忍びのお仕事🌙戦国時代の場合

2022-07-14 22:45:51 | 紹介
忍者といえば、黒ずくめ。闇にまぎれたかと思えば、高くそびえる石垣をスイスイと登っていく。
そんな人間離れしたイメージができたのは、実は江戸時代後半で、
トレードマークの手裏剣も、武士の一般的な護身具だったとか。

それじゃあ、忍者、忍びってどんな人たちだったの?

忍者の人気は江戸時代から現代に至るまで衰えず。
でも、その研究は、近年になって組織化されるなど、これからの分野。
三重大学に国際忍者研究センターが創設されたり、
忍者を主役とした企画展示が行われたり。
↑令和3年開催の企画展です。
今回のブログは、こちらの企画展のカタログも参考にさせていただいております🙇

こういう流れの中で、その実像が、徐々に明らかになってきています。
そして、浮かび上がってきた、戦国の忍びの姿は、
私たちのイメージとは、少し違った姿。違った人たち・・・。

遺された資料は少ないながらも、
ヒントをくれるのは、戦国大名たちの遺した書状であったり、軍記物であったり。
甲州流軍学の書『甲陽軍艦』にも、忍びの働きなどが記されています。

歴史小説やドラマで耳馴染みかもしれませんが、
資料の中でも、忍びの呼び名は結構いろいろ。
「透波(スッパ)」、「乱波(ラッパ)」、「屈(カマリ)」、「草(クサ)」などなど。
こんなふうにいろいろあるのは、それが戦術そのものも意味していたから。
内容に地域差もあったかもしれませんが、ある程度のイメージは共有していたかと。

例えば、「スッパ」は、情報収集に俊敏な者で、道案内も担当。
「カマリ」は、松明など無くとも夜道を案内できるほどに、詳細な情報収集を行う者。
「クサ」や「ラッパ」は、草むらに臥して(?)情報収集するが、伏兵もこなす。
敵に敗走していると見せかけて、引き寄せながら、身を隠し、・・背後から襲撃!
そして「シノビ」は主に、敵地潜入や夜討ち担当、というように。

資料とされる軍記物などは、時に誇張があって(だから読み物としておもしろい)、
どこまで、本当の姿が反映されているか、注意が必要のようですが、
いずれにしても、こうした任務からわかることは、
忍者=少数精鋭、必要あらば単独で任務遂行(!)というよりも、
小規模ながらも、組織化された武装集団だったのでは(?)ということ。

ひとつの集団である以上、彼らには、彼らを束ねる人がいて。

例えば、武田氏であれば、「寄親寄子制」のように組織されていたとか。
信玄公は、とてもうまくスッパ、シノビを活用した武将の一人。
信濃攻略には、信濃のスッパ70人から30人を選抜し、妻子を人質にとり、
武田家家臣、甘利虎泰、板垣守信、飯富虎昌に10人ずつ預け、
甘利氏配下のスッパは村上義清の領地に、
板垣氏のスッパは諏訪頼重、飯富氏のスッパは小笠原長時の領地に潜入させています。
収集された情報は、甲斐信濃の国境に常駐していた早馬で、信玄公に届けられました。

忍びと言えば、敵陣に単独で潜み、主の元に密かに参上して極秘情報を知らせる・・・
ちょっとスパイに近いような、間諜の姿が思い浮かんでしまいますが、
例えば、敵地偵察ひとつとっても、役割は身分に応じて分担されていたようで、
忍びは敵の洗い出し、安全確認を行い、
その上で有力武士が物見、敵情視察を行い、
飛脚や使僧が情報を伝達するという流れ。

そういう立ち位置を基本に、忍びが担った仕事は、
敵地に潜入して、敵陣の配置や大将の士気や軍勢掌握の程度を探ったり、
乱取り、放火、暗殺、小荷駄馬略奪、そして夜討ちを行ったり、
戦場では、本隊前後左右の安全確認、夜間の陣営警備、敵陣への夜討ち、
悪党摘発や、家臣の動きを監視するといった治安維持など。

