長岡京市観光協会のブログ

長岡京市の出来事を紹介します。

伝説・合体した仏像

2015年09月05日 | 伝説





弘法大師として人々に知られる空海は、仏教の

真言宗を始めた人です。空海は804年学問僧

として、密教を学びに中国へ行き、後に高野山

に金剛峰寺を開きました。811年に空海は

乙訓寺の管長になりました。

乙訓地域で一番大きなお寺でした。

しかし、794年に都が京都に移されてからは、

寺はさびれて、壊れた塀や屋根を修理するお金は、

もはやありませんでした。

この乙訓寺は早良親王が遠く離れた島に流される

前に、閉じ込められた所として知られています。

早良親王は無実を言い続けていましたが、

長岡京の都の造営官の暗殺の罪をきせられて、

島へ流される途中に、無実を晴らすことなく亡く

なりました。空海は、かつて当寺に縁がある早良親王

と人々の心を癒すために、八幡菩薩という仏像を

作ろうとしました。でも、仏像の形のイメ-ジが

わきません。ある朝、空海は、一人の老人に会いました。

その老人が言うには、自分が空海の体の部分を彫るので、

空海は老人の頭の部分を彫るように言いました。

空海がうなずくと、老人は突然姿を消しました。

八幡大菩薩が老人に姿を変えて現れ、ひらめきを与えて

くれたのだと、空海は考えました。空海が頭の部分を

彫り終わった時、老人が再び現れ像の体の部分を

贈りました。頭と体はぴったりと合い、まるで一人の

人が彫ったようでした。この像は合体仏として知られています。

その頭は八幡大菩薩で、体は空海を形どっています。

今日でもその像は乙訓寺のお堂にあります。

しかし一般には公開していない神聖な仏像です。                 



  (長岡京市昔話より)

長岡京市の民話・勝竜寺城

2015年08月11日 | 伝説
伝説・勝竜寺城



勝竜寺城は1339年に細川頼春によって築かれたと言われています。

足利尊氏の率いる北朝の前線基地でした。

京都盆地の南西にあって戦略的な守りの拠点で、

南朝の進行を食い止めるためのものでした。

この城は応仁の乱「1467年~1477年)で、

西岡地域の西軍の軍事基地として使われました。

1568年に織田信長が当時、都であった京都に来て

戦乱の時代が終わりました。信長が西岡地域を抑え、

細川幽斎として知られる細川藤孝に城を与えました。

1582年の山崎合戦で、信長に取って代わろうとして

上手く行かなかった明智光秀の根拠地として使われました。

歴史的な合戦が行われたことを別にして、

勝竜寺城にはロマンチックな話が残っています。

1578年に細川忠興が光秀の三女の玉とこの城で結婚をしました。

この時、玉は16歳で後にキリストの洗礼を受け、

ガラシャと呼ばれました。勝竜寺城は1992年に

公園として整備され、市民の憩いの広場となっています。

                (長岡京市昔話より)








長岡京市の民話・熊谷次郎直実

2015年07月23日 | 伝説




1184年に兵庫県の一ノ谷で源氏と平家という2つの武家一族の大きな

戦いがありました。熊谷次郎直実は源氏に属していました。この戦いで

直実は平家を海岸に追い詰めました。舟に乗って逃れようとして馬に

またがった侍を見ました。直実はその侍に叫びました。「こっちに

もどってこい。敵はここだ」と。侍としての誇りを証明するために、

その侍は岸に戻ってきました。直実は飛び掛かって、取っ組み合いに

なり、二人とも馬から落ちてしまいました。直実は経験豊かで、

腕力もあったので、簡単に打ち負かしました。殺そうとして兜を取って

みると、まだ17歳くらいの若者であることに気が付きました。大変

若かったけれとも高貴な人に見えました。直実はこの若者が自分の

息子と同じぐらいの年なので、命を奪うのをためらいました。

逃がしてやろうと考えましたが、別の源氏の者が捕まえて、殺す

だろうと思いました。ためらいながらも、この青年を殺し、その後

弔いました。このことがあってから直実の人生観が変わりました。

人生の空しさを悟って、お坊さんになることに決めました。でも、

これまでの沢山の人を殺してきたので、お坊さんになれない

だろうと心配しました。直実は有名な僧侶の法然に教えを請いました。

法然は「仏さまはすべての人を救ってくれる。過ちを悔いれば

仏さまはあなたを助けて下さる。」と言われました。直実は法然の

下で修業を終えてから、「余生を静かな所で仏様をずっとお祈りし

続けたいのですが出来ますか?」と法然にききました。法然はお寺を

粟生という所に建てるように勧めました。現在、長岡京市に

ある光明寺と言われるのがこのお寺です。(長岡京市昔話より)


