信玄公生誕500年甲府歴史講座~甲府を学ぶ~第1回を開催しました。

2021-12-16 14:12:54 | イベント



遊亀公民館 展示室にて
11月29日(月)甲府歴史講座の第1回を開催しました。
「よみがえる江戸時代の甲府~地下からのメッセージ~」をテーマに
昭和測量株式会社調査研究員の萩野谷主税さんが講演しました。


受講生の皆さんがは
熱心に出土品をご覧になり
質問されていました。


   








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信玄公も頼みに!諏訪の神さまのふしぎ✨(その2)

2021-12-13 15:53:09 | 紹介
信玄公もとても頼りにした、軍神・諏訪明神ですが、
そのご守護は「広大無辺」、不可思議さもお持ちの諏訪の神さま。

信玄公がどんな神さまをお信じになったか知りたくて調べていくと、
どうしても避けては通れないご存在がありました。それが「大祝」(おおほうり)。

「大祝」とは、諏訪大社の神職のトップ。
世襲する諏訪氏は、諏訪郡を治める武家であると同時に神官。出自は諸説ありますが、
家伝によれば、諏訪明神に選ばれた童男から始まった・・とか。

その即位の儀式が、諏訪明神をちょっとでも理解するヒントになるかも・・しれません。

大祝に即位するにあたり、諏訪家の童男(8歳頃)は30日余りかけて身を清め、
諏訪明神の神原より神霊をご神木、その下の神石へとお招きします。
その石を内側に幕を張って、神殿を設け・・・
神官・神長官(じんちょうかん)が、石上の童男に、諏訪明神の姿と伝わる烏帽子、狩衣、指貫などを身に着けさせ・・・
一連の儀式を経て、童男に神霊が宿り、大祝に即位、現人神に✨

だから諏訪大社には本殿がありません。ご神体は守屋山であり、ご神木であり、大祝✨。

ちなみに、儀式を主導したのが、建御名方神に屈した洩矢(もりや)神の子孫と言われている守矢氏。
神社の事務長格「神長官」を代々受け継ぎました。

武田家はその祖をたどれば清和天皇につながる血筋。こうした例はそれなりにあるようですが、
諏訪氏のように祭神をその祖とする家はとても珍しいそう。
だからこそ、諏訪御料人を母に持った勝頼公が大祝となられていたら、
どんな存在になられていただろうかと・・、想像せずにはいられません。

・・・
ただいまの特別展示室のテーマは「信玄公の信仰」(後期)です。
*「不動明王画像」伝逍遥軒信綱作(大泉寺所蔵)
*「武田信玄像」(個人所蔵)
*「武田信玄願文曰」(神長官守矢史料館管理・個人所蔵)

神職「大祝」は、明治維新以降、神官の世襲制が廃止され、途絶えます。
神長官も同様で、その一子相伝の秘伝もほとんど失われたと言われています。
ですが、今日、守矢家で継承してきた文書を保管・公開する「神長官守矢史料館」があり、
中世の古文書、諏訪大社の祭礼を伝える貴重な史料が展示されています。

神長官守矢史料館の情報はこちら↓からどうぞ。

今回のテーマ展示では、こちらの史料館より、信玄公が諏訪大社に奉納した願文をお借りしております。

「信玄公の信仰」(後期)の展示は12月26日(日)まで。

師も走る忙しい時期ではございますが、ぜひご見学にお越しください。
皆さまのご来館をお待ちしております🙇
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信玄公も頼みに!諏訪の神のふしぎ✨(その1)

2021-12-12 18:22:12 | イベント
旧堀田古城園の冬の庭✨
雲が多いですが、写真中央奥の富士山🗻が見えますか?
すっかり雪に覆われて見慣れた冬の富士です。


冬晴で風も穏やかな一日でした。
そんな陽気もあってか、いつもより混雑の日曜日となりました。

信玄公生誕500年記念で展示中の信玄公が諏訪大社上社に捧げた「武田信玄願状曰」。
信玄公も崇敬した諏訪大社について、少々ご紹介してみたいと思います。

武田軍の軍旗と言えば「風林火山」が有名ですが、本陣にはほかにも
「勝軍地蔵大菩薩」・「八幡大菩薩」と「諏訪明神」の旗を掲げました。
氏神様などと共に頼りにされた諏訪明神って、どんな神さまだったのでしょうか。
諏訪大社のHPによると・・・
「諏訪明神は古くは風・水の守護神で五穀豊穣を祈る神。
また武勇の神として広く信仰され、現在は生命の根源・生活の源を守る神として
御神徳は広大無辺で、多くの方が参拝に訪れます。」

