弘法大師として人々に知られる空海は、仏教の
真言宗を始めた人です。空海は804年学問僧
として、密教を学びに中国へ行き、後に高野山
に金剛峰寺を開きました。811年に空海は
乙訓寺の管長になりました。
乙訓地域で一番大きなお寺でした。
しかし、794年に都が京都に移されてからは、
寺はさびれて、壊れた塀や屋根を修理するお金は、
もはやありませんでした。
この乙訓寺は早良親王が遠く離れた島に流される
前に、閉じ込められた所として知られています。
早良親王は無実を言い続けていましたが、
長岡京の都の造営官の暗殺の罪をきせられて、
島へ流される途中に、無実を晴らすことなく亡く
なりました。空海は、かつて当寺に縁がある早良親王
と人々の心を癒すために、八幡菩薩という仏像を
作ろうとしました。でも、仏像の形のイメ-ジが
わきません。ある朝、空海は、一人の老人に会いました。
その老人が言うには、自分が空海の体の部分を彫るので、
空海は老人の頭の部分を彫るように言いました。
空海がうなずくと、老人は突然姿を消しました。
八幡大菩薩が老人に姿を変えて現れ、ひらめきを与えて
くれたのだと、空海は考えました。空海が頭の部分を
彫り終わった時、老人が再び現れ像の体の部分を
贈りました。頭と体はぴったりと合い、まるで一人の
人が彫ったようでした。この像は合体仏として知られています。
その頭は八幡大菩薩で、体は空海を形どっています。
今日でもその像は乙訓寺のお堂にあります。
しかし一般には公開していない神聖な仏像です。
(長岡京市昔話より)