兜はお守りでもあり、「私」でもある!? 

2023-01-18 14:28:19 | 紹介
徳川家康を主人公とした大河ドラマが始まり、信玄ミュージアムでも出演者の
パネル展などを始めました。

ドラマは、家康がかわいい瀬名と結婚して、子どもをもうけ、
あっという間に、桶狭間の戦いの前哨戦(永禄3・1560年)に突入。
この時、御年19才。ヘルメットのような金のカブトがとても印象的でした。
頭のラインに沿った頭形兜(ずなりかぶと)は
平安末期には既に存在したそうですが、
室町時代末期になると、鑓や鉄砲への衝撃にも耐えられるように進化。

ドラマにも登場した、金をふんだんに使ったあの甲冑は、
金陀美具足(きんだみぐそく)または金溜塗(きんためぬり)具足と呼ばれ、
今日、重要文化財にも指定され、静岡県の久能山東照宮博物館に所蔵されています。
ちなみに、実物は、2015年に東京国立博物館で、1年かけて修復されたようです。

渋めに輝く金色は、漆を塗った後、金粉、または金箔を施した上で、
透明の漆を重ね塗る「溜塗」の技法によるもの。
漆は透明とはいえ、本来の茶褐色がプラスされるため、金ピカになりません。

19才の家康が、どんな気持ちで、あのカブトをかぶり、出陣したのか・・・
華麗な甲冑は、自らの存在を、周囲に知らしめると同時に誇示するもの。
更に言ってしまえば、死装束です。
年齢・経験問わず、どの武将も甲冑に特別な思いを寄せていたに違いありません。

それをストレートに(!?)表現しているのが、戦国ならではの「変わり兜」。

兜のモチーフは、ビッグサイズの毛虫、ウサギ、ナマズ、タコ、エビ、サザエなどなど。
断崖の「一ノ谷」はかなり個性的ですが、まだまだ驚くなかれ。
上杉謙信の兜は「三宝荒神」のお顔だったようですし、
煩悩を打ち砕く金剛杵(こんごうしょ)を握り、天に突き上げられた「拳」もあって、
被ったが最後、大きすぎて動けないよね(゜o゜;という「麒麟」の前立て付き兜まで様々。

変わり兜は、個性炸裂、面白いこと間違い無し。
でも、多分、当時は大真面目に兜が考案され、
武将の皆さまそれぞれに、自らを支え鼓舞してくれるものを、
兜で表現されたのではないかと思います。
家康もまたしかり。

☆「歯朶(しだ)具足」
家康が、関ヶ原の戦いや大阪冬の陣でも用いた、徳川家「吉祥の具足」。
財福の大黒天の「大黒頭巾」型兜+薬用植物のシダの葉形の前立てです。
家康の夢に出てきた甲冑・・・ということで「御夢想形」とも呼ばれます。
通常より、鉄に厚みがあり、当時の具足は15kg前後でしたが、こちらは22kg。

収蔵されている甲冑は、「歯朶具足」を模した「貫衆(=シダ)具足」と呼ばれるもので、
御神体にも準ずる(!)として、四代将軍の命で、久能山東照宮に納められたもの。

☆「諏訪法性兜(すわほっしょうのかぶと)」
信玄公が使用したと伝承される、前立てに金色の角をもつ獅噛、
頭頂部から後頭部にかけ、ヤクの白い毛があしらわれたもの。
ヤクは牛科の動物で、黒く長い毛が特徴ですが、
この兜に使用されたのは、チベット地方に生息する、全身が金白色のヤクの毛。
海外から取り寄せた素材というだけで、背景の財力を感じさせます。

兜の名の「諏訪」は、信玄公も軍神として崇拝していた諏訪明神のこと。
「法性」とは、仏教用語で「真の姿」あるいは「本来の姿」といった意味。
なので「諏訪法性」とは諏訪明神そのもの。

信玄公は、戦のたびに諏訪大社に戦勝を祈願し、
神の加護を祈ったと言われます。
自らも「諏訪法性兜」をかぶり、
「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗も掲げていますので、
信玄公が諏訪明神を崇敬したのは間違いありません。
『甲陽軍鑑』には、武田軍を守護するために掲げられた、
諏訪明神の神号の「御旗」や、「諏訪法性兜」の記述もあります。
ただ、『甲陽軍鑑』の兜=信玄公の持物(アトリビュート)化している「諏訪法性兜」
・・・かどうかは???のようです。

とは言え、この兜、江戸時代以降、人々が抱いてきた信玄公のイメージそのもの!?
だからこそ、多くの絵画に「諏訪法性兜」の信玄公が描かれ、人気を博したのでしょうね。

「諏訪法性兜」(レプリカ・一部)長野県下諏訪町立諏訪湖博物館所蔵
2021年、信玄公生誕500年の当館特別展示室にて展示させていただきました。

・・・
最後に、信玄公の近習の言葉!?
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭(とうのかしら)に本多平八」
「唐の頭」は、ヤクの毛をあしらった兜のこと。
本多平八とは本多忠勝のこと。この方の「鹿角脇立兜」もなかなかの存在感です。
コメント
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