伝説・勝竜寺城
勝竜寺城は1339年に細川頼春によって築かれたと言われています。
足利尊氏の率いる北朝の前線基地でした。
京都盆地の南西にあって戦略的な守りの拠点で、
南朝の進行を食い止めるためのものでした。
この城は応仁の乱「1467年~1477年)で、
西岡地域の西軍の軍事基地として使われました。
1568年に織田信長が当時、都であった京都に来て
戦乱の時代が終わりました。信長が西岡地域を抑え、
細川幽斎として知られる細川藤孝に城を与えました。
1582年の山崎合戦で、信長に取って代わろうとして
上手く行かなかった明智光秀の根拠地として使われました。
歴史的な合戦が行われたことを別にして、
勝竜寺城にはロマンチックな話が残っています。
1578年に細川忠興が光秀の三女の玉とこの城で結婚をしました。
この時、玉は16歳で後にキリストの洗礼を受け、
ガラシャと呼ばれました。勝竜寺城は1992年に
公園として整備され、市民の憩いの広場となっています。
(長岡京市昔話より)
勝竜寺城は1339年に細川頼春によって築かれたと言われています。
足利尊氏の率いる北朝の前線基地でした。
京都盆地の南西にあって戦略的な守りの拠点で、
南朝の進行を食い止めるためのものでした。
この城は応仁の乱「1467年~1477年)で、
西岡地域の西軍の軍事基地として使われました。
1568年に織田信長が当時、都であった京都に来て
戦乱の時代が終わりました。信長が西岡地域を抑え、
細川幽斎として知られる細川藤孝に城を与えました。
1582年の山崎合戦で、信長に取って代わろうとして
上手く行かなかった明智光秀の根拠地として使われました。
歴史的な合戦が行われたことを別にして、
勝竜寺城にはロマンチックな話が残っています。
1578年に細川忠興が光秀の三女の玉とこの城で結婚をしました。
この時、玉は16歳で後にキリストの洗礼を受け、
ガラシャと呼ばれました。勝竜寺城は1992年に
公園として整備され、市民の憩いの広場となっています。
(長岡京市昔話より)