彼らは、町人や百姓出身の足軽であったり、元「悪党」、アウトローであったりと様々。
どうあれ、身体含め能力の高い人たちが選ばれ、
上杉謙信も、その書状の中で、忍びを「夜技鍛錬之者」と呼んでいるように、
それなりの特殊訓練が行われていたようです。

真田幸村と真田十勇士のイメージが強すぎるのでしょうか。
ドラマなどでも、主と忍びは信頼で結ばれていて、、なんて考えてしまいますが、
実際、忍びは妻子を人質に取られたり、「スッパは信用できない」などと言われたり。

戦国当時の「スッパ観」はどんなものだったの?
ということで、今回はこの辺で。次回もぜひ、お付き合いをお願いします🙇
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企画展第2弾など夏イベント始まります。

2022-07-11 09:17:28 | イベント
7月も半ばになりまして、徐々に夏休みの足音が近づいてまいりました。
夏休みで旅行やお盆の里帰りでお出かけになる方も多いと思います。
信玄ミュージアムでは、毎年この時期に多くの方にご来館いただくこともあり、
7月20日からご家族でも楽しめる、様々な企画をご用意しています。

まずは、4月から年間3回の予定で開催しています
信玄公没後450年カウントダウン企画展の第2弾
「名将武田信玄と名臣山本菅助」 が始まります。
今回は小テーマ2部構成となっていて、
①「山本菅助 その伝説と実像」 7月20日〜10月17日
②「神格化された武田信玄」   10月19日〜11月21日
で展示をいたします。
山本菅助につきましては、先日のブログでお伝えしたとおり、
昨年のご褒美企画となっています。
特別展示室のスペースの関係で小規模な企画展ではございますが、
山本菅助の展示については、終了予定の10月17日までの間、
前期・後期で展示替えをしながら開催します。
開催期間中は、特別展示室観覧の方に、2つの配付物をご用意しています。

一つ目は、信玄公から暑い中、入館いただいた方へのご褒美として、
施設内カフェで、企画展開催期間中に使えるソフトクリーム100円割引券
を配布します。
二つ目は、希望者には山本菅助武将印をさし上げます。
武将印は、現在、御城印も配布中ですので、どちらか一つの選択制になります。
一度で両方はお配りできませんので、ご注意ください。

次に夏休みの恒例となってきました来館者参加型企画を今年も行います。
昨年は武田24将ドラフト会議でしたが、今回は、
「決戦川中島 武田・上杉勝者はどっち」
を開催します。
武田・上杉両軍が北信濃で5回にわたり対陣し、
第4回では両軍主力同士の激戦が行われた
戦国史の中でも最大級の合戦、川中島の戦いを取り上げます。
映画、ドラマでも取り上げられますが、勝者がどちらであったか、
甲乙付け難い戦ですので、令和の世になり、
多数決で勝手に勝者を決めてしまおう、と言う企画です。
判断基準となる3つのテーマ解説を基に勝敗を決めていただきますが、
もちろん、持論による判断や好き嫌いだけでも構いません。
来館者の良心にお任せとなりますが、
なるべく公平にジャッジしたいと思いますので、一人一票をお守りください。
コロナ感染の状況にもよりますが、応援メッセージボードもご用意できればと
考えております。

昨日投開票の参議院選挙のように投票で世の中は変わらないかもしれませんが、
これからの川中島の戦いの評価に影響を与えられるかもしれませんし、
そして、来年の企画展にも反映されるかもしれません。
常設展示で誰でも気軽に参加できますので、ぜひお越しいただいて
あなたの清き1票を投じてください。
こちらはホーム側ですので、アウェイ側の越後勢の皆さまのご来館も
心よりお待ち申し上げます。

なお、情報満載のため、展示資料なども含めた詳細は随時お知らせしていきます。
今週アップしていくこのブログをお見逃しないようご注目ください。





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忍び 戦の”闇”の立役者🌙

2022-07-09 18:48:52 | 紹介
忍者、忍びと聞いて、どんなキャラクターを連想しますか。
「忍者ハットリくん」?「忍たま乱太郎」?
「猿飛佐助」は架空の人物ですが、
言わずと知れた真田信繁(幸村)の親衛隊「真田十勇士」のひとり。
アニメやゲームに登場する「風魔(ふうま)一党」?

