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今朝のミュージアムは久々の雪景色

2022-01-24 15:33:47 | 紹介
昨年末頃から全国的な寒波で、大雪などの情報も届いています。
甲府でもこのところ、連日氷点下5、6度を記録する寒さが続き、時折台風並みの
強風にも襲われています。
昨夜は、20時過ぎから舞い始めた雪が朝にかけて意外と積もったようで、
信玄ミュージアムも薄っすら積もった雪で、久々の雪かきをいたしました。
豪雪に悩まされている北海道や日本海側の皆様にはお叱りを受けるかもしれませんが、
降雪量が少ない当地域では、わずかな積雪での雪景色は珍しいのです。



雪も問題ですが、新型コロナウイルス感染の再拡大、いや、過去最大の急拡大で
武田神社周辺もいつになく閑散としています。

山梨県内でも感染者数は増加を続けていますので、来月予定している後期展示会や
少し先になりますが、3月初旬の日本古流山梨支部のいけばな展への影響も心配されるところで、
1日も早い終息を祈るばかりです。
今のところ、感染症対策の強化で対応していますが、できることの限界はありますし、
利用者側のマナーの問題もありますので、難しいところです。

現在、当館だけに限ったことではないですが、各地の博物館、美術館では、マスク着装の上、
入館時の検温・手指消毒のほか、事前予約やチェックシート記入依頼などなど、
様々な感染症予防対策により、来館される皆様には多大なご不便をおかけしているところです。
今回のオミクロン株の強力な感染力を考えますと、従事する職員も慎重にならざるを得ない
状況ですので、ご来館の際は、施設ごとにお知らせしているルールを守り、
少しでも安心して、楽しくご見学いただければと思います。
何卒、ご協力のほど、よろしくお願い申し上げます。

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茶の湯にみる、信玄公のおもてなし(その3)

2022-01-20 14:49:06 | 紹介
京の都からも多くの客を迎えられた信玄公。
武田氏館跡からは、本主殿などを飾った装飾品が出土しています。
いずれも戦国よりも古い鎌倉時代の製品で骨董品として収集されていたものです。

中国製磁器(一部)(特別展示室にて常時展示中)

でも、館跡からはこんなものまで出土しているんです。

表面がつぶつぶしていて、割れ目は少し粉っぽい。
信楽焼の破片です。(当館特別展示室にて常時展示中)

これは何の破片かと言えば、茶の湯で使用された道具。
写真上は、おそらく建水と呼ばれる水捨て用の器の口縁。
下は、茶葉を入れてあった茶壺の胴体部なのです。
今のところ、はっきりとした資料は見つかっていませんが、おそらく水指などもあったはず。
信楽は、焼き物とともにお茶の産地でもありましたので、良質な茶葉を保管・運搬する
ために茶壺が焼かれました。
そして、茶の湯が広がると、道具類も多様化し、それに合わせて様々な茶器も生産されたのです。
Made In 信楽の製品は、最初は畿内周辺の狭い範囲で流通していたようですが、
戦国時代も終わり頃には各地に運ばれたようです。
その一部が山深い甲斐国にも届いたわけですが、壺だけ買い付けたわけではないと思うので、
中には高級なお茶の葉が詰まっていたのでしょう。

出土した茶道具の年代は、戦国時代の終わり頃になります。
勝頼公が甲州征伐の末に亡くなった後、武田氏が拠点とした躑躅が崎館には、
織田氏、徳川氏、豊臣氏の勢力が入り、甲斐統治の拠点として再び活用されました。
武田氏から最後に館を廃城とした浅野氏にいたるまで、どなたの茶道具でもあり得るのですが、
・・・どうなんでしょう!?

