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アフガン拉致 何よりも治安の確保だ

2007年08月30日 | スクラップ
2007年8月30日


 アフガニスタンの旧政権タリバンによる韓国人拉致・殺害事件はようやく人質解放の運びとなった。一日も早く全員の無事な姿を確認したい。だが、これまでのタリバンの残虐な行為は許せない。

 韓国大統領府は、アフガン駐留の韓国軍の年内撤退とアフガン内でのキリスト教宣教活動中止を条件として、十九人の人質全員を解放することでタリバン側と合意した、と発表した。現地からの情報によると、全員解放には「技術的な問題」でなお数日かかるという。

 医療奉仕活動などを目的にアフガン入りした韓国人の二十三人は、先月十九日に東部ガズニ州でタリバン勢力に拉致された。タリバン勢力はその後、牧師ら男性二人を殺害する一方で、女性二人を解放した。

 残る十九人は一カ月以上にわたり劣悪な条件下で軟禁生活を余儀なくされ、その健康状態が懸念されている。双方が今回の合意を速やかに誠実に実行し、全員の元気な姿を見せてもらいたい。

 タリバン勢力はこれまで、アフガンに駐留する米英軍の撤退や収監中のタリバン兵士の釈放などをアフガン政府に要求し、そのための手段として、アフガン再建支援に尽力する国連、各国からの非政府組織(NGO)メンバーらへの拉致、誘拐、殺害を行ってきている。

 今春にはイタリア人人質が解放されているが、いまなお、ドイツ人技師らはタリバン勢力に拘束されたままだ。タリバンの残虐行為を見逃すわけにはいかず、国際社会は決して容認しない。重ねて、人質の即時解放を求める。

 韓国人拉致・殺害事件は、カルザイ・アフガン政権の苦悩を表すものといえよう。アフガンの復興・再建には国際社会の支援が不可欠だ。(にもかかわらず)アフガン内外の力を結集すべきときにタリバン勢力の攻勢により、国際支援要員の安全は脅かされ、十分な援助がしたくても支援の手が届かないという悪循環に陥っている。

 カルザイ政権にとって、治安の確保が急務であり、重大な責務だ。タリバン勢力の拡大を防止するために国軍、警察力の拡充を一層加速させるとともに、地方勢力を説得し、中央・地方の強固な協力態勢をつくることが必要だ。

 それと同時に、国連や国際機関、日本、欧米諸国などにはアフガンへの復興支援が望まれる。

 米中枢同時テロ以来、国際社会は「テロとの戦い」を余儀なくされている。アフガン再建の成否が今後の世界を占うカギの一つであることは間違いない。




東京新聞
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ルナのセルフコメント (ルナ)
2007-08-30 23:05:02
わたしがエホバの証人だったとき、エホバの証人による「家庭聖書研究」に応じてくださっていたある「研究生」の方からこんな質問を受けたことがある。

「国旗掲揚に参加しなければ、クラスの子どもの誰かを殺す」という要求が行われたら、エホバの証人はどう応じるか、というのだ。エホバの証人は、聖書を原理主義的に解釈する。聖書の字句を一字一句「文字通り」に受けとめ、それを戒律として守ろうとする。聖書には「偶像崇拝をする者は死に処せられるべし」と書かれている。エホバの証人は国旗掲揚に参加することを、この「偶像崇拝」の罪に相当すると解釈する。

さて、国旗掲揚しなければエホバの証人とは何の関係もない、ある子どもを殺すと脅されたら、エホバの証人はどう反応するだろうか。自分たちの信仰を貫いて、代わりにその子を犠牲にするか、その子を助けて、戒律を破るか。

わたしは会衆の(教会の)教師に相当する立場の「奉仕監督」に相談した。彼はこう言った。「その子が殺されるとしたら、責任を問われるのは、信仰を貫いたわたしたちではなく、理不尽な要求をしたその殺人犯のほうです」。彼ならその場でどう行動するかについては彼は答えなかった。エホバの証人お得意の煙に巻く回答である。

人殺しが行われれば、その殺人者が罪に問われる。それは当然だ。しかし、ここで問われているのは、自分たちの信仰を擁護するために、むざむざ信仰を同じくしない他者を死なせることができるかどうか、ということである。わたしは、といえば、とてもそんなことはできないな、と思った。エホバの証人は、神の働きによって人間がこの地上にもう一度生き返るという教理を信じているので、彼ならひょっとして見殺しにすることを正当化するかもしれない。

さて余談が長くなったが、少なくともテロ行為に際しては、まず第一にテロ行為が最も責められれるべき卑劣な行為である、という見方は道理にかなっている。これはわたしもそう思う。ところが日本人の中には、この度のような、国際援助に参加するほうをいまだに責める向きがある。余計なおせっかいをするから、こんな問題を起こすのだ、と。

なぜ、テロリストの卑劣な行為を正面から問題にしないのだろう。なぜ政府の方針を少数民間人が変えてしまう事態を嫌悪するのだろう。戦争に参加して人殺しをする「集団的自衛権」行使なら許すのに、どうして民間人への援助なら、ヒステリックに責め立てるのだろう。

これは自己嫌悪の裏返しではないかという、わたしの想像を皆さんはどう思うだろう。無為に、そして無関心に日々を送っている自分の無力さ、浮き草のような自分たちの弱さへの怒りが、自分を責めないで、勇敢に行動する彼らのほうに向かうのではないか、というわたしの想像を…。

自分の意見や意欲があっても、上の者から恫喝されれば簡単に引っ込んで、すごすごと言いなりになる自分の情けなさへの怒りを、自分を全うに主張して生きている人たちのほうを責めたてて、自分の顔を立てようとしているのではないだろうか、日本人は…。

これはとても健全な精神じゃない。恥ずかしいことだと思う。
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