でも、この「風魔一党」の場合、完全に創作された忍びではなく、
北条氏から扶持を得ていたという「風魔一党」の頭目は、
北条氏関連の文書に出てくる「風間(かざま)出羽守」や、
江戸時代の軍記物「関八州古戦録」に登場する「風間孫右衛門」がモデルと推測されて。
また、「北条五代記」にも、「風魔」なる人物が一党を率いたと記され、
それによれば、頭目は非常な大男で異形の人だったとか。

その姿は・・・
身の丈7尺2寸(約218cm)、
筋骨荒々しくむらこぶあり、
眼口ひろく逆け黒ひげ、
牙四つ外に現れ、
頭は福禄寿に似て鼻高し

まるで、平安時代末期に成立した「今昔物語集」の中のくだり
「百鬼夜行」の鬼のような、妖怪のような。

ともあれ、この「風魔一党」は山賊、海賊、強盗、そして窃盗の4つに編成され、
その内の「窃盗」が「忍び」として夜討ちの先陣をつとめたと言います。

誇張が多いとされる仮名草子・軍記物「北条五代記」ですが、
天正7年(1579)、勝頼公率いる武田軍と北条軍が、
黄瀬川(現在の静岡県沼津市と三島市)を挟んで睨み合った時の、
風魔一党による暗躍も伝えています。

・・・風魔一党は、四手に分かれ、雨が降ろうとも降らずとも、
風が吹こうとも吹かずとも、夜になれば、黄瀬川の大河を渡り、
勝頼公の陣に忍び入り、夜打ちを仕掛けた。
馬に藁人形を乗せて、陣営に乗り込ませたり、
人を生け捕り、馬を放ち、乱捕りし、火をかけたかと思えば、
味方を装い紛れて、鬨の声を上げたとか。
混乱のただ中で、こちらでは主従で斬り合い、あちらでは子が親の首を捕るなど・・・
そして、夜が明ければその惨劇に、生きる気力も失って・・・
「皆で腹を切ろう」と、その時に、どうせ死ぬなら風魔と刺し違え、
亡き主、亡き父の弔いをしようという者あり。
そこで、武田の兵、10名が、風魔一党に紛れ込んだ・・・
けれども、「立ちすぐり・居すぐり」※という一党独自の合図で正体発覚。
全員斬り殺されたという・・・。

※「立ちすぐり・居すぐり」は、潜入した敵を見分けるための、風魔一党独自の合図。
皆が一斉に松明を灯し、さっと立ち上がり、さっと座る。
すぐさま同じ動作を繰り返せない者は、敵と見做され命を奪われたという。

風魔一党の暗躍がどこまで本当かはわかりません。
けれども、忍びが広めた夜襲の偽情報や噂によって、
陣営は警備強化と安堵を繰り返し、ついにはすっかり疲弊してしまう・・・
ということは、どうやら本当にあったよう。

戦国大名たちも、こうした忍びの撹乱作戦を、かなり警戒していたようで、
実際、勝頼公も、陣中の火事や夜襲があっても、これはこちらを混乱させるためであるため、
各自、持ち場を決して離れず、そこだけ死守すること。
その上で、旗本からの支持を待つよう命じた、と言われています。

忍びには、夜討ちの他にも様々任務が課せられていて、
忍びは、どれだけいても足りない(!)というくらい、
その任務はどれも特殊で危険がいっぱい。
そんなシゴトを担っていた「忍び」とは、どんな人たちだったのか!?

少々長くなりましたので、忍びの姿は次回にさせていただきます。
ぜひお付き合いください🙇
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雨の降らない今年の七夕、山梨県、ご当地七夕人形を作りませんか。

2022-07-07 14:36:07 | 紹介
梅雨が明けたと思ったら、全国的に不安定なお天気に見舞われましたが、
甲府の今晩の七夕、曇り空ながらも、雨は降らない予報です。
なので、今年はちょっと張り切って、七夕人形も飾りませんか?
山梨県ならではの七夕人形なら、折り紙一枚で簡単に作れます。
作り方など、山梨の七夕人形ならこちら↑でどうぞ。
七夕人形には長方形の紙を使っていますが、折り紙でも大丈夫!

