長岡京市観光協会のブログ

長岡京市の出来事を紹介します。

長岡京市の民話・お地蔵さん

2015年07月09日 | 民話






長岡京市の南の竹藪の近くに20体以上のお地蔵さんと呼ばれる石仏があります。

近くに住む人々には、石仏に拝めば、病気を治してもらえると信じられています。

昔、子共が大変な病気にかかりました。お医者さんは何もできませんでした。

子共のお母さんは大変心配しました。人々の病気を治してくれるという、

お地蔵さんの話を思い出しました。それで、娘のために石仏を拝みました。

昼も夜も祈り続けました。すると、驚いたことに、

娘さんの病気は良くなり始めました。とうとうすっかり良くなりました。

お地蔵さんは、人々を助けると言う仏教の守り神です。

頭がつるっとしたお地蔵さんは、特に子ともたちや旅人を

守ってくれると言われています。(長岡京市昔話より)


長岡京市の民話・台座のない仏像

2015年06月30日 | 民話


大雨の後、村人が小畑川の所に泥にまみれた仏像を見つけました。

綺麗にしてみると、その仏像が薬師如来像であることが判りました。

薬師如来像は病気の人々を救う仏さんと信じられています。左手には

薬の臺を持っています。病気を治す力を持っていることを示しています。

村人たちは、その像を自分たちのお寺である潤福寺に持って帰りました。

でも、どうして仏像がそこにあったのか不思議でした。それは京都の

広隆寺の有名な仏像でした。多くの人々や妊婦さんが元気になるように

元気な赤ちゃんを産めるように祈ってきたのです。あるおばあさんが

広隆寺を訪れてから、仏さんが長岡京にやってきたということです。

おばあさんは仏さんにお腹の大きな自分の娘の体の調子が悪いと話しました。

娘を助けるために一緒に来てほしいと頼みました。仏さんは助けに長岡京へ

行きたかったけれとも、残していく村人たちのことも心配でした。長岡京に

行っている間、病気を治す力を残しておくために、台座だけ残して行くことを

決めました。大雨でお寺が水つきになった時、仏さんは台座から離れて、

長岡京へ浮いて行きました。長岡京の人々がその像を見て、大変幸せに

思いました。その上、村人たちを助けるために、台座を広隆寺に残して

来たことも知って嬉しく思いました。村人たちはその仏像を敬って、修理をし、

金箔を塗りました。潤福寺はJR長岡京駅から歩いて10分の所にあり、

1394年に伯英によって建てられました。臨済宗のお寺です。

                 (長岡京市昔話より)


長岡京市の民話・雷の神様の神社

2015年06月22日 | 民話






日本の神話によりますと、建角御命(たけつぬみのみこと)という

名前の力のある神が住んでいました。京都の北山の近くに娘の玉依姫

と一緒に住んでいました。ある日、玉依姫が賀茂川のほとりで遊んでいると、

赤い矢が上流からまっすぐ流れてきました。矢が止まったので、拾って家に

持ち帰りました。夕方遅くなって、不思議な神のお告げを聞きました。

もうすぐ赤ちゃんがお腹に宿るというのです。数カ月経って、素敵な男の

赤ちゃんが生まれました。建角御命は赤ちゃんの父親が誰かを調べるために、

近くに住んでいる若い神様を沢山呼んでパ-ティをすることにしました。

パ-ティは7日間続きましたが、誰が父親かまだ分かりません。それで

赤ん坊に父親を見つけるように頼むことにしました。そうすれば祝拝の酒を

注げるからです。赤ん坊はその希望を聞くなり、空を指さし、自分の父親は

雷神だと言い張りました。突然、稲妻が光り、雷が鳴り響きました。

赤ん坊が宙に浮き、御殿の屋根を突き破って飛び上がってしまいました。

空に消えて、二度と会うことは出来ませんでした。

いく日も時が過ぎ、お母さんの玉依姫は大変、悲しみました。

もう一度、息子に会いたいというのです。やがで、いなくなった息子を祀って、

京都の北に下鴨神社を建てました。神社ができてから、玉依姫は夢を見ました。

夢の中で、赤ん坊はお父さんを祀る神社も建てで欲しいと頼みました。夢から

目覚めて、息子だけに神社を建てるのは公平でないと気が付きました。

それで、息子のちちのために別の神社を建てることにしました。神社を建てるのに

最も相応しい所を探しているうちに、乙訓の地にすることを決めました。

この神社は乙訓坐火雷神社(おとくににいますほのいかづちじんじゃ)と言われ

現在の角宮神社で、阪急電車の長岡天神駅から歩いて20分の所にあります。
                       (長岡京市の昔話より)


長岡京市の民話・柳谷の観音様

2015年06月20日 | 民話






桓武天皇は794年に都を長岡京から平安京(今の京都)に移しました。

当時、有名な清水寺が東山に建てられました。清水寺を造った延鎮は、

お寺の本尊として十一面観音像を祀りたいと思っていました。

毎晩祈り、やがで観音様のイメージを描く事ができました。

ところが、ある夜、えんちんは夢をみました。夢の中で、「もし、

西山を訪れたら、思いを叶えましょう。」と言う声を聞きました。

その時、暗闇を照らす光を見ました。その光は西山の方向を指して

いました。翌朝、えんちんは西山へ向かって旅立ちました。何時間も

歩いてから人里離れた森の中を彷徨いました。突然、柳の木の林から

光が差しました。光は柳の木を取り巻いて流れる小川の岩の所を

照らしているのです。その岩の上には十一面千手観音像が立って

おられるのでした。えんちんは像を拝んで、小さなお堂を建てました。

この仏さんは、柳谷観音と呼ばれました。「かんのん」は慈愛の神様の

ことで、「やなぎだに」は柳の木の茂る谷を意味し、当地の地名です。

数年後、延鎮は清水寺の観音様を彫るために京都へ戻って行きました。

現在、お党にご本尊として祀られている観音様は、今から、約850年前に

造られたものです。近年行われた修理で、像内から文書が発見されました。

その文書によりますと、1210年に近隣の村人達の寄付によって、修理が

なされたということです。(長岡京市の昔話より)


長岡京市の民話・今里の大塚古墳

2015年06月19日 | 民話




第2次世界大戦中、青年団員が食べ物を植える為に古墳の上に畑を作ろうと

言い出しました。近くに住む村のおじいさんは、「古墳はこの地域の守り神

がいる所だ。鍬を入れて、壊してはならぬ。」と注意しました。古墳を触った

者に悪霊が取りつくと信じられていました。でも、青年団員はこの忠告を無視

して、サツマイモの苗を植え始めました。しかし、収穫の前に青年団長は

重い病気にかかって亡くなってしまいました。今里大塚古墳は5世紀前半に

造られたものです。当時、乙訓全体を支配した豪族墓で、棺を納めた石室が

あります。(長岡京市の昔話より)