2世って信仰を「培う」(笑。)ことができると思いますか??
現役時代は「信仰を持っている」と公言できる2世がうらやましかったですが、
私はついに現役時代に信仰を感じたり持ったりすることがありませんでした。
が、今は2世が信仰を持てるのかどうか、それ自体疑っています!!
世の中には親の信仰を継がなければならない人種はJW以外にもあると思うのですが、イスラムみたいに国ひとつがすべてその世界観に従って存在しているようなところやカトリックのように信仰をもっても人生がそれほど影響されない。
そんな種類の信仰と比べるとやはりエホバの証人2世がこの世の中で信仰を要求されるのは特殊な状況だと思います。
住んでいる世界が一つの宗教でなりたっているならその国民として生活することで信仰となるのだろうし、欧米のキリスト教のように人生が信仰の犠牲にならない程度の位置にあるなら「その宗派を支持する」程度で「自分は信仰を持ってる」といってもいいだろうし。
しかしJWが要求する信仰は難しい。
そういう種類の信仰は、それ無しで人生を経験してみないと生まれてこないように思います。
それなしで、というより2世は「人生」さえ経験してないですからね。
恋愛も結婚もしない、学校にも仕事にもいかない。本気で夢を追うこともないから、本気で挫折する機会もない。他の宗教の人々と交わる事が禁止されてるから人間関係もない。
これじゃあ、信仰なんてもつのは無理です。
信仰って誰かにすがり、頼ることじゃなくて悟りのようなものだと思うのですが、
そういうものを得るにはゲームでいえば「経験値」みたいなものを積むことが
必要なんですよね。
経験値が足りないと使えるアイテムが少ないとかある程度のパワーしか出ないとかね。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_fine.gif)
ゲームでは経験値をあげるために、ただゲーム世界内をぶらぶらしたり、つまらないゲームを繰り返したりするみたいなんですが、
一見時間の無駄に思えるそういう無駄な時間が経験値につながってく。
人生もそれと同じだと思います。
2世は経験値が少ないまま、経験値をゲットする行動も禁止されてボスキャラ
を倒さなければいけないゲームをさせられてるようなもんですよ!!![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyoko_thunder.gif)
ドイツの社会学者エーリッヒ・フロムが「人生とは全てを経験することである」
と書いていたと思うのですが、
たとえば恋をして初めて恋愛についた本を本当の意味で理解できるようになるように、
信仰も人生を生きて初めて理解できる概念であるはず。
だから、自分には信仰があると公言する2世は、やはり何か勘違いしているのだと思うし、信仰が持てなかった自分も変ではなかったのだ、むしろ自然なんだ。
と思うようになりました。
だから、Wを出てから聖書を読んだりしても少しも心が動かない私ですが、それにはまだ経験値が足りないということで別にいいんだ。と思うのです。
現役時代は「信仰を持っている」と公言できる2世がうらやましかったですが、
私はついに現役時代に信仰を感じたり持ったりすることがありませんでした。
が、今は2世が信仰を持てるのかどうか、それ自体疑っています!!
世の中には親の信仰を継がなければならない人種はJW以外にもあると思うのですが、イスラムみたいに国ひとつがすべてその世界観に従って存在しているようなところやカトリックのように信仰をもっても人生がそれほど影響されない。
そんな種類の信仰と比べるとやはりエホバの証人2世がこの世の中で信仰を要求されるのは特殊な状況だと思います。
住んでいる世界が一つの宗教でなりたっているならその国民として生活することで信仰となるのだろうし、欧米のキリスト教のように人生が信仰の犠牲にならない程度の位置にあるなら「その宗派を支持する」程度で「自分は信仰を持ってる」といってもいいだろうし。
しかしJWが要求する信仰は難しい。
そういう種類の信仰は、それ無しで人生を経験してみないと生まれてこないように思います。
それなしで、というより2世は「人生」さえ経験してないですからね。
恋愛も結婚もしない、学校にも仕事にもいかない。本気で夢を追うこともないから、本気で挫折する機会もない。他の宗教の人々と交わる事が禁止されてるから人間関係もない。
これじゃあ、信仰なんてもつのは無理です。
信仰って誰かにすがり、頼ることじゃなくて悟りのようなものだと思うのですが、
そういうものを得るにはゲームでいえば「経験値」みたいなものを積むことが
必要なんですよね。
経験値が足りないと使えるアイテムが少ないとかある程度のパワーしか出ないとかね。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/kaeru_fine.gif)
ゲームでは経験値をあげるために、ただゲーム世界内をぶらぶらしたり、つまらないゲームを繰り返したりするみたいなんですが、
一見時間の無駄に思えるそういう無駄な時間が経験値につながってく。
人生もそれと同じだと思います。
2世は経験値が少ないまま、経験値をゲットする行動も禁止されてボスキャラ
を倒さなければいけないゲームをさせられてるようなもんですよ!!