・・・
皆さまは、七夕の後、お飾りはどうしますか?

山梨で、この七夕人形がフツウに作られ、飾られていたころ、
七夕が終わると、人形たちは「オルスイサン」に転身!
今度は田畑や、玄関先に飾られ留守を守るお役目となったり、
人形を紙に包んでタンスにしまい、家内安全の神さまとなったり。

私たちの厄を引き受け、その後は水に流されたり、燃やされたりする
一般的な人形代(ひとかたしろ)よりも、もう少し長い間、
神さまとして、こちらの世界にとどまってくださる山梨の「オルスイサン」。

今年の七夕は、ひらひらと着物の裾をたなびかせる
そんな七夕人形に願いをたくしてみませんか。
もちろん、短冊に、お願いごとを書くのもお忘れなく😉
信玄ミュージアム、メインエントランス前の七夕飾り
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第1期企画展が終了。そして次は・・・

2022-07-06 09:19:37 | イベント
7年に1度の善光寺御開帳に合わせて、4月1日から開催してきました
企画展「甲斐国領主と善光寺」が4日で終わりました。資料を借用させていただいた
善光寺、甲斐善光寺、山梨県立博物館様には感謝申し上げます。
開催当初は、全国的にも新型コロナオミクロン株感染が徐々に減少に向かった時期とはいえ、
どのくらいの方がご来館されるか不安もありました。
終わってみれば、多くの方にご来館いただき、誠にありがとうございました。

本来は6通全てを並べてお見せしたかったところ、
展示スペースと適切な管理ができるケースの都合上、そうすることができず、
本当に申し訳ございませんでした。
大きく3つのテーマで善光寺の歴史、武田信玄による信濃から甲斐への移転、
武田氏滅亡とその後の勢力による善光寺保護、そして、浅野氏の時代に
豊臣秀吉の命で京への遷座までパネル解説も含めてご紹介しました。
テーマ1 「武田氏による善光寺移転」
テーマ2 「徳川・羽柴氏と善光寺」
テーマ3 「加藤・浅野氏と善光寺」

そして、善光寺ご本尊は信濃に戻り、残された甲斐の善光寺は新たなご本尊を迎えて
現在に至ります。
今回は、武田氏に関係したテーマとはいえ、武田氏がメインにならない企画展でしたので、
ご来館された皆さまの反応が気になりましたが、
純粋に善光寺の歴史と、甲斐善光寺の成り立ちを御開帳のタイミングで
知ることができたようで、ひとまず良かったのかな、と思っております。

そして、緊急告知ですが、
7月8日(金)・9日(土)には、長かった企画展を総括する
「栗田家文書」から学ぶ善光寺の歴史講座と史料見学会を開催いたします。
ご興味ある方はぜひ、お電話でお申し込みください。
時間は、午後4時00分〜5時30分予定
参加費(特別展示室入館料)として300円
先着順です。

また、7月後半からは信玄公没後450年カウントダウン企画展第2弾
「名将武田信玄と名臣山本菅助」がスタートします。
前期は、「山本菅助-その伝説と実像-」
後期は、「神格化された武田信玄」
と題して、二本立ての小テーマで開催します。
まずは、昨年の武田24将ドラフト会議で前線部隊部門の1位に輝いた山本菅助の
ご褒美企画でもあります。

ちなみに、終わってしまいましたが、実は「甲斐国領主と善光寺」の初回展示
「武田氏による善光寺移転」のテーマで、ドラフト会議の主力部門と本陣部門で
それぞれ1位に輝いた山県昌景・武田勝頼を展示していました。
気づいた人はいなかったかもしれませんが、
ひっそりこっそり裏テーマで、ドラフト会議の結果を企画展に反映するという
公約をちゃんと果たしていました。
信玄ミュージアムでは、来館者の投票を参考に、次の年の企画展のテーマを
勝手に決めていきますので、今年も夏開催予定の常設展示室の企画に参加して、
自分の興味のある展示テーマになるよう1票を投じてください。
詳細は、追ってお知らせしますので、引き続きよろしくおねがいします。
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