振り出しに戻る「落陽日記」

旅や日々の生活の一コマ。60代半ば、落陽期を迎えながら気持ちは再び振り出しに戻りたいと焦る日々です。

自分の生家を思い出した遠野の伝承園

2019-04-27 13:38:06 | 旅行
橋野鉄鉱山を出てから県道35号線を西に向かい、車は笛吹峠を越えた。かなりの坂道で路面の積雪を心配したが、無事に遠野の里に下りて来た。

若い頃に遠野物語の一節は何かの書物で読んだことはあるが、今回の旅を準備する時、図書館で遠野物語を借りて読んだ。遠野出身の佐々木喜善が話す郷土の民話を、友人の柳田圀男が筆記して出版したものだが、東北の農村で昔から語り継がれた民話の中に素朴で信心深く、そしてたくましい農民の生活風景が描写されている。

遠野には色々な観光スポットがあるが、時間の都合もあり伝承園に行ってみた。



南部地方独特の家屋である曲り家が移築され、菊池家住宅として国の重要文化財に指定されている。



土間や部屋の中には昔の調度品や家具が展示されている。いろりには炭火が赤く燃えていて、実際に誰かが生活している感じがする。





部屋の奥に座敷わらしがいても、不思議ではない雰囲気がある。

曲り家の周囲には水車小屋や湯殿、雪隠がある。





湯殿には隣の井戸でくみ上げた水を竹の筒で供給する仕組みだが、郷里にあった自分の生家も同じ仕組みだったことを思い出した。

生家は自分が10歳の時に出火し、古い家で屋根は茅葺だったこともあり、あっという間に全焼してしまった。母屋にはいろりこそなかったが風呂と井戸は隣家との間にあって共同で使用していた。

伝承園の井戸には手動ポンプがあるが生家ではつるべで水をくみ上げていた。そばにある桶に水を流し込むとそこからは半裁した竹の中を流れて風呂桶に届く仕組みだ。風呂には木の葉や井戸に生えている水草などが浮いていることがあった。夏場ならソーメン流しでも出来そうだ。

風呂小屋には屋根こそあれど板壁は隙間だらけで、電灯もないためローソクを点けていた。

生家は農村地帯にあったが父親は公務員だったので家を焼失した後、勤務先の役所がたまたま新築された官舎を提供してくれ、そこに転居した。台所にも風呂にも水道が完備され、風呂釜は薪をを燃やしていたが炊事はプロパンガスになった。父母も姉達も喜んでいたのは覚えている。

生家が火事になっていなかったら我が家の生活は非文化的で、遠野レベルに近いままだったかもしれない。

茶摘みが近づく茶源郷和束の景色

2019-04-24 14:54:14 | 日記
宇治と言うとお茶を連想する人も少なくないと思うが、自分の散歩コースにも茶畑が何か所かある。お茶の製造会社も何軒かある。





画像は4月上旬に散歩の途中に撮影した茶畑で、遮光のための寒冷紗が棚がけされたばかりの頃だ。

宇治茶は京都の名産品の一つだが、その茶葉が多く生産されるのは和束町、南山城村、宇治田原町、木津川市などの順になる。宇治市の生産量は僅かで京都府全体の1割にも満たない。宇治茶は玉露や碾茶などの上級茶が中心で、茶葉を摘み取る1ヵ月くらい前から寒冷紗で遮光して栽培するのが特長だ。現在の寒冷紗は黒い化学繊維素材が使われているが、昔はよしづやワラがかぶせてあった。

遮光栽培されたお茶は被覆茶とか覆い茶、かぶせ茶とか呼ばれているが、遮光することで苦味や渋味が抑えられ、甘味や旨味が増すらしい。被覆栽培された碾茶を粉末にしたものが抹茶だが、近年は海外でも抹茶が好まれるようになったためか碾茶の生産は増加傾向のようだ。


下の画像は昨年8月、茶源郷と呼ばれる和束町に行って撮影した茶畑の景色だが、被覆される時期の景色はどうなるのか見たくてスクーターを走らせた。






昨年と同じ場所ではないが、日本遺産に登録された茶畑景観、石寺の茶畑が下の画像。






中央に一部だけ棚がけ被覆が見える。他の場所の茶畑の景色もほぼ同じような状況で、被覆されていたのは茶畑の一部だったが、しばらくすると寒冷紗を直がけする作業や、寒冷紗を山のてっぺんの茶畑に運び上げる姿が見えてきた。こりゃあ重労働だ。





