長岡京市観光協会のブログ

長岡京市の出来事を紹介します。

八条ヶ池物語 第6話(最終回)

2012年04月30日 | 八条ヶ池物語


(撮影 4月29日)

洗練された美意識で貫かれた桂離宮を生み出した

八条宮家の二人の親王が造営した大池を含む

長岡天満宮の風景は、その後の修造を経て、

江戸時代すでに風光明媚な景勝地として広く

知られていました。その後「古今伝授の間」は

熊本市水前寺公園に移建(大正元年)されました。

(平成24年度には「古今伝授ゆかりの地」の石碑

が建立される予定です。)


(撮影 4月29日)

現在八条宮家は存続していませんが、後世にその

偉業を伝えるため「八条ヶ池」と名付けられました。

私達はその思いを心に刻み、誇りを持って、この美しい

池を含む風景を長く守り続けていきたいと思います。


(長岡京市観光協会で発売中のポストカードです。)

ー終わりー

おまけ

今、きりしまつつじが満開で、ポストカードと同じ景色が見られますよ。


八条ヶ池物語 第5話

2012年04月25日 | 八条ヶ池物語
ここ開田村は旧細川家の領地でした。そのゆかりから

智忠親王は、智仁親王が細川幽斎から古今伝授を受けた

建物を京の八条宮本邸からこの地へ移しました。

寛永15年には、天神境内の東のため池を掘り広げます。

これが今日の「八条ヶ池」です。


(撮影 昨年4月29日)

しかし、八条宮家が二つの山荘を造営することは

資金面で困難でした。これを支えたのが前田家の

援助でした。智忠親王の正室、富姫は前田利家の

孫にあたる方です。今も八条ヶ池の中堤に架かる

太鼓橋は前田家から寄進されたものです。



ーつづくー


「八条ヶ池」物語 第4話

2012年04月13日 | 八条ヶ池物語
智仁親王は細川幽斎から古今伝授を受け、古典に

造詣が深く、教養と雅趣を備えた文化人でした。


ここ開田村が八条宮家の領地となってから開田

天神の社殿や池の整備が始まりました。しかし、志

半ばにして寛永6年(1629)智仁親王が亡くなります。



その意志を引き継いだのがもう一人の主役、第2代

八条宮智忠(はちじょうのみやとしただ)親王です。

桂離宮の造営とともに同じ庭師を使って開田御茶屋

(山荘)の造営にも取り掛かります。



(古今伝授とは、平安期に成立した古今和歌集の読み

解き方を一子相伝で受け継ぐための講義で、細川幽斎

は公家の三条西実枝から居城の勝龍寺城(長岡京市

勝竜寺)で古今伝授を受けました。)


ーつづくー


「八条ヶ池」物語 第3話

2012年04月07日 | 八条ヶ池物語


(撮影 昨年4月5日)

武家によって翻弄された八条宮智仁親王が

心のより処を見出したのが文学、とりわけ

「源氏物語」でした。そこに描かれた華麗な

平安王朝の雅を再現するため、領地となった

桂村に山荘の造営を始めました。それが後の

「桂離宮」です。元和3年(1617)(一説には

元和9年)徳川秀忠により、ここ開田村447石

余りと山林竹木が八条宮家に与えられました。


(撮影 昨年4月5日)

その頃、徳川秀忠の娘和子が後水尾天皇に入内

されます。後水尾天皇の叔父にあたる智仁親王

はその入内に際し、朝廷側の推進者であったと

言われています。後水尾天皇は後に上皇となら

れてから修学院離宮を造営されました。

ーつづくー


「八条ヶ池」物語 第2話

2012年03月31日 | 八条ヶ池物語
今回は「八条ヶ池」の名前の由来である主役の一人

八条宮智仁(はちじょうのみやとしひと)親王に

ご登場いただきましょう。



智仁親王は正親町天皇の孫で後陽成天皇の弟に

あたります。才気あふれる智仁親王は、子供の

いない豊臣秀吉に望まれて9歳で養子となります。



その後、淀君に秀吉の実子、秀頼が誕生すると

秀吉は養子縁組を解消し、天皇に願い出て

八条宮家を創設(1590年)します。

ここに八条宮智仁親王が誕生しました。

    
-つづくー