振り出しに戻る「落陽日記」

旅や日々の生活の一コマ。60代半ば、落陽期を迎えながら気持ちは再び振り出しに戻りたいと焦る日々です。

出雲のたたら遺跡巡り(4)菅谷たたら山内

2018-05-30 19:48:42 | 旅行
今の雲南市吉田町に残る菅谷たたら山内は松江藩の鉄師、田部家の一大拠点で江戸時代中期から大正時代まで操業していた高殿と呼ばれるたたら場を見ることができた。

山内とはたたら製鉄の仕事場を中心にその仕事に携わる人達とその家族が生活する集落だ。ここは山に囲まれた谷あいの2本の川が合流する地点にあった。映画「もののけ姫」のたたら場のモデルになった場所だそうだ。

これが仕事場の中心、高殿の外観で数年前に保存修理工事が行われている。



高殿の中央には炉が一基置かれているがもちろんこれは再現されたもので、4日間かけて砂鉄と木炭を燃焼させて炉底にできた鉧塊を取り出す度に炉は破壊される。



この炉の地下には保温と防湿を目的に3メートルの深さまで堀って作られた大きな地下構造物があるはずだがそれを見ることはできない。

炉の底部には空気を送り込む十数本の木呂管が見えるが高殿の中には天秤鞴のような物は見えない。



ではどうして空気を送り込んでいたのかと言うと高殿から20メートルほど離れた場所に水車小屋があり、そこに水車で稼働する鞴が置かれていた。びっくりしたが水車小屋から高殿までは地中に埋設された土管を通して送風されていたのだ。

ここにいると昔の人達が汗を流しながら知恵を絞って工夫を凝らして少しでも効率を上げようとしていた姿が想像される。たぶん失敗も何度となくしたのだろう。

しかしながら帰宅して調べてみると同時期のヨーロッパでは産業革命が始まり、製鉄炉への送風を蒸気機関で行っていたらしい。鎖国下の日本では鉄師達にとってそんなことは知る由もなかった訳だ。




駐車場に戻る際、小高い場所に登って山内を眺めると高殿の横に桂の大樹がある。早春、朱鷺色の新芽がとても綺麗だそうで、できればそんな時期にもう一度ゆっくり来てみたい。




出雲のたたら遺跡巡り(3)可部屋集成館と櫻井家庭園

2018-05-28 09:05:52 | 旅行
昼食をとった後、奥出雲町を更に南下して可部屋集成館に到着したのは15時を過ぎていた。

可部屋は松江藩から鉄師と呼ばれた製鉄業者の中でも鉄師頭取を何度も務めた名家らしい。同様の鉄師名家で絲原家の絲原記念館と言う施設も見たかったのだが時間の関係でこちらに絞った。

可部屋は屋号で創業者は大坂夏の陣で豊臣方で戦い討死した浪人、塙團右衛門(直之)の嫡男直胤。櫻井は母方の姓で福島正則に仕えたが改易された後に可部(広島市)、さらに山深い新市(庄原市高野町)に移り住み野だたらを始めた。

そして團右衛門の孫(三代目直重)の代に奥出雲の地に移り松江藩からも鉄師としての業績を認められるようになったようだ。

櫻井家住宅の前に建つのが可部屋集成館で櫻井家所蔵の歴史資料、書画、茶器の展示を見ることができる。



歴代の松江藩主を始め文人墨客などの賓客も多かったようで優れた美術工芸品が残されている。展示を一通り見て住宅に向かった。







住宅の中に足を踏み入れるとここでも生活用具や家具置物を見ることができる。現在の当主さんの住まいでもあるようで、ご婦人のすがたをチラッと見かけた。

住宅を出て奥に進むと藩主などが来駕した際の御成門や駕籠を置いた庭石がある。



庭の左手には七代藩主松平不味公を迎える際に造成された滝があり、不味公から「岩浪(がんろう)」と名付けられたそうだ。裏山のどこかにある水源から導水してきているようだが砂鉄採取の「鉄穴(かんな)流し」の技術があれば容易いもんだろう。



