという生徒だけだということです。英語で言えばセンター入試レベルが上限、大学で言えば日本大学、神奈川大学、大妻女子大学を目標とする生徒までです。青山学院が良いなあとか、学習院にあこがれる人、あるいは早稲田や横浜国大を目指そうとかいう生徒ならば、和訳作成はほぼ絶対に必要です!」
その根拠は、次の通りです。
「一言でいえば、GMARCHレベルになると、英語の文章に盛られている内容が相当難しくなるからです。つまり、和訳を読んでもすぐには理解できないような議論が展開されているからです。したがって、その文章を理解するためには、学習者の日本語の力を活用することがどうしても必要となってくるからです。たとえば、次の文章を読んでみましょう」
「アメリカ人が『自由』という言葉で意味しているのは、すべての個人が、政府や貴族の支配階級や教会や組織化された他のいかなる権威による外的干渉を受けずに、自分自身の運命を支配したいという要求と能力である」(青山学院大学経営学部2007年度の英語問題の訳文より) [←江利川の言うところのCALPあるいは認知学習言語能力が問われている英文の典型例だと言えるでしょう。]
「GMARCHを目指す高校生でこの日本語が簡単だといえる人は少ないでしょう。ましてや英語で書かれてあるとすれば、ますます苦労するはずです。しかし、このレベルの文章は、英語だろうと日本語だろうと、しっかりと理解できるにしなくてはならないわけですね。それが大学受験の英語なのです。したがって、日本語力も英語力もフルに活用して、こういう文章が前提としている世界を獲得するように努めなくてはなりません。つまり、口頭で和訳をするのではなく、しっかりと和文を書きながら、じっくり考えていくべきなのです。
難解な和訳を作成すると言うことは、日本語力と英語力の世界を豊かにするために、どうしてもくぐり抜けなくてはならない重要で貴重な作業となることでしょう。」
要するに、日東駒専神やセンター試験ならば和訳は不要かもしれないが、MARCH以上ならば和訳と日本語力が必要だという趣旨でした。受験大学のレベルによって和訳が必要になったり不要になったりすると言った論旨は、いかにも塾屋ですというような、ちょっとイヤラシイ文章ではあります。しかし、今回の江利川ペーパーを読んでみて、同じ考えの諸先生も多いのだと言うことで、勇気づけられた次第です。
さっそく大津先生のブログからシンポのためのパンフレットをダウンロードして読んでみました。興味深い議論だとか参考書が出ているのですが、私が一番嬉しかったのは江利川先生の文章の中に、「日常伝達能力」(BICS: BAsic Interpersonal Communicative Skills)と「認知学習言語能力」(CALP: Cognitivie/Academic Language Proficiency)という概念をみつけたことです。私はこの概念は知りませんでしたが、同じ趣旨の内容を、このブログで書いていたからです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/2e/33ca3ab0b606fabd9cbe391fbbb7184a.jpg)
(↑ 江利川春雄「英文解釈法の歴史的意義と現代的課題」より)
要するに、このペーパーの写真の項目では、歴史的英文解釈法(戦前の岡倉由三郎)を評価しつつ、かつそれを江利川なりに発展させたものです。つまり、英語のレベルが「日常伝達能力」が求められるくらいのものであれば日本語は不要だろうが、大学入試レベルの複雑な英語になるならば「認知学習言語能力」が必要となり、したがって日本語力=思考力も必要になってくると述べているのです。
私は、もっと露骨な表現を用いながらもほぼ同じ趣旨の内容を、2010年の1月の記事「英語長文学習において英文和訳は必要か」 で述べています。江利川のBICSとCALPに替えて、「センター試験および日東駒専目標レベルの英語」と「MARCH以上レベルの英語」という分類を用いていますが、ほぼ同じ主張であることがわかると思います。
「和訳作成が全然要らないよと言えてしまうのは、簡単な英文を読めさえすれば良いという生徒だけだということです。英語で言えばセンター入試レベルが上限、大学で言えば日本大学、神奈川大学、大妻女子大学を目標とする生徒までです。青山学院が良いなあとか、学習院にあこがれる人、あるいは早稲田や横浜国大を目指そうとかいう生徒ならば、和訳作成はほぼ絶対に必要です!」
その根拠は、次の通りです。
「一言でいえば、GMARCHレベルになると、英語の文章に盛られている内容が相当難しくなるからです。つまり、和訳を読んでもすぐには理解できないような議論が展開されているからです。したがって、その文章を理解するためには、学習者の日本語の力を活用することがどうしても必要となってくるからです。たとえば、次の文章を読んでみましょう」
「アメリカ人が『自由』という言葉で意味しているのは、すべての個人が、政府や貴族の支配階級や教会や組織化された他のいかなる権威による外的干渉を受けずに、自分自身の運命を支配したいという要求と能力である」(青山学院大学経営学部2007年度の英語問題の訳文より) [←江利川の言うところのCALPあるいは認知学習言語能力が問われている英文の典型例だと言えるでしょう。]
「GMARCHを目指す高校生でこの日本語が簡単だといえる人は少ないでしょう。ましてや英語で書かれてあるとすれば、ますます苦労するはずです。しかし、このレベルの文章は、英語だろうと日本語だろうと、しっかりと理解できるにしなくてはならないわけですね。それが大学受験の英語なのです。したがって、日本語力も英語力もフルに活用して、こういう文章が前提としている世界を獲得するように努めなくてはなりません。つまり、口頭で和訳をするのではなく、しっかりと和文を書きながら、じっくり考えていくべきなのです。
難解な和訳を作成すると言うことは、日本語力と英語力の世界を豊かにするために、どうしてもくぐり抜けなくてはならない重要で貴重な作業となることでしょう。」
要するに、日東駒専神やセンター試験ならば和訳は不要かもしれないが、MARCH以上ならば和訳と日本語力が必要だという趣旨でした。受験大学のレベルによって和訳が必要になったり不要になったりすると言った論旨は、いかにも塾屋ですというような、ちょっとイヤラシイ文章ではあります。しかし、今回の江利川ペーパーを読んでみて、同じ考えの諸先生も多いのだと言うことで、勇気づけられた次第です。