忍者といえば、黒ずくめ。闇にまぎれたかと思えば、高くそびえる石垣をスイスイと登っていく。
そんな人間離れしたイメージができたのは、実は江戸時代後半で、
トレードマークの手裏剣も、武士の一般的な護身具だったとか。
それじゃあ、忍者、忍びってどんな人たちだったの?
忍者の人気は江戸時代から現代に至るまで衰えず。
でも、その研究は、近年になって組織化されるなど、これからの分野。
三重大学に国際忍者研究センターが創設されたり、
忍者を主役とした企画展示が行われたり。
↑令和3年開催の企画展です。
今回のブログは、こちらの企画展のカタログも参考にさせていただいております🙇
こういう流れの中で、その実像が、徐々に明らかになってきています。
そして、浮かび上がってきた、戦国の忍びの姿は、
私たちのイメージとは、少し違った姿。違った人たち・・・。
遺された資料は少ないながらも、
ヒントをくれるのは、戦国大名たちの遺した書状であったり、軍記物であったり。
甲州流軍学の書『甲陽軍艦』にも、忍びの働きなどが記されています。
歴史小説やドラマで耳馴染みかもしれませんが、
資料の中でも、忍びの呼び名は結構いろいろ。
「透波(スッパ)」、「乱波(ラッパ)」、「屈(カマリ)」、「草(クサ)」などなど。
こんなふうにいろいろあるのは、それが戦術そのものも意味していたから。
内容に地域差もあったかもしれませんが、ある程度のイメージは共有していたかと。
例えば、「スッパ」は、情報収集に俊敏な者で、道案内も担当。
「カマリ」は、松明など無くとも夜道を案内できるほどに、詳細な情報収集を行う者。
「クサ」や「ラッパ」は、草むらに臥して(?)情報収集するが、伏兵もこなす。
敵に敗走していると見せかけて、引き寄せながら、身を隠し、・・背後から襲撃!
そして「シノビ」は主に、敵地潜入や夜討ち担当、というように。
資料とされる軍記物などは、時に誇張があって(だから読み物としておもしろい)、
どこまで、本当の姿が反映されているか、注意が必要のようですが、
いずれにしても、こうした任務からわかることは、
忍者=少数精鋭、必要あらば単独で任務遂行(!)というよりも、
小規模ながらも、組織化された武装集団だったのでは(?)ということ。
ひとつの集団である以上、彼らには、彼らを束ねる人がいて。
例えば、武田氏であれば、「寄親寄子制」のように組織されていたとか。
信玄公は、とてもうまくスッパ、シノビを活用した武将の一人。
信濃攻略には、信濃のスッパ70人から30人を選抜し、妻子を人質にとり、
武田家家臣、甘利虎泰、板垣守信、飯富虎昌に10人ずつ預け、
甘利氏配下のスッパは村上義清の領地に、
板垣氏のスッパは諏訪頼重、飯富氏のスッパは小笠原長時の領地に潜入させています。
収集された情報は、甲斐信濃の国境に常駐していた早馬で、信玄公に届けられました。
忍びと言えば、敵陣に単独で潜み、主の元に密かに参上して極秘情報を知らせる・・・
ちょっとスパイに近いような、間諜の姿が思い浮かんでしまいますが、
例えば、敵地偵察ひとつとっても、役割は身分に応じて分担されていたようで、
忍びは敵の洗い出し、安全確認を行い、
その上で有力武士が物見、敵情視察を行い、
飛脚や使僧が情報を伝達するという流れ。
そういう立ち位置を基本に、忍びが担った仕事は、
敵地に潜入して、敵陣の配置や大将の士気や軍勢掌握の程度を探ったり、
乱取り、放火、暗殺、小荷駄馬略奪、そして夜討ちを行ったり、
戦場では、本隊前後左右の安全確認、夜間の陣営警備、敵陣への夜討ち、
悪党摘発や、家臣の動きを監視するといった治安維持など。
彼らは、町人や百姓出身の足軽であったり、元「悪党」、アウトローであったりと様々。
どうあれ、身体含め能力の高い人たちが選ばれ、
上杉謙信も、その書状の中で、忍びを「夜技鍛錬之者」と呼んでいるように、
それなりの特殊訓練が行われていたようです。
真田幸村と真田十勇士のイメージが強すぎるのでしょうか。
ドラマなどでも、主と忍びは信頼で結ばれていて、、なんて考えてしまいますが、
実際、忍びは妻子を人質に取られたり、「スッパは信用できない」などと言われたり。
戦国当時の「スッパ観」はどんなものだったの?
ということで、今回はこの辺で。次回もぜひ、お付き合いをお願いします🙇