ぞな通信

四国・松山生まれ、在米25年、Zonaの日常生活。

いいつっこみ

2010-04-29 13:13:10 | Weblog
家のお風呂の改装のことを嬉しげに書いたら、姉からつっこまれた。
網戸は直したのか、と。
そう、キッチンから外に出る網戸がびりびりに破れているのだ。
雨風にさらされ、網自体がぼろぼろ。
一つ破け始めたら障子が破れるように、びりびり穴が大きくなり、今なら犬猫イノシシ何でも通れる。
頑丈なドアなので、ドアさえ閉めておけば大丈夫だが、涼しい風を家に入れることは出来ない。
all or nothingである。

風呂に浮かれるのも良いが、この貧乏臭い穴もどうにかせにゃなあ・・・

昔の渡米

2010-04-27 22:15:32 | Weblog
「龍馬伝」でジョン万次郎が登場した。
彼は土佐清水市出身の漁師で、天保12年(1841年)15歳の時に漁師の手伝いで漁に出て漁師仲間と共に嵐に遭難し、5日半の漂流後、奇跡的に太平洋に浮かぶ無人島の鳥島に漂着して143日間生活した。そこでアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助される。日本はその頃鎖国していたため、漂流者のうち年配の者達は寄港先のハワイで降ろされるが、船長のホイットフィールドに気に入られた万次郎は本人の希望からそのまま一緒に航海に出る。生まれて初めて世界地図を目にし、世界における日本の小ささに驚いた。この時、船名にちなみジョン・マン(John Mung)の愛称をアメリカ人からつけられた。
同年、アメリカ本土に渡った万次郎は、ホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、1843年にはオックスフォード学校や1844年にはバーレット・アカデミーで英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学ぶ。彼は寝る間を惜しんで熱心に勉強し、首席となった。民主主義や男女平等など、彼にとって新鮮な概念にも触れた(wikiより抜粋)。

ジョン万次郎より27歳下の高橋是清は藩命で留学することになったが、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、ユージン・ヴァン・リード(Eugene M. Van Reed)によって学費や渡航費を着服され、更にホームステイ先である彼の両親に騙され年季奉公の契約書にサインし、オークランドのブラウン家に売られた。牧童やぶどう園で奴隷同然の生活を強いられ、いくつかの家を転々とわたり、時には抵抗してストライキを試みるなど苦労を重ねた(Wikiより抜粋)。

すごく不思議なのは、漂流とはいえ日本人なんて見たこともなかっただろう米人がジョン万次郎を奴隷として使わず、養子にまでして学問を修めさせたのはどうしてなんだろう。それくらいジョン万次郎が愛されるキャラクターを持っていたのだろうか。それとも船長が徳の高い人で素直に育つジョン万次郎のキャラクターに惚れ込んだのだろうか。
一方で高橋是清はジョン万次郎のふた周り以上下だけど、人にはだまされるし、金にもルーズそうだし、アメリカでは奴隷生活を強いられるしで、学問をする時間は到底なかったのではないだろうか。
働きながら勉強って歴史書には書いていても、本当にそれが可能だったのだろうか。本とか買うお金あったのかな。耳学問だったのかな。
留学生たちのネットワークは苦労人同士、築き上げられたのではないかと思う。彼らから教わった事も多かったのではなかろうか。
社会の厳しいシステムも、そんなつらい思いをしたのなら、嫌でも身についたろうし。

二人とも帰国後、国の要職につく訳だが、ジョン万次郎は陰の立役者的な生き方をして、教育者として1898年72歳で天寿を全うした。
高橋是清は政治家になり総理大臣にまで上りつめ、1936年82歳の時、自宅で暗殺された。結構野心家だったのか?