 ”くわばら くわばら” ~道真公~

2014年08月11日 | 伝説
”かみなり”の季節といわれますが、これは湿度の高い上昇気流が

空の寒いところで液化、凝固し雷が起こるという原理から

夏場のほうが湿度の高い気流が起こりやすいので、

かみなりは夏・夏の季語として使われています。


(長岡天満宮)

私たち長岡京市民にとって”かみなり”と言えば、

勿論、「菅原道真公」ですよね!

なぜ学問の神様が「天神さん」なのでしょうか?


(道真は845年丑年生まれ、死去した903年2月25日は丑の日)

道真は若くして学問に優れ、宇多天皇に大変可愛がれ、

醍醐天皇の時には「右大臣」にまでなりますが、

「左大臣」の藤原時平に妬まれ九州の大宰府に左遷され、

二年後には大宰府の地で亡くなってしまいます。




(道真が愛した梅の花たち)

ここからが大変!道真の死後都では、藤原時平が39歳の若さで亡くなり、

醍醐天皇の皇子まで相次いで亡くなってしまいます。

「平安京」は疫病と日照り、”かみなり”の天変に覆われる事になります。

道真の祟りと囁かれましたが、

決定的にしたのは天皇の住む皇居の清涼殿に雷がおち、

大納言・藤原清貫や多くの人が亡くなった事で、

道真の怨霊が雷神(天神さん)となって復讐をしているという

恐怖を実感した事からです。

怨霊となり天神となった道真公の恨みを鎮めるために、

神格化し祀るようになったのが、「北野天満宮」で、

道真公を「天神」として祀る”天神信仰”のはじまりとされています。

よく”かみなり”がなると”くわばら,くわばら”といいますが、

道真の領地であった「桑原」にだけは雷が落ちなかったという

逸話からとされています。


ベンジャミン・フランクリン
(彼はアメリカの100ドル紙幣の顔になっています)


ベンジャミン・フランクリンが、雷の正体が電気であると証明してくれるのは、

1000年近くも後の事ですので、疑問を持ちながらも私たちは、

”かみなり”は道真公の怨霊の仕業と思ってきたわけですね。

以前、宇治の平等院で末法(まっぽう)元年で始まる藤原氏の年表をみて

思わず、凄い!面白いと見入ってしまいましたが、

怨霊元年で始まる年表もありかも?と思ってしまいますよね。













6月のイベント情報

2014年06月01日 | 伝説

【6月1日(日)】 バンビオものづくり市 10時~16時 バンビオ広場公園

【6月10日(火)】 長岡京駅前広場交流コンサート 18時半~19時半 バンビオ広場公園
         問合わせ 文化スポーツ振興室075-955-9734

【6月13日(金)・14日(土)】 ホタル観賞の夕べ 19時半~21時半
        長岡京市の小泉川上流 西代橋付近 
        *同市ゲンジボタルを育てる会(市環境政策監内)075-955-9542

【6月14日(土)】 ふれあい夕市 16時~17時 バンビオ広場公園

【6月15日(日)】 歴史講演会「戦国期西岡の国衆について」午後1時半~ 3時半
         産業文化会館1階大会議室 当日先着で100人
         資料代300円 申込不要
  問合せ 長岡京市ふるさとガイドの会の高橋さん 電話955-8810

【6月17日(火)】 柳谷観音楊谷寺 御縁日

【6月20日(金)】 バンビオ青空個展市 10時~16時 バンビオ広場公園

【6月21日(土)】 ふれあい夕市 16時~17時 バンビオ広場公園

【6月22日(日)】 第6回長岡京音楽祭 京都オペラ協会定期公演「コジ・ファン・トゥッテ」
        15時~ 長岡京記念文化会館 (有料)問075-955-5711

【6月28日(土)】 ふれあい夕市 16時~17時 バンビオ広場公園

【6月28日(土)・29日(日)】第14回長岡京あじさいまつり 柳谷観音楊谷寺10時~15時半
        問合せ:長岡京市観光協会 075-951-4500

【6月29日(日)】 バンビオ七夕祭り 11時~17時 バンビオ広場公園 

【6月30日(月)】 大祓 長岡天満宮 問合せ 長岡天満宮 075-951-1025