内田先生の本の「自虐史観と戦後責任論」で
戦争を語るときに『「検察官」的なエートスに身を委ねたくない』と
あるところ。
あ~、私のなかでときどき出てくるあの感情は、
「検察官的なエートス」と名づけるといいのだな~と
何か問題が起こる。日常的にも仕事やカウンセリングのなかで
相談として扱われることごとなどのイメージでもいいのだけれど。
そうすると、どうしても「悪者探し」をしたくなる傾向がある。
「あいつのせいだ」
「あの出来事のせいだ」
とか
「学校のせいだ」
みたいに。
そうすると、怒りの持ってき場が見つかってちょっと
ほっとしたりすることもある
だけど、あるひとつのことだけが原因になっていることは少なく、
原因が見つかったところで解決にはつながらないことも多い。
原因探しが必ずしも、ものごとがいい方向へ動くことに
つながらない場合もある。
それでも「検察官的エートス」が発動しそうになることが…。
このエートスとの折り合いがうまくいくと、もうちょっと平安な
毎日が訪れるのかもしれないな~
そうそ、成熟についての言及も多くて、面白いです。
「成熟には少なくとも同性の2人の価値観を異にした親族が必要」
という内容に、ふ~む、そうなのか~、と
ず~っと前に買って、積読になっていた人類学系の本も
ひっぱり出してみましたが、なかなか読解困難であります
話はとんで「日出処の天子」のなかで厩戸王子と毛人とが組めば
世界を掌中にできるってところで、
毛人が「これはやってはいけないこと」と言うのが印象的。
これって「ためらいの倫理学」かな?
戦争を語るときに『「検察官」的なエートスに身を委ねたくない』と
あるところ。
あ~、私のなかでときどき出てくるあの感情は、
「検察官的なエートス」と名づけるといいのだな~と
何か問題が起こる。日常的にも仕事やカウンセリングのなかで
相談として扱われることごとなどのイメージでもいいのだけれど。
そうすると、どうしても「悪者探し」をしたくなる傾向がある。
「あいつのせいだ」
「あの出来事のせいだ」
とか
「学校のせいだ」
みたいに。
そうすると、怒りの持ってき場が見つかってちょっと
ほっとしたりすることもある
だけど、あるひとつのことだけが原因になっていることは少なく、
原因が見つかったところで解決にはつながらないことも多い。
原因探しが必ずしも、ものごとがいい方向へ動くことに
つながらない場合もある。
それでも「検察官的エートス」が発動しそうになることが…。
このエートスとの折り合いがうまくいくと、もうちょっと平安な
毎日が訪れるのかもしれないな~
そうそ、成熟についての言及も多くて、面白いです。
「成熟には少なくとも同性の2人の価値観を異にした親族が必要」
という内容に、ふ~む、そうなのか~、と
ず~っと前に買って、積読になっていた人類学系の本も
ひっぱり出してみましたが、なかなか読解困難であります
話はとんで「日出処の天子」のなかで厩戸王子と毛人とが組めば
世界を掌中にできるってところで、
毛人が「これはやってはいけないこと」と言うのが印象的。
これって「ためらいの倫理学」かな?