智仁親王は細川幽斎から古今伝授を受け、古典に
造詣が深く、教養と雅趣を備えた文化人でした。
ここ開田村が八条宮家の領地となってから開田
天神の社殿や池の整備が始まりました。しかし、志
半ばにして寛永6年(1629)智仁親王が亡くなります。
その意志を引き継いだのがもう一人の主役、第2代
八条宮智忠(はちじょうのみやとしただ)親王です。
桂離宮の造営とともに同じ庭師を使って開田御茶屋
(山荘)の造営にも取り掛かります。
(古今伝授とは、平安期に成立した古今和歌集の読み
解き方を一子相伝で受け継ぐための講義で、細川幽斎
は公家の三条西実枝から居城の勝龍寺城(長岡京市
勝竜寺)で古今伝授を受けました。)
ーつづくー
造詣が深く、教養と雅趣を備えた文化人でした。
ここ開田村が八条宮家の領地となってから開田
天神の社殿や池の整備が始まりました。しかし、志
半ばにして寛永6年(1629)智仁親王が亡くなります。
その意志を引き継いだのがもう一人の主役、第2代
八条宮智忠(はちじょうのみやとしただ)親王です。
桂離宮の造営とともに同じ庭師を使って開田御茶屋
(山荘)の造営にも取り掛かります。
(古今伝授とは、平安期に成立した古今和歌集の読み
解き方を一子相伝で受け継ぐための講義で、細川幽斎
は公家の三条西実枝から居城の勝龍寺城(長岡京市
勝竜寺)で古今伝授を受けました。)
ーつづくー