長岡京市観光協会のブログ

長岡京市の出来事を紹介します。

大山崎瓦窯跡

2020年06月16日 | 史跡

 

大山崎瓦窯跡が史跡公園として、

6月1日、天王山の登山口、山崎聖天の

入口向かい側にオープンしました。

平安京の成立ちを考える上で、特に重要な遺跡として

平成18年1月に国の遺跡に指定されています。

眺めも良く、とても広々とした美しい公園です

皆様の憩いの場になるといいですね

アクセス

住所  京都府乙訓郡大山崎町字大山崎小字白味才40番

JR山崎駅から徒歩8分、阪急大山崎駅から徒歩8分

※公共の交通機関をご利用ください。

※公園内に駐車場はありません。

開放時間

夏季 毎日

開園 8:00

閉園 19:00

 

 


史跡紹介:神足石仏群

2017年08月21日 | 史跡
JR長岡京駅西口から西国街道を南に行き、

歩いて5,6分ほどで見かける案内板。



その案内板を辿り、到着するのが、神足・古市共同墓地。

この墓地の中に神足石仏群はあります。

江戸末期、死後の恐怖から逃れたい庶民信仰から

造られたと伝えられています。

墓地を入ってすぐ右手にあるのが、

六体のお地蔵さん(六地蔵)。



死後の世界(六道)に現れて死者の生前の苦悩を

取り除く仏と言われています。

入口左側の一群は閻魔様を中心とした五王像。





冥途で死者を裁くといわれる十王のうちの五体です。


さらに墓地の奥には

阿弥陀如来座像と釈迦如来座像の2体があります。



中世からの庶民信仰では、死後の世界は

地獄絵に見られるように

とても恐ろしいところだったようです。

誰もが逃れたい地獄行き。

けれど、裁きの場に登場するこちらの

石仏群の表情はやさしい。

閻魔帳をもとに死者は生前の行いを

閻魔様に裁かれますが、

お地蔵さん達の救いを受け、

最後は如来にみちびかれ、極楽浄土に向かう。

そんなハッピーエンドのストーリーを

丸みを帯びた等身大の坐像群はイメージさせます。



小学校に隣接し、かつては夏休み時の子供達の

”肝試しスポット”でもあった(?)と伝え聞く

神足・古市共同墓地は、今は明るく開放的です。

西国街道とガラシャの地を歩く史跡巡りの一つとして、

立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

ただし日の明るいうちに




恵解山古墳は何色? ~ふき石のはなし~

2017年07月15日 | 史跡

(恵解山古墳)

青い空の下、恵解山古墳では緑色が

いっそう輝きを強めています。

恵解山古墳はみどり色のイメージがあざやかで、

「ケーキの店のぐち」さんが作っている

「古墳クッキー」も緑色を中心に再現されています。

クッキーは現在も絶賛販売中です!


(ケーキの店のぐち さんの恵解山古墳クッキー)

しかし、古墳のもともとの姿は緑色ではなかった、

と考えられています。

では何色でしょうか?

それは、白です。


(埋蔵文化財センターのパネル)

こちらは埋蔵文化財センターのパネルですが、

この絵のように、白い色の石で一面におおわれていたと

考えられています。

この石のことを、「葺石(ふきいし)」と言います。

現在の古墳も、一部分のみ、

ふき石が再現されているところがあります。


(恵解山古墳)

それがこちら前方部の階段のところです。

階段のまわりに、たくさんの石が敷き詰められています。

この石が、古墳の全面にあったんですね。

恵解山古墳を再現するにあたって、

ふき石の再現も検討されたそうですが、

長岡京市は「みどりのまちづくり」を推進しているため、

そのイメージに合うように現在の姿となったそうです。

やすらぎを与える緑色になった古墳は、

学校が近くにあることもあって、

子供たちが多く集まる場所となっています。

けれど真っ白な石でピカピカと輝くかつての恵解山古墳は、

圧倒的な存在感で見る人にせまってきたことでしょうね。


戦国の三傑と長岡京市

2017年05月12日 | 史跡
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康。

長い歴史をもつ長岡京市では、「戦国の三傑」として名高い

この三人に関連のある場所もそろっているんです。


(サントリービール工場)

サントリー〈天然水のビール工場〉京都ブルワリー。

実はこの場所は、豊臣秀吉に関係したところでもあります。

工場の敷地内には、「明智光秀本陣跡」の碑があります。

これは天下分け目の天王山の合戦のときのもの。

秀吉と戦った明智光秀の陣があったと考えられています。


(勝竜寺城公園)

光秀は敗戦して勝龍寺城に逃げ込み、

擁護を断られて北門から脱出しました。


(恵解山古墳)

なお近年では、光秀の本陣はビール工場内ではなく、

勝竜寺城公園にほど近い恵解山古墳に設けられていたのでは、

という説が出ています。


(乙訓寺)

ぼたんで私たちを楽しませてくれた乙訓寺は、

徳川家にゆかりがあります。



なんと本堂の屋根に、徳川家の葵の紋章が!

五代将軍・徳川綱吉の母・桂昌院が

乙訓寺をふかく信仰し、焼き討ちで荒廃したお寺の

復興に尽力したそうです。

焼き討ちをしたのは、織田信長。


(寂照院)

信長と関係があるのが、寂照院。

ここには、織田信長が一泊したという記録があります。

もしかしたらここで、乙訓寺の焼き討ちの作戦を立て、

天下統一の構想を練っていたのかもしれませんね。



古代から酒どころ?!~立命館中学・高校前 説明板~

2017年05月08日 | 史跡
長岡京市の見所のひとつ、

サントリー天然水のビール工場・京都ブルワリー。

工場見学やビールの試飲をされた方も

多くいらっしゃるかと思いますが、

はるか昔、長岡京が置かれた時代(784~794年)

にもちかくにお酒の工場があった、という説があります。

立命館中学校・高等学校長岡京キャンパスの校門前に、

こんな説明板が立っています。


(立命館中学・高校 校門前)

「キャンパスにとどめる長岡京の記憶」というタイトルの説明板。

これによると、ビール工場にほど近いこの場所は、

長岡京時代の酒造工場だったかもしれないのです。

学校が建てられるときの調査で、長岡京では最大級の井戸や、

大がめを並べるための穴が並んだ建物の跡、

200余りのかめの破片などが見つかりました。

かめを復元すると、1メートルを超える巨大な大きさとなりました。


(長岡京市埋蔵文化財センター)

復元されたかめは、市の埋蔵文化財センターで見ることができます。



こちらの写真では、大人が二人囲んでもまだ余裕がある、

その大きさがわかります。

巨大なかめがいくつも立ち並ぶ建物。何のための施設なのでしょう?

西山のおいしい水を使ってお酒を造るための工場だった、

と現在は考えられています。

西山の水はお酒にぴったりのおいしい水だ、

ということが、昔から知られていたのかもしれませんね。


(長岡京@navi.)

長岡京@navi.でもこの酒造工場跡についての説明や写真などがあり、

長岡京時代のうつわなども展示しています。

お気軽にお越し下さいませ。

↓説明板の場所はコチラ


↓埋蔵文化財センターはコチラ