空海が乙訓寺の別当に任ぜられたのは、弘仁2年(811)の晩秋です。
乙訓寺に入った空海は当寺とゆかりのある早良親王と
人々の心を癒すために、八幡大菩薩の仏像を作ろうとしました。
でも、仏像の形のイメージがわきません。
ある朝、空海は一人の老人に出会い、
自分が空海の体の部分を彫るので空海には老人の頭の部分を彫るようにと言われ、
空海がうなずくと老人は突然、姿を消しました。
空海が頭の部分を彫り終わった時、老人が再び現れ、
仏像の体の部分を贈ったという伝説があります。
頭と体はぴったりと合い、まるでひとりの人が彫ったようでした。
この像は頭は八幡大菩薩で、体は空海を形どって
神聖な合体仏(秘仏)として乙訓寺のお堂にまつられています。
長岡京の都の造営官の暗殺の罪をきせられ、島へ流される途中に、
無実をはらすことなく悲運の死を遂げた早良親王の御霊も慰められたのでしょう。
第50代桓武天皇と早良親王は兄弟で母は高野新笠父は光仁天皇
二人とも父母の愛情いっぱいで大きくなったのにその母はどんなにつらかったでしょう。
その母はあまりの悲しみの衝撃で早死になったのではと思います。
その高野新笠こそ昔々韓国の王族の姫で第49代光仁天皇はその姫を王妃として
迎えたという言い伝えがあります。
いま、乙訓寺にサルスベリの花が綺麗に咲いてます。