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyoko_thunder.gif)
ドイツの社会学者エーリッヒ・フロムが「人生とは全てを経験することである」
と書いていたと思うのですが、
たとえば恋をして初めて恋愛についた本を本当の意味で理解できるようになるように、
信仰も人生を生きて初めて理解できる概念であるはず。
だから、自分には信仰があると公言する2世は、やはり何か勘違いしているのだと思うし、信仰が持てなかった自分も変ではなかったのだ、むしろ自然なんだ。
と思うようになりました。
だから、Wを出てから聖書を読んだりしても少しも心が動かない私ですが、それにはまだ経験値が足りないということで別にいいんだ。と思うのです。
私もJWを出て、ひとつひとつ人生経験を重ねるたびに、経験がいかに大切か身に染みて感じます。
思えばJW時代は、「私だったらこうしたのに」なんて言葉を当然のように使っていました。経験したこともないくせに。あぁ恥ずかしい~。
と言うわけで、一見関係なさそうに見えて、「人生経験のない者が真の信仰などもてるものか」、という見解はとても納得、同意致します。
ゲームように、世の中をただプラプラ歩くだけでも経験値はあがるもの、ましてや真剣に人生に立ち向かえばきっと、自分の人生を自分で作り上げるための経験は積むことができるはず。たとえスタートが他人より遅くても。
いい記事をありがとうございました。勝手に励まされて(笑)しまいました。
20歳すぎにJWから離れ、10年近くは無宗教で生きてきました。一度は信仰を捨てたつもりでした。
その間に、うつになって挫折を経験し、社会人経験を積み、結婚し・・・いろんなことを経て、結局、幼いころから培ってきたクリスチャンとしての信仰という原点に戻ってきました。
これは、私が「親に連れられている」というより「自分の意志で伝道に行き、学校でJWとしての立場を示していた」ことが一因かもしれません。
今から振り返ると、当時は完全にマインドコントロールされていたな、とは思うのですが、困難にぶつかったとき、孤独なとき、つらいとき、常に神に祈り、助けを叫び求めてきました。
困ったとき、組織は何も助けてくれないんですよね。
結局、神との個人的な関係だけが自分にとっての心の支えでした。
そういった経験を積み重ねるうち、組織に対する不信感と共に「たとえ組織を離れても、神と自分との関係が絶たれることはないはずだ」という漠然とした信頼感だけが残っていたように思います。
うつだったため、集中して本を読むこともできず、JWの教理の誤りについて学ぶ時間をなかなか取れませんでしたが、最近になってようやく心のゆとりができ、いろいろ調べていくうちに、真の信仰をとり戻せつつあると感じています。
というわけで、2世なりの「幼い信仰」はあると私は思っています。
ただ、人生経験を積んだ上での信仰とは、質の点で全く異なるものであると思います。
まして、献身とバプテスマという人生における重要な選択をする上では、やはり大人としての信仰を持っていることを前提とすべきだと思います。
私を含め、小・中学生の2世がバプテスマを受けるのなんて、「幼児洗礼」と大差ないと思います。
●私もJWを出て、ひとつひとつ人生経験を重ねるたびに、経験がいかに大切か身に染みて感じます
私もそうなんです。大した経験じゃないですが、私にとっては初めてのことなので、いちいち関心したり驚いたりしています。
(JWが用意した結論にそって考えていた現役時代人生と全く別だという意味で普通の経験も初めての経験のように思いますね。
●ゲームように、世の中をただプラプラ歩くだけでも経験値はあがるもの、ましてや真剣に人生に立ち向かえばきっと、自分の人生を自分で作り上げるための経験は積むことができるはず。たとえスタートが他人より遅くても
そうですよね。ゲームのエピソードは、ゲーム好きの同僚に聞いた話です。
出勤途中にゲームをやってる人は「経験値」をあげるためにコツコツ時間を積み上げてるんだ、って
聞いて、おお~!!なるほど!私に足りないのは経験値だ~と思いました。
パスワード、見つかって良かったです。
Joelさんのブログ、早速拝見して、いっきに全部読ませていただきました。ご自分の意思で集会に行き、ってところ、えらいな~と思いましたよ~。私とは全然違いますね。。
ふと考えてみると逆に家庭で圧政されていなかったら、自分にも率先する気持ちが生まれていたかな、とも思うのですが、今となっては自分でもわかりません。。
●そういった経験を積み重ねるうち、組織に対する不信感と共に「たとえ組織を離れても、神と自分との関係が絶たれることはないはずだ」という漠然とした信頼感だけが残っていたように思います。
なるほど。。
こうやって本当の信仰が生まれるとしたら、JW組織は本当に損をしてますよね。自主的に考える事で組織から離れることを阻止しているつもりで、2世が本当の信仰をつかむチャンスを阻止しているのですから。
●というわけで、2世なりの「幼い信仰」はあると私は思っています。
ただ、人生経験を積んだ上での信仰とは、質の点で全く異なるものであると思います
そうですね、、。信仰についてはなにしろ自分にまだ起こっていないことなので分からないのですが、これからゆっくり探っていこうと思っています。