主な祭神は、建御名方神(タケミナカタノカミ)とその妻・八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)。

「古事記」が記す諏訪大社の創建は、
国譲りをかけた、武御雷神(タケミカヅチ)と建御名方神(タケミナカタ)、
相撲の元祖にもなった2柱の”力くらべ”のてん末として語られています。

武御雷神に負け、この地から出ないことを約束したのは建御名方神なのですが・・
諏訪に鎮座されてからは諏訪明神として祀られ、朝廷も認める軍神として信仰されるように。

そこに隠されているのは、もともとこの土地を治めていた豪族(守矢氏)が、
別の氏族(神(みわ)氏・諏訪氏の祖)に制圧された末の、祭政権交代の物語。

しかし、人はそんな簡単に、かつて頼りにした神さまを忘れられるものではありません。
結果として、諏訪明神は、この地の守屋山という御神山同様、雨や水、そして風をも治めることも期待され。
また、日本では、水の神さまが蛇や龍の姿に重ねられ、
さらに蛇が脱皮する姿から、”死と再生”という生命の循環、豊穣が想起されることがよくありますが、
諏訪明神も、諏訪湖の御神渡りの神事では、蛇神、龍神のお姿でとらえられたとか。

諏訪の地は、「ミシャクジ」信仰発祥の地とも言われています。
聞きなれない言葉ですが、”石神井”(しゃくじい)など関連する地名も各地に。
この「ミシャクジ」、神さまというよりも、命を呼び起こす精霊に近いものなのかもしれません。
卜占で使用する石棒に宿ることもあれば、稲を守護する耕作の神になることも。

異国の者や、帝に従わない者から国を護る神として、早い段階から朝廷より評価された諏訪明神ですが、
狩猟の神としても信仰を集めたのはどのようないきさつだったのか。
野生の鳥獣もまた自然の恩恵で、作物と同じく生活の糧として関連付けられたのでしょうか。
いずれにせよ、諏訪では肉食を禁忌した時代においても、狩猟が許され、
その大社では「御頭祭」(おんとうさい)という、「御柱祭」同様、非常に特徴ある神事が執り行われてきました。
余談ですが、そういえば、来年は御柱祭が開催予定です。
・・・
諏訪明神という神さまをひとつのイメージに集約するのは無理がある?
けれども、諏訪大社を特徴づけているといって過言ではない、諏訪明神の現人神「大祝」(おおほうり)。
その即位の儀式が、諏訪明神やその信仰のヒントになるかもしれません。

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願文に見る、信玄公の自己プロデュース✨

2021-12-11 12:44:49 | 紹介
子どものころ、よくくじ引きで何か決めたりしませんでしたか。
大人でも、時にくじ引きで、何らかの決め事を決することもあるかもしれません。
くじ引きのメリットは、とにかく有無を言わさず決めることができること。
そこは恨みっこなし。だって、それは、その時の「運」の良し悪しで決まるから!?

でも、その「運」って誰が決めるのでしょうね。

戦国の世における共通認識では、それをお決めになるのは神さまだった(!?)はず。
だからこそ、戦での先手や、時には将軍までもがくじで選出されたワケです。
なぜなら、くじ引きの結果は、ご神意の現れだから。
神さまと人間の関係が、今よりも近しかった時のお話・・。

・・・
信玄公は、他の武将同様、多くの願文を神社に奉納しております。
願文は神さまに何かをお願いするための、一種のお手紙なのですが、
お手紙ゆえに、その方の個性がでるようで😉 
例えば、上杉謙信を「説得型」とするなら、信玄公は「押しつけ型」💦💦だとか。
わたしが○○をした以上は、または卜占で○○な結果がでた以上は、
このような結果をお授けいただけなければおかしいですよね。という調子なので、、わからなくもありません。

ただ、願文は神さまへの単なる戦勝祈願だけでなく、
戦いの正当性を、家臣領民にも納得してもらうためでもあったようで、
実際、願文の写しやおおよその内容は周知されていたとも言われています。

”ついて行くならこのお屋形さま✨”と、
家臣領民に確信させるための自己プロデュース(!?)など、周囲への配慮と共に、
信玄公の「勝ちたい!」という思いが、願文にどんなふうに表現されたのか・・。