ここは山奥の谷あいにあり、周囲の山が色付く紅葉の時期にはになればこの鉄師の庭園も更に見応えがありそうだ。


出雲のたたら遺跡巡り(2)奥出雲たたらと刀剣館、そして出雲そば

2018-05-25 08:53:47 | 旅行
奥出雲たたらと刀剣館のある奥出雲町は広島県に接する町で中国山地の奥まで来たことになる。

遠くから見ると大きなドリルのようなオブジェがあったが、近づいて見るとヤマタノオロチを模したようだ。





我々以外に来場者はハイヤ-のドライバーと一緒のご婦人がいた。

ここでたたら製鉄の際に炉内に送風する鞴(ふいご)に対面できた。古い時代は空気袋を獣の皮革で作っていたようで鞴の文字にその意味が表れている。当初は手動だったものが足踏みに進化したらしい。

江戸時代になって登場したのが大型の足踏み式の天秤鞴で一人踏みまたは二人踏みがある。踏鞴とも書くらしい。

番子と呼ばれる労働者が1時間踏んだ後他の番子と交代することから「かわり番子」の言葉ができたとか。



たたらを踏むとはこの作業中の姿から連想したものと思われるが、体重をかけるだけでなく木枠を握って体を支えながら力を入れて踏み込んでいる姿が想像される。高温で燃える炉のそばでの番子の仕事は想像しても余りある重労働だろう。

江戸時代の中期頃につかわれていた製鉄炉が再現されていたがこれは想像をはるかに超える構造物だったのでビックリ。



画像ではわかりにくいが全体の上側1/4が地上部分でそれ以下は地下構造物だ。木炭や砂鉄を燃焼させる炉や天秤鞴は地上にあるがその下にはこれだけの構造物が埋まっていることになる。

炉を据え付ける土台の保温と地下からの水分や湿度の上昇を防ぐことが目的とある。温度計や湿度計も、時計すらない時代に経験とカンを積み重ねてこれだけの物を作り上げた人達の知恵と工夫に驚く。


館の名前にあるように刀剣類もたくさん展示されている。最近の刀匠の作品も多い。

刀剣女子と言う言葉を最近聞いたが、刀剣に興味を持つ女性が多いようだ。一通り展示品の刀剣を見たが本来は人を殺傷する目的で作られたモノで見ていると背筋が冷たくなる感覚がある。自分としては美術品のカテゴリーには入れにくい。

館を出ると既に13時近くで予定よりかなり時間がかかり、お腹も空いた。道の駅に行ったらそばでも食えるかと車を走らせたが¥1400のバイキングで単品はカレーライスのみ。

カーナビでそば屋を検索して出雲三成駅近くに戻って入った店がこれ。





鰻丼とミニそばで¥1100、写真を撮る前にそばを二口食べてしまった。鰻はふっくらボリュームがあり、そばもとろみのある出汁で美味しかった。



上の画像は安来から奥出雲に向かう際、亀嵩(かめだけ)の町を通過中に撮影。最初は何のこっちゃと思ったが地名を知ってニヤリ。


出雲のたたら遺跡巡り(1)金屋子神社

2018-05-23 09:44:42 | 旅行
今回、山陰に足を運んだ目的は「たたらの遺跡」を見ることにあった。

中学生のころだったか、中国地方の山間部では古くから製鉄が盛んで燃料に使う木炭を供給するために山林のほとんどが製鉄業者の所有だったと教わった記憶がある。

近年になって出雲地方に多く残る遺跡が日本遺産に認定されたのでNETでの情報も増えて行きやすくなり、どんな方法で鉄が作られていたのか知るために足を運ぶことにした。また、たたらを踏むと言う表現があるが「たたら」がどんな代物なのかにも興味があった。

松江のホテルを出発して安来市広瀬にある金屋子神社に向かった。昨日行った月山富田城跡のそばを通過して更に30分ほど山間部に進んだあたりに神社があった。





参道の脇に近年になって水田などで発見された「鉧(けら)」が展示してあった。鋼や粗鉄を含む固まりで思ったより大きい。



せっかく多量の砂鉄や木炭を使い数日間かけて作り出された鉧がどうしてそのまま廃棄されていたのだろうか不思議だ。出来が悪かったのだろうか?

