外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

福沢諭吉の愉快な英語修行 10/10

2019年07月01日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

福沢諭吉の愉快な英語修行 10/10

★『文明論の概略の冒頭部分』の分解(『福沢諭吉の見事な論理とレトリック』)は、「言葉について。英語から国語へ」のセクション。以下を参照。5章あります。:

https://blog.goo.ne.jp/quest21/e/15c12cfd61558c7d21d2e15b97e6bf89

諭吉の愉快な英語修行 その1へ

前回(福沢諭吉9)

長い間をおいて、諭吉さんの英語修行、最終回に至りました。この間(かん)、言うことが無くなったからだと思う方もおられるでしょうが、実情はさにあらず、福沢テーマはあまりに広がりすぎて言い切れなくなったからです。いろいろな側面についてはこれから別のコラムで扱うことにして、今回、幕末期の一青年の外国語体験を振り返ることで、私たちの外国語学習についても考えたいと思います。

■伝わってこそ

大阪の緒方洪庵の適塾にいたころ、「バターのような」という比喩をオランダ語の「ボートル」を使う代わりに「味噌のような」と訳すことをためらわなかったことについて触れました。緒方は「蘭学者は概して、「正確に」ということばかりに捉われて、原文を対照しなければ意味が分からないような和訳を行っている始末だ」ということを言いましたが、ここに、緒方から福沢に至る系譜を見ることができるでしょう。外国語を学ぶことが言語というコミュニケーションの手段の学習だということを忘れて内輪のあらさがしになってしまっているのは、江戸時代だからでしょうか。今の大学での語学教育もこの弊なしとはしません。「誤訳がない」ことは大切ですが、「誤訳がなければいい」という十分条件のように思っているようだと、私だけでなく、友人の語学教師もため息をついています。諭吉は原稿が書きあがると印刷する前に、家の子供、婦人らを集め朗読して分かったかどうか確かめたと言っています。「分かってなんぼ」という語学教育の礎をその後も日本人は身につけたかどうか、考えさせられます。

■目的のない学習

大阪の適塾では、塾生は目的を持たずに学習に励んだことがよかったと述べています。「目的を持たず」と言っても、言語が伝達を目的とするということを忘れるという意味ではありません。江戸で蘭学を学べば、幕府に取り立てられるなど出世の機会があるのですが、大阪ではそのような見込みは考えられない。ただただ、塾生どうしが毎度の会読で己の力を競い合い、当時の学問の最先端に触れることに得意の面持ちだったようです。今言う、「どや顔」ですね。その「ストレス」をとんでもない悪戯で発散していたのもおかしいですが、その結果、ファラデーの電気理論など共同で訳しながら概略を知るに至ったのはめでたいことです。今日、英語学習は試験目的から抜け出すことができたでしょうか。大学受験の英語については今年などとやかく言う議論がありますが、だからと言って、英検、TOEICをにすればよいという程度の議論を越えたものではなさそうです。若い人間は、外見的な「目的」がなくても、本質を目指して情熱を燃やすことができます。むしろ試験、出世、金が絡むと情けないとも思います。語学に限らず若い日の学業の柱はこの「無目的性」にあるのではないでしょうか。語られることが少ないこととです。こんなことを言うとそれは一部のエリートにのみ言えることに過ぎないという反論があらかじめ用意されたように戻ってきます...。福翁自伝を読んでつくづく考えました。

■言葉の外へ

語学の学習はその言語の向こうにある知識への渇望なしに成り立つでしょうか。電車のなかで、赤い下敷きを使って英単語を一生懸命覚えている高校生を見ながら思うことです。果たして彼らが外国語で書かれたものをむさぼるように読むことがいつか来るのだろうか。ま、若い人のことですからこれからのことは分かりませんが、諭吉の、理解しようとする情熱は、当時の人としても、比類のない、という境地に達していたのではないでしょうか。諭吉だけではなく、福地桜痴など、オランダ語と英語を解する数人の人間が幕府によってアメリカと欧州に派遣されましたが、『西洋事情』をはじめとする多くの著作を続けざまに書き上げ、出版できたのは諭吉だけでした。それらは大変なベストセラーズになり諭吉に巨額の富をもたらしました。本人は全集の緒言で『西洋事情』などは浅薄なものだと書いていますが、売れに売れた理由の根幹には新知識への渇望を著者と読者が共有できたからにちがいありません。アメリカで郵便制度か為替制度について分からないので、向こうの人を引き留め1時間も2時間も訊いた挙句腑に落ちたそうですが、そのとき、「前に来た日本人は半日も訊いて、結局分からないで帰って行ったが、あなたは理解が早い」、と言われ赤面したと述べています。知りたいという強い意志が、向こうの人のふとした一言をきっかけに顔を赤くさせたのでしょう。外国人と見れば背伸びしたり、逆に卑屈になったして、知識欲が委縮するというような感情に捉われていないことが分かります。

■その後の福沢さん

万延元年(1860年)の咸臨丸渡米のあと、幕府に雇われ、文久二年(1862)に一年かけて欧州旅行、慶応3年(1867)、つまり明治元年の前年に米国ワシントンまで旅行、どちらも公務でしたが、その成果が先に挙げた『西洋事情』をはじめとした著作に結実します。英語力も読む方は、たいへんとは言えませんが、かなり上達して、慶應義塾を通じて日本の英語教育の普及に寄与します。福沢のあと、伊藤博文や津田梅子など、福沢を越えた英語力を持つ人が現われますが、急速に英語が専門家のものになっていきます。一方、試験中心の学校英語も広がりだし、漱石のころにはその弊害もすでに表れているようです。漢文の世界から飛び出し、オランダ語、そして英語という、西洋の言葉に素人として取り組む新鮮さが次第に薄れていったのではないでしょうか。そんなことを考えながら『福翁自伝』を紐解くと、外国語学習の持つ元来の新鮮さを思い出させてくれます。

ついでながら、しばらく前にアップロウドした諭吉の英文手紙をリンクしておきますので、ぜひ見てみてください。前回、指摘しなかった、「間違い」は以下の二点。たしかめてください。

⓵ baggage(荷物)が可算名詞として扱われている点。bagは可算名詞ですが、baggage / luggageは不可算名詞。

⓶ 現在完了形が、過去の一時点を明示してある文で使われていること。どうも、オランダ語では現在完了形がyesterdayのような過去を明示した表現といっしょに使えるようです。

ろくな辞書もなかったと思われるインドの港に停泊中の船中で、英語学習開始後3年でここまで来たのだなあと、歴史上の人物ながら共感のごときものを感じます。