・・・
12月の当館特別展示室・信玄公生誕500年記念の展示テーマは「信玄公の信仰」(後期)です。
ただいま、
「武田信玄願状曰」(茅野市教育委員会神長官守矢史料館管理・個人所蔵)
「不動明王図」(大泉寺所蔵)
「武田信玄画像」(個人所蔵)
以上、3点を展示中。いずれも普段は見ることができない資料です。

こちらは、永禄8年(1565)に上野国(群馬県)箕輪城攻略を祈願して
諏訪大社上社に奉納した願文。

箕輪城は、長野氏が籠る西上野における上杉方の重要拠点。
なんとしても攻略したい城の一つでした・・・。

筆がかすれるまで、墨をつけない信玄公の特徴ある筆致を眺めつつ、
お館さまの、諏訪明神にかける思いも感じてください。
願文を含め「信玄公の信仰」(後期)は12月26日(日)までご覧いただけます。
皆さまのお越しをお待ちしております🙇
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令和4年の寅年は、「虎」朱印の御城印で縁起良く♬

2021-12-10 12:15:08 | 紹介
多くの皆さまにお受け取りいただいている、信玄ミュージアム発行の「武田氏館跡」御城印✨
年末年始は、信玄公の父・信虎公の「虎」朱印バージョンに!

ちょうど来年は寅年。
先月の特別展でご紹介した、信貴山朝護孫子寺様も寅と縁の深いお寺です。

ご縁にあやかって、信玄ミュージアムでも信虎公の虎・寅・🐯で
縁起の良い1年のスタートになるよう、御城印をご用意したいと思います。
何度かお目見えしているこちらの御城印ですが、まだお持ちでない方は、
虎朱印の御城印で今年一年の攻城納め、あるいは新年の攻城初めはいかがでしょう。

信虎公虎印バージョンは、夏季の甲府建設着工記念の8月16日前後にも配布していますが、
躑躅が崎の館への移転記念と開府、そして、1月6日の信虎公誕生日に合わせて
昨年もこの時期に配布したものになります。

配布期間:12月20日(月)~1月6日(木)
※今年は、12月28日(火)~12月31日(金)までは休館日です。
 ただし、㈱桔梗屋様のカフェ・お土産店は、29日~31日は営業しています。
※通常版(信玄公の龍朱印バージョン)ご希望の方は、スタッフにお申し付けください。
信虎公にちなんだ御城印は、こちらのバージョン
朱印は、信虎公のお使いになった「虎」の朱印(復刻版)です。
※特別展示室ご見学の記念品ですので、販売はしておりません。

永正16年(1519)12月20日は、武田家宗家の若き当主、信虎公が甲斐国内を平定し、
それまでの拠点・川田館(甲府市川田町)から、現在,武田神社が建つ躑躅が崎の館に入った日。

この地は、甲斐国の中央に位置し、政をするにもバランスが良く、
また山に囲まれた土地ゆえに、詰城を築くに適した土地にも恵まれていました。
館も扇状地上にあるため、川田館に比べ、洪水の心配がない土地です。

信虎公は、守護大名から、独力で領国を治める戦国大名に脱皮した世代。
新たな拠点となった館の城下町には、有力国人を集住させ、物理的な監視下に置き、
戦続きで疲弊した兵力を補うために、傭兵も登用するようになるなど、
甲斐一国の主として力を強めていきます。

大名としての在り方が変化し、領国内の郷村をより直接的に支配するようになり、
自然、実務も増大。発給文書も増加し、効率化が必須になったのかもしれません。
遅くとも大永5年(1525)頃から、花押の代わりに「虎」の朱印が使われるようになり、
ついには「(信虎公の)朱印がないものに従う必要なし」という通達まで。

・・・
「虎」朱印バージョンの御城印配布の最終日は、信虎公のお誕生日。
明応3年(1494)または、明応7年(1498)の2説がありますが、
現在は、明応7年説が有力視されています。

信虎公が躑躅が崎へ移転を決めたのは、二十歳を過ぎた青年期。
永正16年(1519)の躑躅が崎への館の引越しと甲府開府という大事業を終え、
年が明けた永正17年(1520)には、館の北方に位置する積翠寺丸山に
詰城・要害城を築き、大永元年(1521)頃、信虎公は「信直」から「信虎」に改名。
そして、駿河の福嶋氏率いる今川軍が甲府に迫り、飯田河原、上条河原での合戦に勝利する最中、
詰城・要害城でお生まれになったのが、武田家嫡男、幼名太郎、後の信玄公です。

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