鉧の周囲には鉄滓(ノロ)が撒かれている。



更に進むと山門があり、石段を登ると立派な本殿があった。





この神社には製鉄や鍛冶に従事する人の守護神、金屋子神が祀られ全国に1000ヶ所以上の分社があるそうだ。豊田自動織機の本社工場内の神社にも金屋子神が祀られていると境内にあった掲示板の新聞記事にある。

金屋子神は播磨の国から白鷺に乗ってこの地にやって来て桂の木で休んでいる時に通りかかった金屋子神社宮司の祖先に製鉄技術を教えたことになっている。また、桂の木が金屋子神社の神木のようで各地のたたら場跡に桂の木が見られるようだ。

神社に隣接して金屋子神話民俗館がある。金屋子神とたたら場の繋がりを紹介したものだが信仰によって共同体をまとめる必要があったのだろう。





館の規模は大きくないが本殿と同じく立派な造りだ。想像だが現在でもかなりの寄進が集まっているように感じた。

この後、更に山奥の奥出雲町にある「奥出雲たたらと刀剣館」に向かった。


月山富田城跡まで来たが膝痛で登頂は断念

2018-05-21 13:27:24 | 旅行
大山を下って月山富田城跡に向かった。ルートの途中には足立美術館があるが10年近く前に行ったことがあるのでパスした。広い駐車場に大型バスが多数いた。

月山富田城跡を入力したカーナビの案内に従って車を進めたが目的地まで残り僅かの所で山道に入り、道路が極端に狭くなった。離合できる場所もあまりなく、前進を躊躇するぐらいだ。

それでも幸いに対向車もなくて城跡案内の看板のある場所に到着。中腹まで登ったようだ。



右手下方に一軒家があり、隣接する駐車場が見えたのでそこに駐車したが他に2台の車があった。軽トラックのそばにいた地元の男性に尋ねると自分達は裏道を通って来たようだ。帰りは駐車場からこのまま下ったが狭いながらも道幅に余裕があり、飯梨川沿いの広い道路に出ると歴史資料館もあった。





山中御殿平から本丸のあった山頂を眺めた画像だが、ジグザグに山頂に至る道が見える。15分位で登頂できるようだが生憎と膝が少し痛むので断念。
ここには城主の居館があったようだがかなり広い。



石垣の近くに井戸があったが柵などの安全設備は無い。石垣は尼子の時代のものではなく、毛利氏や吉川氏の所領になったころに整備されたらしい。

ここから川に向かって少し下った太鼓壇には尼子の家臣、山中鹿介の銅像があるようだがそこも膝痛で断念。

歴代の尼子氏頭領よりも知名度は高いように思われる山中鹿介、NHKの大河ドラマだと太閤記や秀吉、毛利元就、軍師官兵衛などにも必ず登場してくる。尼子家滅亡後もお家再興を願いながら織田軍の一翼となり上月城で毛利軍と戦うものの降伏開城。捕えられ移送途上で謀殺されるまでのストーリーは戦国時代ドラマでは欠かせないシーンだ。

日本五大山城の一つの月山富田城は想像よりは低い山だったが立地としては山陰エリアの中央にあると言える。当時のこあたりは日本有数の鉄の供給地であり石見の銀山にも近い。一時的ではあるが山陰から山陽地方にかけての覇権を握っただけの条件は備えていたのだろう。