中條高徳の本を読んで、彼の著書で紹介されていた7ー8冊の本を無性に読みたくなった。
書かれていた本を全部抜粋して表にまとめる。
中古本を頼んで実家に配送してもらえれば、帰国したときに持って帰れるのでいろいろリサーチしていた。円高なので新書は買わない
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なければ新書はオーダーするけれど、まずは中古本からチェック!
陸軍士官学校(陸士)出身の中條さんが戦後、松本高校を卒業されて、その後同級生の多くは東大京大と帝大を目指し高級官僚への道に進む事が真っ当とされていた時代、戦後一般人にも開放されれる私大の学習院への進学を迷う事なく決めた。戦後初めて校長となる安倍能成(あべよししげ)を心から尊敬していたことや安倍さんからの直接のリクルートなどもあり、周囲の反対にも関わらず進学を決めたそうだ。
ただし教養レベルが遥かに高かったので2年で卒業した。
彼が惚れ込む安倍能成とはいかなる人か。
す、すると、驚くべき事実が発覚した。
彼が哲学者で教育者で政治家だったこと?
あってるけど
墓地が仲良しの野上豊一朗と岩波茂雄の真ん中にあること?
あってるけど
ななななんんと、彼は松山の小唐人町、つまり大街道の生まれだったのだ。
おまけに東高卒だと?!?!?!
銅像まで東高にあるんかいな!
姉よ,兄よ、知っとったか? (もちろん知っていた。東高生なら誰でも知っておった)
銅像の後ろには自転車がたくさん写っていたのがご愛嬌。折田先生化していなかったのが、まだまだ高校の良い所である。
思いっきり地元の人じゃんよ。
そんな偉い人がいたんですか~!!!! ひえ~っっっ
すごい人を探していたら実は近所に住んでいたおっさんだった、という感覚だろうか。
銅像だけだと、偉い人だというのは想像できても、どういう人生を送って銅像を建てられる経路に至ったか、というのはわかりにくい。
私だってこの1冊の本を読まなければ絶対知り得なかったことがたくさんあった。
ちなみに私の卒業した高校でも、かつて校長だった秋山好古の写真をいつも見ることがあったが、当時はこの人が一体何をした人だったのか全然わかってなかったもんね。今だってまだ把握しきれてない。本当にごめんなさいです。
私の中だけで勝手に盛り上がってるシリーズ(中條高徳ー安倍能成ー瀬島龍三ー富士信夫ー安岡正篤ー森信三ー南州翁遺訓)を攻めた後、勉強します。でも流れで多分秋山兄弟は入って来そうな気配はある。
ふと思ったのが、安倍能成の年齢と父方の祖父が1つ違いということだ。
安倍さんは1883年生まれ。祖父は1882年生まれだったと思う(多分そうだよね)。
安倍能成が生きた同じ時代、祖父は五十崎から三津(松山)まで、わらじを何足も履き潰し、3日かけて歩いていき、阪大の1期生として大阪に旅立った。当時外国のような東京へどういう事情で行けなくて阪大に決めた理由を聞いたような気もするけれど覚えていない。しかしもし東大へ通っていたなら、同県人の安倍能成と親交が出来、人生がかなり変わっていたのではないか。そうなると私も今この世に存在することはなかったのだろうが。
そんな大変な思いをして学問を極めようとした祖父を思うと、飛行機で東京までぶーんと行って、学業そっちのけでスキーばっかりしていた大学時代の自分を本当に恥ずかしく申し訳なく思った。もちろんスキーは真剣にしていたんだけど、知的レベルが雲泥の差、違いすぎる。
祖父のわらじ話を知ったのは父の葬儀のときか、その前だったか、今となってはうろ覚えだが、そういう祖父の血が一滴でも混じっていることがとても誇らしかった。
やばいほど薄いけど・・・・。
多分もっと関連記事はあると思うけれど、参考までに。
http://hanausagi.iza.ne.jp/blog/entry/917934
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/abenoyosei.htm
まさに今の私の気持ちを表す名文とも出会った。
「本には一冊、一冊の運命があるんだよ。私にはそれぞれの本がいちばん幸せな運命をたどって欲しいと思っている。」
佐藤優「自壊する帝国」の中で佐藤優にチェコのことを教えたマストニーク氏が言ったセリフ。
タイミングといい、内容といい、中條さんから始まった日本人としての精神、というと大袈裟かもしれないけれど、コアの思想がどんどん体にしみ込んで行く感覚だ。