振り出しに戻る「落陽日記」

旅や日々の生活の一コマ。60代半ば、落陽期を迎えながら気持ちは再び振り出しに戻りたいと焦る日々です。

東一口の桜と排水機場のポンプ

2018-03-29 08:51:36 | 日記
今年の冬は例年にない寒さだったが生憎と最も気温が低かった時期は30日間のチェンマイステイだったので実体験はしていない。

その厳しい寒さのために桜の開花がこれまた例年にない早さで、まだ3月だというのに周辺にある桜が満開に近い。今週になってつぼみが一気に花開いた感じがする。





そんな中、自宅から4kmばかり離れた久御山町の東一口まで自転車で出掛けた。東一口と書いて「ひがしいもあらい」と読むが難読地名の出題にもなる場所だ。

ここは昭和初期に干拓された巨椋池の西端にあたり、干拓地の中心に作られた幹線排水路の両岸に桜の木が植えられている。排水路の南側には古くからの集落があるが干拓される前までは巨椋池で漁業を営む漁師町だったのだろう。


国道1号線と排水路が交差するあたりから下流にある前川橋までの数百メートルが一番見どころになる。排水路の北岸は古木の桜が並んでいるが南岸は何年か前に古木が伐採され、現在は若木が並んでいる。土手を歩いて桜を見るのも良いし水際の遊歩道を歩いて桜を仰ぎ見るのもまた良い。






前川橋から更に下流に数百メートル行くと排水路の水を宇治川に強制的に流出させる排水機場(ポンプ場)がある。画像の左側の建物がポンプ施設で建物の裏側は宇治川の土手になる。また宇治市の南部を流れてきた古川の水もここで合流し、一緒に排水されている。画像は排水路から古川への逆流を防ぐ水門の上から撮っている。

画像では建物前の遊水池が渇水期のため干上がっているが干拓地の水田に田植えの水がはられる頃にはここの遊水池も満杯になるだろう。





排水機場横の公園に古いポンプが展示してある。昭和9年に設置されたモノで平成17年まで稼働していたようだ。ポンプには荏原製造と刻印がある。





モーターも昭和9年製造で芝浦製作所の刻印があり、現在の東芝だろう。モーターのコントローラーもあるが電車のノッチと同じ構造のようでおもしろい。



再び前川橋に戻り国道1号線の下をくぐって排水路沿いに東へ進むと京滋バイパスと第2京阪道路を連結する久御山ジャンクションが見える。この地に転居してきて30数年になるが当時は田畑があるだけで京滋バイパスの工事が始まった頃だった。

桜は当時とあまり変わらないが巨椋池跡の風景は随分変わった。

まだ見頃の梅を見にバイクツーリング

2018-03-25 09:30:32 | バイクツーリング
今年は桜の開花が早いようで近くの神社や排水路沿いにある桜も開花が始まっている。月末には満開を迎えていそうだ。

そんな時期にも関わらずバイク仲間で月ヶ瀬梅林まで観梅ツーリングに出掛けて来た。いつものT氏、J氏以外に今月新車のスズキV-STROMを買ったばかりのK氏が参加。彼は10年前、同じ部門にいた後輩で今もバリバリの現役だが20年ぶりのマイバイクらしい。「バイク買いました」のメールをもらったので今日のツーリングを案内したら早速参加してくれた。



朝方用事のあるメンバーもいたので山城大橋東詰のセブンに集合したのは11時15分。R24を南下した後、木津川沿いに東進する。天気は良いが今日は車が多い。

月ヶ瀬温泉にある食堂で昼食と思っていたが満席で10組くらいの順番待ちのためあきらめ、隣接の売店で弁当を買い梅林に向かう。





品種によっては散り始めているがまだまだ見頃だ。観梅のピークは過ぎたと思うがそれでも人出は多い。



途中で弁当を食べ、梅林を一周して帰路についた。天気が良くて走行中も気持ちよく、初参加のK氏も喜んでくれたようだ。

伊賀上野からR422で信楽に抜けたのだが新ルートが開通していた。半年前にもバイクで走った道だがその時はクネクネの狭い山道を登っていた。それがほぼ全線、快適な道路が繋がったようだ。便利にはなったが、あのクネクネ道も懐かしい。帰宅してグーグルマップを検索したが未更新で旧道でしか表示されていない。