どちらも国に貢献しているが、対照的な生き方だ。

不思議で不思議でしょうがないのは、(くどいが)なんでジョン萬次郎は奴隷になることを避けられたのかなあ・・・
今でも人種差別はあるのに、当時なかったわけがないのに。
船長が守ってあげたのかなあ。
そしたら男気のある人だなあ。

今日から改装

2010-04-26 06:43:53 | Weblog
今日からいよいよ自宅のバスルームの改装が始まる。
お風呂が大好きで、アメリカ式の浅いバスタブに娘が生まれてからずっと昨日まで一緒に入り続けて来たが、それも昨日で終わり。
日本式のお風呂、つまり深めのタブと洗い場があるお風呂が欲しくて欲しくてたまらなかった。
義理の両親宅と義妹宅も大改装をして、それはそれはうらやましいお風呂をゲットしているのを見て、「うちもやる!」と決めた。
ゆっくり娘とお風呂に入りたいときは、韓国式サウナに出かけていた。だから楽しみだなあ・・・

この浅いバスタブにはシャワーがついてないから、本当に入るだけだ。
アメリカに住んでいると汚れを洗い流すだけ、という習慣なのでシャワーだけになることが多くなる。
疲れがとれる、ということはない。
アメ人ってなんでこれで耐えられるんだろうか。わからない。

我が家のバスタブには毎日毎日入って来た。
娘には下痢便もされた。
おしっこなんてついこないだまでバスタブでされていたことも白状された。(だから肌がきれいになったの?!)

たいしたことない思い出のあるバスタブだが、こいつとも今日でお別れ。

お勤めご苦労様でした。

棺桶に入れて欲しいもの

2010-04-25 01:48:37 | Weblog
私が死んだら棺桶に絶対入れて欲しいもの。
だたし今後も増える予定。
現在の所、絶対入れて欲しいのは、

亀田の柿の種

と、

某先輩の漬けた沢庵

と、

娘が初めて縫ったうさちゃん

の3つ。

でも今後もどんどん無限に増える予定。

亀田の柿の種は永遠に続くベストセラーだから次の50年はなくならない前提で書いているが、某先輩の漬ける沢庵は危ない。なぜならその先輩は私より最低でも10歳は上だから、順番から言うとどう考えても彼の方が先にあの世に逝く訳で、そうなると彼が漬けた沢庵を入れることは出来ない。彼といっても、好きな彼という人ではなく、単純に沢庵が本当に上手いんだ。あんな上手い沢庵食べたことない。
だから代替を考えなければならん。
考えてみたら、うさちゃん以外は食べるもんばっかりじゃん・・・・・

しかし、もし希望が多すぎて棺桶に入りきらなかったらどうするんだろう。
特大サイズを頼んでおくのだろうか。
それとも、残った人が「ばーちゃん、えー加減にせえよ!!!」と言いながら、仕分けするのだろうか。
そういう光景を見てみたい。100個ぐらいリスト書いたろかな・・・。

そして神輿までは出さなくてもいいけれど、たくさんお友達が来て、にぎやかにやってほしい。
宴会に近い形でもいい。餅まきとかもいいなあ~。
とにかく陰気くさいのは嫌です。
150歳くらいまで生きてしまったら、友達もいなくなっちゃうなあ・・・(なわけない)
そのときのために若い友達も作っておかなくっちゃ。
90歳ころ逝っちゃうとしても、若い友達って70とか80か・・・若い友達の方が先に逝っちゃったりして。
ぼけちゃって、わけわからん婆さんになってるかもしれないし。そのときはどうでもええわ。

家族もなくてお金もなくて普通に死んでしまうと、葬式代も出せなかったり、お墓も建てられなかったりする。
でも、松山で戦士したロシア人兵士たちは、ちゃんと立派なお墓を建ててもらって、頻繁に近所の中学生が清掃活動をしている。きっと松山で一番きれいに整備された墓地じゃないんか? 清掃活動は、ずっとずっと続けられるだろうから、異国で亡くなったのはかわいそうではあるけれど、永遠に祀られることを思えば彼らは幸せではなかろうか。

