決戦川中島 開始から1週間です。

2022-07-25 20:41:37 | イベント
7月20日(水)から特別展示室では
企画展「山本菅助 その伝説と実像」が始まり、
並行して常設展示室では
「決戦川中島 武田・上杉勝者はどっち?」
を開催中で、1週間が経過しました。
初日から上杉謙信にわずかながらリードを許す苦しいスタートとなったこの対決。
始まりの1週間で結果はどうなっているか、発表いたします。

結果は、
武田信玄 195票 
上杉謙信 123票 
合計で318人の方が投票されていることになります。

期間中の入館者数で計算しますと、投票率は約20%ですので、
例年よりやや低め?
今までは、その場で投票形式でしたが、
今回は投票所を出口脇の1箇所に集約しましたので、
分かり難くさと不便さが作用したのかもしれません。
表示なども工夫してこれから投票率アップにつなげたいと思います。
出だしこそ苦戦したものの、地の利を活かして武田信玄が優勢となっています。
その日のお客様の気分や出身によるものか、上杉軍が優位に立つ状況もあり、
数字も大きな開きではありませんので、逆転もあり得る状況です。

今回の企画をお楽しみいただくためにご用意した
対決する3つテーマについて、少しご紹介します。
まずは、最初に設けたテーマが「戦略」です。

「戦略」とは、一般的に軍事面で使われる用語ではありますが、
ビジネスなどでも盛んに使われています。
戦略は、特定の目標を達成するための長期的かつ
総合的な準備や計画、運用の方針や施策であり、
ここでは、川中島一帯の支配権を確保するために、
双方がどのような布石を打ったか、という点を比較しています。
その中身は、大きく分けて、
①拠点城郭の築城②支配領域の推移
そして、③善光寺の支配を取り上げています。

余談ながら、4月1日から7月4日まで開催した企画展で善光寺を取り上げたのも
もちろん御開帳という大きな事業のご紹介もありましたが、
実は、この企画につながるテーマを含んでいたという意味では、
当館の事業戦略の一環だった、ということになります。

いずれにせよ、武田信玄は着々と地域支配を固めるための布石として、
調略も用いて在地領主を自陣営に引きこむとともに、
海津城という軍事拠点を築き、川中島への影響力を強めたわけです。
現在、展示中の山本菅助の存在を初めて証明した古文書も、
広域的な戦略の中で、越後国境を支配する市河氏に対して
菅助が使者となって出された史料になります。

一方の上杉謙信は、北信濃諸氏の救援要請に応えて出兵を繰り返したものの、
目的は、あくまで越後国境の安全確保と北信濃諸氏の失地奪還にあり、
川中島支配というところまで目指していなかったのかもしれません。
その意味では明確な戦略を描けなかったと思うわけです。
まさか、助けを求めている相手の領地を奪うわけにもいかなかったでしょうから、
守勢に回るのは仕方なかったのかもしれませんが・・・。

そんなストーリーから捉えて、
明確な戦略を持って川中島の戦いにのぞんでいだ武田信玄と、
戦略的には明確な奪還方針を示せず、局地的な防衛戦を強いられた上杉謙信。
この勝負では、武田信玄優位と言いたいところですが、
どちらが勝者か、と解説板を見ながらお考えていただければ
川中島の戦いの見方も変わるかもしれません。

その戦略を実現するための具体的な計画や方法が戦術であり、
いわば、結果を出すための手段に該当します。
次回は、戦術の解説についてご紹介しますので、お付き合いください。

なお、またまた他館の事業紹介になりますが、川中島支配の上で
重要な役割を担った海津城。
松代城と名を変えて、長野市さんが周辺も含め城跡の整備を行っています。
石垣づくりの近世の城郭として整備されていますが、
縄張りと呼ばれる城の平面図を見ると、武田氏時代の面影が随所に残されています。
その松代城の主として近世松代藩の礎を築いた真田信之が
今年で入城して400年の節目を迎えるそうです。
真田宝物館では、現在、特別展を開催中ですので、
川中島古戦場を見たら、次は武田氏と縁の深い松代へGO!



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