スクーターで移動しながら茶畑を見て回ったが、棚がけの設備のある茶畑はごく一部しかない。直がけを含めても被覆された茶畑は少ない。





これから被覆作業が開始されるのなら日毎に景色が変わって行くはずだが、また数日後に来てみようかな。





棚田のようになった茶畑は緑色の畝がすき間なく並べられたようで、何とも言えない美しさがある。ソメイヨシノの花は散って葉桜になっていたが、所々には八重桜がキレイに咲いていた。





みちのく岩手の旅(3)世界遺産の橋野鉄鉱山は雪の中

2019-04-22 11:51:31 | 旅行
浄土ヶ浜を後にして国道45号線を南下、山田町や大槌町を通過。8年前の津波で甚大な被害を受けたエリアだ。

海岸線沿いには津波から街を守るために堤防を造る工事が目立つ。新しく建築された家屋も目立つ一方で空き地がまだまだ多くて復興は道半ばと言ったところか。まだ生活中と思える仮設住宅も何か所となく見える。

来年に迫った東京五輪関連の建設はどんどん進行しているのに震災被災地を見ると順序が逆に見える。復興五輪と言ったはずだが、膨らんだ五輪予算や競技開催場所の剪定を見ると、復興が五輪開催の口実にされただけのように思えた。

山田町にあった道の駅に寄ったが、自宅周辺のスーパーにはない海産物が安くてたくさんある。ワカメやメカブを持って帰れるだけ買ってしまった。


大槌町から県道35号釜石遠野線に入ると周辺はすっかり雪景色。車の通行量も少ないためか、標高が上がってくると路面にもシャーベット状の雪が残っていた。目的地の橋野鉄鉱山は35号線から外れた場所にあるので、積雪で進入できないのではと不安になる。



釜石市橋野鉄鉱山インフォメーションセンターは県道から約1km外れた場所にあったが、道路は除雪されていて心配はなかった。こんな天気のためか、来館者は自分達だけだ。

センターで案内ビデオとパネル展示を見ることができた。明治日本の産業革命遺産として世界遺産に登録された8つのエリアを紹介しながら、その中のの一つがここになることから説明が始まる。

幕末の安政年間、この場所に南部藩が製鉄用の高炉を3基築いて操業を始めた。中心となったのは南部藩出身の大島高任で江戸や長崎、大阪で冶金学や採鉱の技術を学び、水戸藩での反射炉建設や、ここ橋野から山を隔てた南にある甲子村大橋で既に高炉の建設に携わっていた。

36年間操業して明治27年には休止となり、数キロ東の栗橋で新たな高炉での操業が始まったが、燃料となる木炭を供給するための木材も枯渇してきていたのでは想像される。

3基の高炉跡を見るためセンターを出たが、遺跡の入り口からは新雪が10cm近く積もっていた。





センターを出る時にスタッフの方がゴム長を貸しましょうかと言われたが、ワークブーツを履いていたので大丈夫ですと断ってしまった。ちょっと後悔する。



入口から右奥にある一番高炉跡を目指して雪の坂道を登り始めた。自分以外の足跡は途中で折り返していて、真っさらの雪道を独り占め状態になった。





高炉のそばまで行きたいが細い水路にかかる橋が雪に埋もれて渡るのが怖く、遠くから眺めるしかない。

坂道を戻って左手にある3番高炉の方角を見ると雪が更に深く積もっているようで、オマケにブーツの中には雪が進入してきて具合が悪い。炭焼き窯の跡なども見たかったがここで断念。

先月に訪ねた大板山たたら製鉄遺跡や奥出雲地方のたたら製鉄は砂鉄が原材料だが、ここ橋野は近くで採掘した磁鉄鉱石を使っている。その採掘場はアクセスに難があるためか公開されていないが、公開されれば見てみたいものだ。

また、ここで使われた原材料の一つに餅鉄と呼ばれる石がある。センターに数個置いてあったが、黒っぽくて鉄の含有量が多いため重たい。川原で採取されたのだろうがお餅のように丸くなって角が全くない。村民たちが川で拾い集めた餅鉄を鉱山で買い取っていたらしい。


今回の岩手の旅は天候に恵まれず、予想外の雪になってしまったので、見残しがたくさん出来た。橋野から山を隔てて南側には釜石の鉱山跡があるが、次に来る機会があればそちらにも足をのばしてみよう。