出土品ひとつとっても、中世・戦国期から近世にかけて、時代の変遷が見て取れる武田氏館跡。
感染の再拡大で普段の行動も気を使いますが、武田神社参拝の折には、神社を囲む館跡を巡るのはいかがでしょう。
それに、お住まいの地域の地図を眺めてみたら、「○○跡」を発見!
訪れてみたら、なかなか良いところだった~ということもあるかもしれません。
この際ですので、郷土発見もおすすめです。
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茶の湯にみる、信玄公のおもてなし(その2)

2022-01-17 21:49:12 | 紹介
新型コロナも再び猛威を振るって感染拡大が続いています。
皆さまもうがい手洗い、マスク着用に、施設入館時は手指消毒と、
くれぐれもご用心くださいませ。

さて、今宵もお話の続きでございます。

茶の湯は、主が客をおいしいお茶でもてなすこと。
その味わいは、味覚だけでなく、道具、季節、ふるまい、心遣いが相まって生まれます。

ぎりぎりまで自らを追い込んだであろう宗教的修行や戦などの、
ここぞという時の”お供”、覚醒のための茶は、
室町時代に成立した「会所」を新たな舞台に、にぎやかに楽しむ「殿中の茶」となり、
はたまた精神的交流、雰囲気の中、書院の広間でいただく「書院の茶」に。
どうあれ、コミュニケーションに、飲み物はつきもの🍵
茶も、時に主役を張りながら、時に潤滑油のような役割を果たしながら、
今日の日本文化を語るにおいて不可欠な、茶の湯、茶の道になっていきました。

TPOに合わせて飲まれてきた茶ですが、格式も格調も高い「殿中の茶」をモデルに、
遅くとも16世紀初め頃から、地方において、もう一つの茶の湯が流行しました。

それは、茶の湯のあらゆる要素を総動員して、お客さまをもてなすことに
主眼がおかれたもの・・と考えてよいかもしれません。

主は、地方の領主や有力者たち。
もてなしの場は、居館に付属する庭園の一画に建てられた「二階之亭」など。

「山里に於て晩食之有り(中略)次に二階之亭茶湯座敷等之見て、
目驚き了(おわんぬ)。次に花園林等之見る」
※「言継卿記」(ときつぐきょうき)より
大永7年(1527)~天正4年(1576)の50年にわたる公家、山科言継の日記。 
実は、この方、隠居して京へのぼった信虎公とも親交があったお公家様です。

一連の儀式饗宴の後、案内されたのは「二階の亭」の2階。
何の気なしに足を踏み入れた座敷のしつらえに驚き、続いてすばらしい眺望が目に入って・・・
座敷には、押床または押板、違棚もあり、作法に則り茶器、唐物、軸装などが飾られたといいます。

「殿中の茶」を地方に持ち込んだのは、
都の要請に応じて上京し、その後帰国した守護代や国人領主クラスの武家と、
京の不安定な情勢により、いわゆるパトロンを失った僧侶や知識人。
地方の領主や有力者に招かれた彼らもまた、都の状況や茶の湯を含めた京の文化を各地に伝えました。


現在展示中の「信玄公屋形図」にも、本主殿(=会所)が右上に。
左下、庭の一画には「二階矢櫓」が描かれております。
矢櫓(やぐら)とあるので、ここがもてなしの場として使用されたか定かではありませんが、
立地的には素晴らしい場所。富士山もよく見えたはずです。

絵図は江戸時代のもので、リアルタイムで描かれたものではないのですが、
日記に加え、こうした流行を裏付けているのが、戦国の館跡からの出土品。
館の規模、都からの距離に関係なく、調査したうちの50~70%の遺構から、
染付、青磁の茶碗といった舶来物の中国磁器や、瀬戸・美濃系の天目茶碗が発掘されているそうです。
足利義政の所有した茶道具の目録「君台観左右帳記」に記された品々と同等ではないにせよ、
茶席の飾り棚にふさわしく、また必要な茶道具です。


天目茶碗(和物)(当館特別展示室にて常時展示)
武田城下町遺跡、伝・武田信繁(信玄公の弟)屋敷跡より出土。

戦国期にいたり、独自に領土を治めることになった多くの在地領主たち。
新たな領主として、自らがふさわしいことを知らしめるためには、
武力だけでは不十分。教養や、朝廷や幕府が培ってきた作法に倣うことで得られる権威も必要でした。
茶の湯によるもてなしもその一つ・・・。

信玄公は、どのようにお客さまをもてなしたのでしょうか。
本主殿、館の東の峠に建てたとされる茶堂など、その時々に合わせてお茶をふるまわれたに違いありません。
そんなこんなを想像するのも、楽しいものです。
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茶の湯にみる、信玄公のおもてなし(その1)

2022-01-15 09:25:49 | 紹介
信玄公生誕500年記念として開催中の「遺産から語る武田信玄」
現在、信玄公のくらし、をテーマに茶の湯に関わる資料を中心に展示中です。

