C・バーナード「英会話なるものは存在しない」の痛烈な皮肉
(この記事、2018年9月に小見出しを付けました)
昔から、日本人ねたのジョークというものがたくさんあって、そのなかでも特に有名なのは以下のものです。
船が難破して、船長は乗客に船から海へ飛び込むよう要請したい。ドイツ人、アメリカ人、イギリス人、フランス人、日本人の各乗客に船長はなんと言うか。
ドイツ人には、「命令だ、飛び込め」と言う。イギリス人には、「紳士なら飛び込め」という言う。アメリカ人には、「保険に入ってるからだいじょうぶだ」。フランス人には、「飛び込むな」。日本人には「皆さん飛び込みましたよ」。
英会話ジョーク
英語関連でも、いろいろあるようですが、昔、アメリカ人から英語を習っているとき、「君は、英検一級を取っていないから英語を話す資格ないのだ。」などというのが受けていました。
辞書学者のクリストファー・バーナードさんの、「英会話なるものは存在しない」というのもそうとう痛烈なジョークです。しかし、あまりに痛いところをついているので、その真意を理解しない人も多いようです。なんでおかしいの、という反応が返ってきそうです。
ジョークがなぜおかしいのか説明するほどユーモアのセンスが欠けている振る舞いはないと承知しながら、説明を試みましょう。この説明は、統計的、実証的なデータに支えられているものではないですが、私も数十年日本国に暮らしている経験から或る程度信憑性はあると思います。
福沢諭吉の時代の英語学習
遡ること150年、福沢諭吉たちが、オランダ語を捨てて、英語の学習に没頭していた頃のこと、言語、または言語学習は、読む、書く、聴く、話すの4つから成り立っていて、相互に関連するという常識は生きていました。それら4つのうちから、その時々の必要に合わせて軽重を考慮して学習していたようです。
リーディング中心の英語学習へ
明治期になってからは、工業、軍事の急速な成長を達成するために、ともかく英語を読む必要がありました。ですから、大学へ進む当時のリーダ(leaders)たちはリーディング(reading)を中心にしたのです。『我輩は猫である』の主人公の苦沙弥先生も「リッドル」の先生でした。必要があってリーダー(reader)を中心にしているのであって、必要とあらば英語を書くし、聴き、話すこともするでしょう、という常識は働いていたと思います。「英会話」がなにか特別なものという意識はなかったのではないでしょうか。
戦後の大衆的英語教育も明治期のまま
ところが、大学へ入る人の数が第二次世界大戦後、爆発的に増えたにも拘わらず、大学での英語は富国強兵時代のエリート教育のままでした。ということは、大学入試もリーディングが中心で、それが高校、中学へも広まっていくということを意味します。あるときまでの受験生は、学問習得のためだからリーディング中心の試験は当然だと思っていたし、外交官や商社員になる人は口語も学びました。単に用途が違うということで、相対的に見ていました。
苦行としての英語学習が生み出した錯誤
ところが、「爆発的増加」というのは社会に何も起こさないということの方が不思議で、「英語学習」にもおかしな変化がおきたようです。それは、教育のあまり高くない社会層(ま、私の場合のような)から急速に高等教育に参入してきた人々、つまり大半の大学生などに見られたのです。それは「英語」というものはなんだか難しいが、大学受験に必要なものだから学習するというものです。そこには、海外の文献を読むためという意識もなければ、さらに、英語が言語、つまり意思伝達の手段(言語にはそれ以外の目的もありますが...)だという意識もなかったようです。
せめて、英語が言語だという意識があれば、文字と音声はちがうけれど両方大事だよね、という意識が生まれるのでしょうが、大学受験のための苦行としか考えていない人たちにとっては、「では英語で話してください」と言われると、今までの「苦行」はなんだったのか、というある種、"resentment"(憤慨)のような感情が生まれます。「6年間学んだのに話せないとは何事だ、○○のせいだ」という巷間、よく口にされる言葉に代表される意識です。
そういう人たちは、基本的に書物を読むという習慣もあまりないので、文字であれ、口頭であれ、何かを伝えるため、理解するため手段だという意識が乏しいです。「英会話」というのは、「学校で教えない」、全く異質な、ある能力であって、これまた、金を出し手に入れないと生活に差し支える、という目で見る傾向が強くなってきたのです。皮肉を言って申し訳ないですが、そういうふうに思う方は学校で英語をちゃんと学んでいなかった人が多いように思います。
バーナードのジョークの意味
じつは、バーナードさんが指摘しているのは、このような日本的な、特別な「英会話」のこと、あるいは、口語英語に対する日本人の屈折した態度のことです。利に敏い商売人が、「英会話」というだけで商売になるということを悟るには時間がかかりませんでした。言語教育は、元来とりわけ商売のねたになるような性格のものではないのですが、日本人の弱みにつけこんだ(若干、差しさわりがありますが)というわけです。このコンプレックスがある限り彼らはお金を儲けることでしょう。たぶん、そのような商売人はそのことを自覚していると思います。「日本へ行けば、浮ついた宣伝でどしどし儲かるよ」、と。その意味で、じつは、バーナードさんの、本質をついた言葉は、彼らにとって迷惑千番でしょう。バーナードさん、駅のホームに立つ時は最前列はよしましょうよ。あ、ちょっと言い過ぎましたか。