昨年より2週間遅いコシアブラの収穫

2019-04-18 21:10:34 | 日記
近くの山、と言っても自宅からスクーターで15分位の場所から更に10分位登ることになるが、コシアブラを採りに行った。昨年も記事にしたが、その画像の日付を確認すると今年は13日も遅くなっている。



コシアブラはソメイヨシノの花が散って葉が目立ち始める頃で、八重桜が見頃になる頃が収穫の時期だ。熱湯でサッと湯がいてポン酢で食べたが、口に入れると鼻にスッと抜けるような独特の香りが堪能できた。

実は5日前にいつもの仲間と琵琶湖西岸の山に山菜狩りに行ったが、コシアブラは全く芽を出していなかった。かろうじてタラの芽を採取できたが、今年は4月になっても寒波があった影響だろう。



採取できたタラの芽は少なかったので定番の天ぷらは止め、オリーブオイルで炒めて生姜とチーズでまとめてみた。因みにごはんは近くで手に入れたタケノコで炊き、みそ汁と卵焼きには岩手三陸の山田町で買った生ワカメがたっぷり。


ところで、山の中でコシアブラを探しながら気が付いたが、昨年の台風21号の強風による被害が酷い。沢山の折れて落ちた枝ばかりでなく、強風の通り道になったためか尾根のいたるところで根こそぎ倒された木を見た。





あのような強烈な台風が今年は来ないことを祈る。




みちのく岩手の旅(2)三陸沿岸の浄土ヶ浜にあった宮古湾海戦記念碑

2019-04-16 12:11:58 | 旅行
4月11日朝の盛岡市内は小雨がぱらつき、盛岡城跡の草むらには夜間に降った雪がうっすらとシャーベット状に残っていた。屋根に雪を載せた車も何台か走っていて、周辺の山間部では積雪がありそうだが、天気予報ではゆっくりと回復してゆくとのことだ。

借りた車にはスタッドレスタイヤが装着されているが、なるべく雪道は走りたくない。30代半ばまではスキーに出掛けることも多く、冬季になるとマイカーにはスパイクタイヤを履かせていたが、その後は雪道の経験も少ない。今では雪道を走ると緊張感でお尻がムズムズしてくる。

今晩は南花巻の温泉宿を予約しているが、龍泉洞から三陸沿岸に出て、大槌から遠野を経て花巻のコースを予定していた。ヨメの都合でホテルのチェックアウトが遅れたことと、雪になると走行ペースも落ちるので龍泉洞をあきらめて盛岡から宮古まで直行することにした。地図を見る限りではこの方が雪の影響も少ないように思えた。

盛岡を出て国道106号線を山間部にさしかかると周りは雪景色になってきた。しかしながら車の通行量は少なくないので道路上には雪が積もっていない。何とか峠も越え、106号線は閉伊川とJR山田線と並走するように宮古に向かって下っている。



東日本大震災とそれに伴う津波災害からの復興関連工事のためか、ダンプカーの通行量がやたらと多い。途中、国道の拡幅やトンネル工事を多く見た。

宮古市内を抜け、正午前に浄土ヶ浜に到着。生憎と小雨が降っていて、駐車場には観光客の車が数台。お台場展望台まで歩いてみた。





観光船や洞窟観光用のボートが見えたが、動いている様子はない。海の季節がやってくれば賑わうのだろうが、雪の降る4月に来る場所ではなかったようだ。



展望台までの途中に宮古湾海戦の記念碑を見つけた。戊申戦争の際、旧幕府軍艦隊の回天が宮古湾に停泊中の甲鉄を中心とする新政府艦隊に奇襲をかけた海戦だ。戦法はフランス語でアボルタージュ、敵艦に接舷して武装兵を移乗させて敵艦を拿捕することを目的にした攻撃で、元新選組副長の土方歳三もこの作戦に参加している。

結局攻撃は失敗に終わり、回天は函館に帰投するが、その後の函館戦争で焼失し、土方歳三は戦死。

以前、司馬遼太郎の「燃えよ剣」をはじめ、土方や新選組に関する小説や史書を何冊か読み、その中でアボルダージュの言葉も覚えたが、宮古湾に海戦の記念碑があることは知らなかった。作戦を提案したのが土方のように書いてある本もあるが、旧幕府軍に参加していたフランスの軍事顧問の発案とみるのが順当だと思う。

銃砲火を交えるだけでなく白刃を振るった海戦だっただけに剣豪土方歳三の存在が強調されてしまうが、実際の海鮮で彼の活躍があったのかは疑問だと思っている。