大河ドラマの各パネル展も来館者の方には概ね好評で、増設した解説も
この週末は多くの方がご来館し、ゆっくりご覧頂いています。
これから武田家人々の登場回数も増え、いずれ激戦を交えていくと思いますので、
今後の展開に期待したいところです。
現在のストーリーは、まだ家康が松平元康を名乗り、ようやく本領の岡崎に帰って
自立を目指すか、引き続き今川家に従うか、どうする家康?という選択の岐路を
描いています。
桶狭間で敗れたとはいえ、冷静に見れば、今川氏の勢力は依然として大きく、
三河国内の情勢も周囲の国衆は、敵か味方かもわからないほど混乱。
そんな状況の中、永禄4年(1561)4月頃に家康が今川氏の勢力下から自立し、
三河一国を治める大名に出世していく背景を諸勢力の動向から見てみます。
今川義元存命時は、武田信玄・北条氏康の3者がお互いの実力を認め、
強固な同盟関係を築いていました。
後顧の憂いがなくなった義元は、永禄元年(1558)に家督を氏真に譲って
自らは三河平定に力を注ぐようになり、永禄3年(1560)5月に2万余の大軍を率いて
三河から尾張方面へ侵攻を開始。
その矢先に桶狭間で織田信長に討たれ、今川勢は総崩れに。
ここで当主の氏真が家臣らの動揺を沈め、体制の立て直しに成功していたら、
今川氏は存続し、家康は独立の道を選ばなかったのかもしれません。
ですが、今川氏真の資質の問題だけでなく、
家康が決断に至った背景には
諸大名の動向も大きく影響を及ぼしていた可能性があります。
義元の死後、永禄3年8月には越後の上杉謙信が関東へ遠征し、北関東の諸勢力を
従えながら南下して、永禄4年3月には北条氏本拠の小田原を包囲しました。
そして、その動きに呼応して、北条氏救援のために武田氏・今川氏も援軍を送り、
武田勢は北信濃で上杉方の城を攻略するなど、後背を脅かして牽制しました。
今川氏も桶狭間の敗戦で自領国が不安定化した中でも援軍を送っていたようです。
こうして同盟者たちが上杉謙信への対応に追われ、今川氏を救援する
余力がない間隙を突いて、家康は独立へ向けて着々と行動していったようです。
桶狭間の戦いでの今川義元の討死に端を発し、
三国同盟の一画が崩れた隙を見逃さずに仕掛けた
上杉謙信の隠れたアシストによって、
家康は、天下人への第一歩となる三河国平定の地固めができたのかもしれません。
さらに後の時代には、その上杉家討伐が発端となった関ヶ原の戦いでの家康勝利
により、徳川の天下がほぼ確定することに。
そこまで考えると、上杉家は家康の天下取りの第一歩と確定をアシストした
隠れた功労者になるのではないかと・・・。
奇妙な巡り合わせですが、未発表の上杉謙信や北条氏康などの諸勢力は、
今後、どなたが配役で出演され、どのように関わってくるのか楽しみです。