戦国の茶の湯と聞いて、どんなイメージが浮かびますか。
茶の湯と言えば、千利休が大成したわび茶でしょうか。
刀は置いて、にじり口から茶室に、それこそにじり入る。
狭い茶室では、敵も味方もない、ただただ茶の師が点てたお茶をいただく。

信玄公もまた、茶室の小さなにじり口を前に、身をかがめたのでしょうか!?
千利休が、織田信長の茶堂として召し抱えられたのが永禄12年(1569)。
信玄公がお亡くなりなったのが元亀4年(1573)。
信玄公と茶の湯との関係を記したものは、残念ながらほとんど見つかっていません。

でも、大泉寺(信虎公菩提寺・甲府市)に信玄公が寄進したという、
特別展で現在公開中の愛用の疣麿茶臼が遺されていたり、
武田氏館跡からは、茶臼や天目茶碗(和物)、姫の井戸からは茶釜も
出土していることから、信玄公もお茶を嗜んだことは確か。
いずれにしても、信玄公の親しんだ茶は、
わび茶や信長の推し進めた御茶湯御政道の時代よりも、もう少し前のスタイルだったかもしれません。

城下町からも同じように茶の湯に関わる出土品が見られることから、
甲府の人々の間にもある程度は広まっていたのは間違いないと思われます。

天目茶碗(和物)(特別展示室に手、常時展示中)
武田氏館城下町、伝・武田典厩信繁(信玄公の弟)屋敷跡より出土

茶は、栄西禅師が中国から薬として持ち帰ったことは良く知られていますが、
カフェインによる覚醒作用もあって、禅の思想を含んだ宗教的修行では、
睡魔と邪気を取ってくれる(!)として必需品に。
この茶の湯が、殺生を生業とする武家の生活習慣や美意識と通じ合うものがあったのでしょう。
室町時代前期には、茶を飲む習慣が生まれ、
甲斐国にご縁も深い夢窓疎石の禅の庭とセットになって、独自に発展していくのです。

茶の湯の場が茶室になるのは戦国時代も終わりのころ、16世紀末以降で、
それ以前は、室町期成立の寄り合いの場で茶が飲まれました。

儀式に続く饗宴や、連歌会などインドアな遊びのための、
貴賤同座が許された「会所」、「本主殿」などと呼ばれた空間がそれで、
室内は、輸入品や骨とう品を中心に、言わば権威を示す威信財が、作法に則り飾られました。


唐物などの茶道具をいかに飾るか。
「茶湯棚飾」の教科書は、↑の「君台観左右帳記」、足利義政が収集した茶道具の目録です。

格式や格調を重んじる、こうした武家や貴族の茶は「殿中の茶」と呼ばれ、
茶は宴会の始まりと会席料理の終わりに点てられました。
また「闘茶」といって、豪華賞品付きの茶葉の産地当てゲームもあって。
当時の茶葉の主な産地は、仁和寺、醍醐、葉室、般若寺など。
中でも栂尾、その後は宇治が最高級。「闘茶」とはこの最高級品の当てっこで、
味、香り共に茶に精通していなければ、とても答えられそうにない難問ですが、
全体を見れば、茶の「道」の探求というよりも、「サロン」的性格が強い印象です。

・・・
こうした「殿中の茶」とは別に、16世紀初めごろ、主に地方で流行した、
「もう一つの茶の湯」があったのようなのです。

あともう少し続きます。
お付き合いいただけますと幸いです🙇
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信玄公生誕500年甲府歴史講座~甲府を学ぶ~第3回を開催しました。

2022-01-14 09:53:11 | イベント
1月12日(水)甲府歴史講座の第3回を開催しました。




「宝飾産業を支える水晶~史料から探る伝統~」をテーマに
帝京大学文化財研究所研究員 数野雅彦さんが講演しました。


山梨・甲府と言えば
現在も水晶が有名ですが
水晶に関する文献は少ないそうです。

講座では、鉱山の写真、水晶の産地特定などの調査の様子や、
近代初頭の水晶製品について伺いました。

水晶製品の一覧の中に
水晶の根付や置物のほかに
眼鏡が多くありました。

当時の加工技術の高さが
現代にも息づいているのですね。





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