飛行機から見えたま~るい砂洲は海南島

2018-03-19 16:37:12 | 旅行
今年1月、香港からチェンマイに向かう飛行機から眼下に見えたま~るい砂洲(島?)。



既にブログにUPしたが機内モニターがついてなかったのでどこら辺りを飛んでいるかわからず、頭の中で地図を想像して海南島あたりかと思っていた。

1ヵ月のチェンマイステイの後、帰国便も香港経由だったのでベトナムを横断して南シナ海に出たころからずっと窓の下を眺めていた。飛行機は行きと同じエアバスA320だったが新しい機材のためかモニターも付いていたので飛行マップを確認できた。



帰りもほぼ同じコースを飛んでいるようで海南島と中国大陸の間にある海峡を抜けるころにま~るい砂洲が見えて来た。まん丸ではなくて巴模様のような、魚のエイが体をひねっているような。

恐らく海峡を流れる潮流の関係であのような形になるのだと想像するが、潮位によっては水没しているのかも知れない。建物もあるのかどうかよくわからない。

帰国してネットやグーグルマップ、中国の地図などを調べたが砂洲は載っていない。海峡は瓊州(ケイシュウ)海峡、チュンチョウ海峡で幅は30Kmとあるが砂洲は海南島の海口市の海岸から恐らく数Kmもないであろう。上空から見るとおもしろい形に見えるが陸地から見たのではでは単なる砂洲でしかなさそうだ。

海南島と言えば自分の場合は鑑真和上が日本渡海の際に暴風で流されて漂着した場所だと思いだすが最近はレジャーアイランドとして観光の名所らしい。ネットを見ていると今年2月末には海峡に長期間濃霧が発生してフェリーが出せず、春節で観光に来ていた車など1万台以上が島内に足止めをくったそうだ。

東京世田谷の松陰神社

2018-03-18 16:52:39 | 旅行
山口県の萩市にある松陰神社と松下村塾には修学旅行を含めて数度訪れているが、東京にも松陰神社があることを知ったのは最近のこと。ある書物を読んで知ったのだが松陰を埋葬した墓もあると言うので一度行ってみることにした。

渋谷駅のバス停から三軒茶屋経由のバスに乗ったが松陰神社前と言うバス停まで20分くらいだった。グーグルマップで検索しながら東急電鉄世田谷線の松陰神社前駅の横を通り商店街を抜けると神社はあった。



幕末時には毛利藩の別邸があった場所で当時は一帯が田畑と雑木林だったと想像されるが現在は住宅の街だ。





安政の大獄に連座して斬首され伝馬町に埋められた松陰の遺体を数年後に高杉晋作や桂小五郎が掘り起こし、この場所まで運んで埋葬し直したことは知っていた。その場所が後に松陰神社として整備されていたのを知ったのが最近だ。





萩にある松下村塾の「模造」まで建ててある。





松陰の墓は神社の脇の方にある鳥居の奥にあった。松陰の墓に並んで同じく大獄で斬首された頼三樹三郎、小林良典、それに松陰の友人、来原良蔵の墓がある。鳥居は維新後に木戸孝允が建てたとか。

また、禁門の変で朝敵にされた長州藩の江戸にあった屋敷は幕府に接収され、拘束されて諸藩に預けられた長州藩士はその後の過酷な扱いで多くが亡くなったらしい。接収時に憤死した藩士を含めて彼らの供養碑も建っていた。

本殿の周囲には沢山の石灯籠が並んでいた。刻まれた文字が読みにくいが伊藤博文や山縣有朋など松下村塾の子弟たちの名前があるようだ。



神社を出て右手に曲がると若林公園がある。そこには松陰の墓よりも大きな墓石が建っていたが後に総理大臣を務めた桂太郎の墓だった。死んだら松陰の墓の近くに埋葬してくれと言っていたそうだが少し大きすぎないか?



桜のつぼみの先が割れ始め、ピンクの色が漏れている。来週には咲き始めそうだ。