北上川を望む薄衣千葉氏の居城跡
(薄衣城 二の丸跡 )
米倉館とも呼ばれる薄衣城址は、一関市川崎町の北上大橋にほど近い川沿いにところに城跡はあります。
薄衣城は北上川と断崖絶壁という天険を利用した山城となっています。
(薄衣城跡 全景)
畑の沢から見る薄衣城祉
(薄衣城跡 入口 搦手門)
薄衣城搦め手入口です。ここから5分ほど山道を登ると、二の丸にたどり着きます。
(入口からの道路)
城までの道は、道幅が狭く、坂がきつくなっています。
杉などの針葉樹林ため光がとどきにくいせいか、頂上までの道には草木はあまり生えていません。
搦手口から頂部に登る途中、所々に曲輪跡らしき平場がうかがえます。
薄衣城跡には搦手口の他にもいくつかの登り口があります。
笠神道路と呼ばれるところが存在します。
この登り口には石碑が登り口の目印となっています。
搦手口よりも道幅が狭く急斜面になっています。
ジグザグの道となって他の道路より登りづらくなっています。
急斜面を登りきると本丸脇の平場に到着ます。
薄衣城二の丸跡です。 平場が大きく広がって北上川を見下ろすことができます。
夏場は、足首程度まで草木が生い茂っていますので、長靴もしくはブーツでの散策をおすすめします。
二の丸跡から本丸への入口付近です。
薄衣城は大きく、本丸、二の廓、三の廓、四の廓と別けられ周囲に郭と見られる平場が点在しています。
三の廓、四の廓は現在、畑地になっています。
(二の丸から本丸を望む 2011年8月撮影)
(薄衣城 本丸跡)
本丸跡には畑として利用されていますので、散策の際にはくれぐれも畑を踏み荒さないようにお願いします。
(薄衣城 本丸から二の丸を望む)
(薄衣城祉 略図)
【薄衣城】 薄衣千葉氏 とは・・・
平泉の藤沢氏が文治五年(1198)九月、源頼朝に滅ぼされてから、頼朝は重臣の葛西清重に平泉郡内の統治を任せ、やがて奥州総奉行として任命しました。
以後、鎌倉幕府が滅亡するまでの400年間に亘り葛西氏は当地に於いて大きな勢力を持つことになりました。
葛西氏の所領は概ね、北上川の中流、胆沢郡より宮城県牡鹿郡までと考えられ、薄衣地方は葛西氏の領域に入っていました。
薄衣は、葛西氏の重臣薄衣千葉氏が薄衣城に拠って以来、戦国時代までこの地を統治することになります。
しかし戦国時代末期、薄衣千葉氏に凋落の日がやってきます。
豊臣秀吉の奥州仕置きによる上方軍に対し、薄衣城主薄衣甲斐守胤次(あるいは胤勝)は主家の葛西氏と共に宮城県佐沼方面に軍勢を集結し、迎撃体制を整えなければなりませんでした。
葛西晴信は上方軍の北進に備えて寺池城(宮城県登米市)を本拠として、宮城県桃生郡河南町和渕に登米郡西郡城主左馬之助胤元を大将として八百余騎。
桃生郡中津山の香取山に磐井郡大原城(一関市大東町)城主大原飛騨守胤重を大将として赤印の旗を押し立て、東山・本吉・気仙・江刺各地の旗本を従えて一千七百余騎。
栗原郡高清水の森原山には薄衣城城主薄衣甲斐守胤次(胤勝)を大将とし、旗本に長坂城城主千葉大善助胤村と千厩城城主今野左馬之丞重安を両大将として、東山釘子城(一関市室根町)城主柴股大学義武・東山西釘子城城主笹町新九郎経尚・磐井郡日形城(一関市花泉町)城主千葉左門胤連・同富沢城(一関市弥栄)城主富沢彦次郎久胤・同男沢城(一関市花泉町)城主及川主計正頼常・同峠上城(一関市花泉町)城主寺崎石見守・同赤萩城(一関市)城主岩淵壱岐守経道・同蛯島城(一関市花泉町)城主蛯島蔵人盛永・宮城県石越城城主石越越前等一千五百余騎が黄印の旗を押し立てて、天正十八年(1590)八月これを迎え撃ちます。
戰は八月十一日から十八日頃まで続けられたと思われますが、薄衣勢は精鋭の上方軍に敗れ佐沼城に退き、やはり敗退してきた大原飛騨守勢と、佐沼城に立て籠もっていた葛西勢が合流し、三千九百余騎が上方勢と火花を散らして戦いましたが、ここでも敗れ、配送して薄衣城に立て籠もったといわれています。
しかし、薄衣城も上方軍に囲まれ、北上川の中川原で最後の城主薄衣甲斐守は切腹し、薄衣城は落城したと伝えられています。
(出典 川崎村の歴史 奥州千葉氏)
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