プリメイラ Honolulu

袰岩奈々のホノルル・カフェぶらぶら日記。
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「質問する」ということ

2019-03-01 07:57:05 | 考えたこと
ときどき、一体、その質問は何のため?
と感じることがある。

本当に聞きたい、という質問はわかる。
それに対して答えることができるし、
もし、答えたくないときには答えないこともできる。

遠回しな批判、という時もわかる。
「どうして○○しないの?」
みたいな質問。
「〇〇嫌いだから」みたいに答えてもいいし、
「え、〇〇しないとダメ?」みたいにも答えられる。

けれども、その質問は何のためだろう?
って感じる謎の質問がある。
社交のための質問、みたいなのかな。
質問した側は本当に聞きたいわけではないし、
質問の意図をあれこれ推測しながら
「何が聞きたいのかなぁ」と思いながら
答えてみる。
なのに、聞き手はすでに興味を失っているらしく、
その答えに対する反応は薄い…みたいな。
言葉のやり取り、会話としては続く。
ただ、質問された側はどこか虚しい。

質問をするということは、そのあとの展開に
自分が責任を負う覚悟がいる、と何かの本で読んだ。
カウンセラーとして仕事していると、
まさしくその通りだと思う。
「なぜ、その質問が自分に湧き上がったのか」
「その質問は自分のためか、自分と相手の関係や相手のためか」
「その質問は相手にとってどのように伝わる可能性があるか」
「その質問はどのようなやり取りに広がる可能性があるか」
質問するときはこれらを感じたり、考えたりしてから。
なので、日常でも「質問する」ということについて、
自動的にあれこれ考える癖がある。

家族に対しては、あまりこの癖は起動せず、
批判としての「なんで」を多発しているが。

キッズハートツーでのファシリテータートレーニングでは
リフレクション(その場での子どもの取っている行動、
自分が見たり聞いたりしたことをナレーション
するように、言葉にして伝える)を中心にした関わりを練習する。
トレーニングの中で、相手へのメッセージの中に
いかに自分の思いや希望や解釈が入り込むかに気づく。

質問は自分の理解や思いや希望や解釈とのズレの中で生まれる
大事なものだ。だから、ちゃんと質問がわいてくるのを待ち、
相手の答えにしっかと耳を傾けたい、というか傾けて欲しい、
傾けてくれるといいなぁと、一生懸命、答えているのに
相手の関心が次に移ってるってことに気づいた、
なんてときには思うのでした。





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