試合前になくなった巨人の木村コーチしかり。
37歳で亡くなったのは不幸だけれど、あれだけの人から愛されて追悼試合や(おそらく)巨人主催の社葬をしてもらえたのは、野球人としては本当に幸せなことではないんだろうか。引退して年老いて普通の人になっても、忘れられるだけで人の心には残らなかったかもしれない。

そんな話を知人としていたら、彼は「言われるまでそんなこと考えたことなかったなあ・・・」と言った。
そして、「強いて言えば・・・・・妻かな。一人で棺桶に入るのは寂しいから、一緒に入りたい」
と言った。

ぶは~!!!!

多分迷惑だと思います!!!!

少なくとも私は嫌です。なんで一緒に入らないかんねん・・・・

人にもよるだろうけど、笑っちゃう程、男ってロマンチスト。

そういえば、私と同じ年のバツイチの男性も似たような事を言っていた。
UCLAかどっかの有名な大学のコーチの奥さんが亡くなった。数年たってもその傷が癒えない彼は、毎日毎日亡き妻へラブレターを書いているという。ニュースは「永遠の愛を誓う夫の美しき姿」を映し出していたんだろう。
このニュースを聞いて友人は、
「素晴らしいと思いませんか?! 僕はこのニュースを聞いて涙が出ました!!!」
と言ったのである。

(そんなん毎日書かれても困るわ・・・鬱陶しい・・・)

というのが本音。さらに言えば、そんな暇があったら落ち込まんように働け、と言いたい。
女性の場合、亡き夫にお経はあげても、毎日ラブレターを書く人は、おそらくいないのではなかろうか。さんざん「子守り」をしてきて、亡くなってまで「子守り」は出来ない。
だから女はすぱっと割り切って、長生きするのかもしれない。
女が長生きしたら、おっさんみたいになるもんな~。
おばあちゃんみたいなおじいちゃんもいるし、おじいちゃんみたいなおばあちゃんもいる。
私はおじいちゃんになるかもしれない。

お別れを言うタイミング

2010-04-23 07:17:08 | Weblog
知人が末期がんに冒されている。
乳がんから始まって、ゆっくりゆっくり体が浸食されている。
そしてもう脳に転移していよいよ来たか、という段階になって来た。
ご主人が必死で支えているが、子供もまだまだ小さい。
子供のために必死で夫婦が生きている。いなかったらとうの昔に諦めていたのが傍目に見ていてもわかる。
発見から今に至るまで8年たった。

父の癌がわかって他界するまでが3ヶ月。
その3ヶ月がどれだけ大変だったか。
日本との往復。
ずっとずっと生きていて欲しいと願う一方で、看護が大変で、このまま長生きすると母と姉がぶっ倒れて家族が崩壊してしまうのではないかという恐怖感と矛盾。そんな気持ちと戦いながらの3ヶ月だった。
でも彼は8年もこの状態を続けているのだ。

父のときは面と向かって最期の挨拶を出来なかった。
本当は、「お父さん、今まで本当にありがとうございました。お父さんの娘に生まれて来て良かったです。お金もかかったのにちゃんと育ててくれてありがとうございました。」ってちゃんと伝えたかったけれど、それを言うということは、父に死期を悟らせてしまうということなので、どうしても言えなかった。そしてもしかしたらこれが最期になるかもしれないのに、病院のドアで元気よく「バイバイ! また来るね!!!」と言ったのが最期になってしまった。
本音を言えないまま父はあの世に行ってしまった。
そしてやっぱり後悔した。

知人には、ちゃんと挨拶しておきたい。
でも、もしかしたら本人もわかっているかもしれない死期を改めて悟らせてしまうことになってしまってもいいのか、とも思う。
でも今度はちゃんと挨拶しておきたい。
そのタイミングはいつにすればいいのか。
そこだけがはかれないでいる。

