林間教育通信(「東大式個別ゼミ」改め「シリウス英語個別塾」)

私立中高一貫校生徒を対象とする英語個別指導塾。小田急線の東林間駅(相模大野と中央林間の隣駅)から徒歩3分。

慶應シンポーー大学人と予備校講師

2010年07月04日 | 受験
7月11日(日)に行われる慶應大学言語教育シンポジウム「英文解釈法再考---日本人にふさわしい英語学習法を考える」は、塾屋からみても非常に興味深い。

端的に述べよう。大学に所属するアカデミズムの学者たちが、アカデミズムの外部に位置する受験参考書や予備校講師らを正面から論じようとしているからである。とりわけ、江利川氏(和歌山大学)と大津氏(慶應大学)においては、その姿勢が強い。江利川氏の場合は日本の受験参考書の歴史を主題化している。このことは氏のブログからもすぐに分かることだ。また、大津氏においてはかつてのカリスマ英語講師であった故伊藤和夫を評価している。伊藤は受験英語界ではカリスマ講師だったかもしれないが、アカデミックなキャリアからいえば単なる学部卒だ。たんなる駿台予備校講師でしかないすぎないのだ。その伊藤の『英文解釈教室』をとりあげて高く評価しているのである。(同時に東大名誉教授の朱牟田夏雄の『英文をいかに読むか』をもとりあげている)。

普通のキャリアを経て大学教授になった学者たちが受験参考書や予備校講師を評価するというのは、ちょっと異例のことではないのだろうか。非常に良い傾向だとおもう。だが、だからこそ、あえて問いたいのである。英語教育または言語教育ということを考えるにあたって、いわゆる大学関係者と予備校講師とはどのような関係にあるのかとか、大学教授が伊藤を評価するというのはどういう意味があるのかとか、ちょっとコメントしてくれても良いではないか。

アカデミズムと予備校は互いに無視しあってきた歴史があるだろう。しかし、とくに教員養成系教育学部と民間教育機関は、ほとんど同じ領域を扱ってきたではないか。互いに切磋琢磨することは不可能なのだろうか? 架け橋を担ってもらうことを期待できないのかとか、そういったことも願ってしまうのだ。


だが実のところ、私はもっと突っ込んだ指摘をしたいのである。

慶應大学の大津氏が駿台予備校の伊藤和夫をもちあげたのはまことに結構なことだ。しかし、伊藤和夫を評価すると言うことは、駿台に通うような、高校のごく上位の生徒の英語学習に焦点をあててしまったということではないか。同じ事は江利川氏にも言える。「認知学習言語能力」(CALP: Cognitive/Academic Language Proficiency)レベルには英文解釈法が有効であるといった趣旨の文章だが、言い換えれば、全高校生の10%未満あるいは国公立大学ないしはMARCH志望レベル以上の上位学力の高校生だけを念頭に議論してしまったということではないか。(東大出身で東大教授になった斎藤氏になると、さらにエリート主義的に限定的になる)。

学者・大学人であれば、国民一般大衆の英語教育にも目を向けるべきではないのか。国民の70-80%以上を占める、be動詞と一般動詞の区別も付かない普通の人たちの英語教育も、大事なのではないのか。そして、そういった一般の人々を教えようとする学校教師・塾講師の仕事にも視野を広げて論じるべきではないのか。

たしかに大津氏らは、稀代の天才中学英語教師である田尻悟郎には何冊かの本まで執筆している。だが、田尻のような天才でもないし、英語力もないかもしれないような(失礼!)、民間英語講師たちも、さまざまな工夫をしているのだ。たとえば私が注目しているのが、民間英語文法の開発を試みている『基本にカエル英語の本』 の石崎秀穂氏、英語と日本語の「英和中間語」なる概念を提唱しているselfyoji氏である。いずれも理解力の低い中高生などを念頭におきながら、ある意味では無茶苦茶な日本語的英語的なあるいは英語的日本語的文法論を展開しているのである。

学者が公的責任を果たそうとするならば、この二人の努力も無視してはならないと思う。ということで、今日はこれまでとさせておきます。次回はできたらですが、お二人の文法論をちょっと紹介しようと思っています。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。