緑茶と紅茶

2010-04-22 06:29:09 | Weblog
実家がお茶屋さんの方と話していて初めて知ったことがあった。
紅茶と緑茶は同じお茶の葉から出来ていて、加工プロセスが違うだけなんだそうだ。
つまり緑茶は摘んだ葉が新鮮な段階で、紅茶は時間も経って腐らせた段階。腐らせた方というのは言葉が悪いが、古い方といえばいいのか。
私はてっきり緑茶は緑茶という茶の種類があって、紅茶も紅茶という種類があるのだとばかり思っていたので、目から鱗だった(遅い?)。

イギリスはお茶の葉がなかったので、インドからお茶を輸入する際、船に乗せて運んだ。その際、今のような冷蔵冷凍設備なんてなかったので、葉はどんどん悪くなって行ったと思う。インドだってそう清潔な国じゃないから、1600年当時、腐らせたまんまの葉にお湯を足した汁を飲んで、それをイギリス人が「うまい!」と思ったんだろうか。
どっちにしてもそれを「うまい!」と感じて、東インド会社まで作って、がんがん母国に紅茶を輸出して、大もうけしたイギリスはすごい。したたかというか、ずるいというか。材料は腐った葉っぱ。インド人にはなんでそんなもんに価値があるのか当時はわからなかったのではなかろうか。「イギリス人って腐った葉っぱが好きな変な人種やな」ぐらいに思ってたんじゃなかろうか。
その腐った葉っぱ汁をteaと呼び、優雅なイングリッシュティーにまで地位を上げたのもすごい。
teaを入れるカップ&ソーサーにもいろんな種類があるし、さながら日本のお茶の文化と似ている。
紅茶に価値観を見いださなかったインドは哀れである。

新鮮な葉を飲むところは日本人らしい。きっと加工も「新鮮なうちに、腐らせないうちに手入れしとかなきゃ」とテキパキ働いたんだろうなあ。
腐らせれば紅茶になるのに、何故か静岡は緑茶の産地ではあるけれど紅茶の産地にはなってない。リサイクルで紅茶を作ることはしないのかな。産業に発達させるための量が足りないのかな。なぜなぜ?
まだまだ知らないことが多いのぅ・・・

読めない火山

2010-04-21 07:37:53 | Weblog
例のアイスランドの火山名は誰にも読めない。ニュースを毎日読む人でさえ読めない。

http://www.youtube.com/watch?v=2Q3YVkm8YJM&feature=related

もう画面が消されてたら、関連映像見てね。

アイスランドの噴火

2010-04-16 21:53:44 | Weblog
アイスランドのEyjafjallajoekull (読めない)が噴火してえらいことになっている。
といっても直接な被害はないんだが、まずアイスランドに火山があるということを今回初めて知った。アイスランドは火山がたくさんある国だということも今日初めて知った。
そして改めて風は西から東へとちゃんと吹いているんだ、ということも確認できた。これは飛行機でわかってたことだけど、粉塵がここまではっきり運ばれていると、嘘じゃなかったんだ・・・・と再認識(当たり前か)。

今日、出張でブラジルから帰って来たばかりの方と話したら、あの火山灰はブラジルでも影響がでているらしい。直接降灰しているのではなく、飛行機が飛ばないために、シカゴ乗り継ぎの飛行機がなくてブラジルを出ることができない、という機体の乗り継ぎの不具合がたくさんでているというのだ。彼は幸運にもワシントンDC経由で今日帰ってくることができたが、他の同僚はシカゴ経由の飛行機だったため、今もブラジルで足止めをくらっている。
とんだところで影響が出ているんだなあ。

この火山灰の影響が何ヶ月続くのかは不明だが、長期化するようなことも聞いた。
出張の多い方には難儀なことだ。

自立

2010-04-03 21:58:37 | Weblog
77歳程の、品のある白人女性と話していた。何の苦労もない、裕福そうで、ちょっとスノッブで、教養もあり品のあるお方だと思っていた。彼女と接するときはちょっと緊張する。自分の教養を試されているようで、背筋を伸ばして接しなければならない威厳を彼女から発しているのだ。

話すうちに彼女の息子が障害者になっていたことがわかった。
息子さんは私ぐらいと年だった。
20年前、彼が大学院を卒業する頃、柄の悪いUSC近辺でdrive by shooting で撃たれてしまったのだ。
前途洋々とした若者を襲った予想外の悲劇。
彼女の息子だから、背も高く素敵な男性だったに違いない。
彼は下半身不随になり一生車いすを使わなければならない人生を送ることになった。

母親である彼女が言うには、
「息子もまだ若かったし、いずれは一人で行きて行かなければならないのよ。早く自立できるように介護士をつけて頑張っているわ。」
彼は何度も介護士を変えながらも、相性のいい介護士さんのヘルプもあって、今も一人暮らしをして生活をしている。

「死ぬということは悲しいことだけど、苦しみは一瞬で終わるわよね。障害を持ちながら生きるということは、本人も苦しいし、家族も苦しい。一生苦しみを持ちながら生きるのよ。」

と、彼女は言った。

ほんとうだよね・・・・

でも、これが日本で起こったらどうだろう。
親が出来る限りケアをする、守ってやるというのが相場ではなかろうか。
兄弟にお嫁さんがいたりしたら、その人にお鉢が回ってくるのではなかろうか。

アメリカは突き放す優しさ。
日本は保護する優しさ。

どちらも優しさではあるけれど、アプローチが全く違う。
全く別の角度から見た幸せのアプローチ。

でもその優しさと幸せの方法に違和感を感じなくなっている自分もいる。
私自身も少しずつアメリカナイズされてきているのかもしれない。



good Friday

2010-04-03 21:06:26 | Weblog
日曜日はイースターなので金曜日はgood fridayと呼ばれ、お休みのところもあるが、民間は関係なく仕事をする日だ。
いつまでたってもキリスト教のシステムがわからない日本人のわたくし。
午後、ちょっと時間があったので、猛ダッシュでパスポートのピックアップにダウンタウンまで車を飛ばして行って来た。
申請1週間後にピックアップが出来るが、予定が次々に入り、あっと言う間に3週間たった。時間が限られているので、行けるときに思い切っていかないと自分の首を締めることになる。

数週間前、更新の申し込みで来たときは11時半にパーキングについて、パーキング代$12払い、写真を近所の旅行会社で撮り($15)、トータル30分で申請をを済ませるという早業を見せたので、同じことを目論んでいた。
今日何故かパーキングは$6。同じ所なのに前回、パーキングのおっさん半分くすねたか?!
ま、いいや。急げ急げ。
領事館までの坂道をぜーぜーいいながら駆け上がった。

ロビーで受付を済ませようと、黒人の受付のおっちゃんに、

「領事館行きたいんですけど」

と言うと、

「今日は休みだよ」

と言われた。


や、やすみ?!?!?!?!

「月曜日になったら開いてるよ」
と、言われたけど、また来週来るんかい
いろいろ事情もあろうが、領事館休み多いぞ~!
一般市民は這いずり回って働いておるのだ。

長居する理由もないので、さっさとパーキングに戻った。5分以内で戻ったわたくしを怪訝な顔でみるおっさん。
しかし$6のリファンドはない。
また車を飛ばして返った。
オフィスに戻ると、スタッフが、
「早かったですね~」と驚かれたが、「閉まってました」と伝えるともっと驚かれた。
本当に疲れた。気が疲れた。
その後も仕事を続けたが、仕事してる方がずっと楽だった。

そして、今日も気が疲れることが続いた。
オフィスでの事務処理や年上の親友夫婦の不和など、想定外の「ええええ?!?!?!」なことが最後まで続いた。
世間を騒がせない程度の周辺の小さな事件。でも個人的には大きな出来事。
自分のことのように心がざわめいた。
平凡でも平和な日々がとてもとてもありがたいとつくづく思った。