机上を整理していたら,数日前に生徒指導主事の渡邊先生が配布した『少年』という通信が書類の山の中から出てきた。書いているのは,5月の全校集会で携帯電話の利便性の陰に潜む危険性を具体的な事例をもとに話してくれた山梨県警察本部生活安全部少年課少年対策官の森澤和仁さん。何気なく読み出すと,その紙面の中で,「あたりまえ」と「ありがたい」の関係について,東日本大震災を引き合いにして綴った記事が目にとまった。昨日のブログで,授業参観へのお誘いを,同じく東日本大震災をひきあいに出して書いたものと通じるところがあったからだ。
以下に全文を掲載するので,読んで欲しい。
あたりまえのことですか?
学力第一主義で,まず成績を上げることが何をおいてでも先と感じることが多くあります。家庭で,朝起きればご飯はできている,弁当もできている。支度をして,学校へ行って勉強・部活動,帰るとすぐ塾へ行って,その間にお母さんは掃除や洗濯,子どもが帰ってきて夕食。お風呂の支度もできているから,お風呂へ入って,またすぐ夜遅くまで勉強する。
土日も部活動や休日講座,塾の講習会などで過ごし,掃除・洗濯・炊事など家事に対して親の手伝いをしたことがない。必要以外のことは,親と話さない。そして,親も個性の尊重,自主性の尊重として,ほとんどの要求を聞いてくれる。多少の違いはあれ,ほとんどの家庭でこのようなことが実態としてあるように思います。
このような環境で育つと,子どもたちは自立に向けてのタイミングがかなり遅くなるのではないでしょうか。お母さんは眠くて起きたくない時でも,早く起きて,朝食や弁当の用意をして,子どもを起こして,支度させて,送り出し … と,なんでもしてくれる。子どもは家事に対する苦労を知らないので,こんなありがたいことはないのに,お母さんにありがたいという気持ちがおこらない。ご飯の支度,洗濯物,塾の送迎など子どもにとっては,水道の蛇口をひねると水が出てくるくらい普通であたりまえのこととなっているのです。
「あたりまえ」のことだという感覚しかないから,「ありがたい」なんていう気持ちはおきません。
「勉強優先」「個性尊重」「自主性尊重」の中で,本来の生活の営みや価値観,規範意識が薄れていっていないでしょうか。
先日,仙台市に行く機会がありました。被災から3か月後の仙台,そこに住む同級生や元同僚から話を聞き,現地を目の当たりにして,さらに「あたりまえ」から「ありがたい」を感じることが多くなりました。「あたりまえ」だと思うところには,感謝の気持ちは湧いてきません。それに対して,「ありがたい」と思う気持ちは,何もかもが感謝の連続です。
人間は,究極としては生きていること自体がありがたいと感じるものだ,とも聞いたことがあります。朝起きて命があること,ご飯を食べることができること,仕事があること,勉強できること,友人がいること,家族と生活できること…すべてがありがたいことです。
親には,大人としての視点,先を見据えた考え方,教育観があるはずです。子どもの純粋な部分に耳を傾け,尊重すべきことは尊重し,生活の中で大切な部分を親子で考えて欲しいと思います。
どうか,生活の中で「あたりまえ」という思いではなく,「ありがたい」という思いに切り替えてください。世界が違って見えるはずです。
同じようなことを,学年主任をしていた時に学年通信(ブログへ転載)でも書いた記憶がある。(読みたい人はここをクリック)
「ありがたい」とひらがなで書いてしまえば意味がぼやけてしまうが,これを漢字で書くと「有り難い」となる。つまり,「有り」が「難し」で「有ることがむつかしい」,ここから「めったにない」そして「めったにない」から「貴重だ」となる。
原典をたどると法句経というお経にある『人の生を享くるは難く やがて死すべきもの 今いのちあるは 有り難し』にいきつく。これを簡単に言い表すと,森澤さんが書いているように「今生きている私達は,数え切れない偶然と無数の先祖の計らいで生を受けて誕生したのだから,命の尊さに感謝して精一杯生きましょう」となる。
やがてそれが,生まれ出ることばかりでなく,今こうして生きていることもたくさんの支えがあってこそであることに気づき,「あたりまえ」の事を「あたりまえ」と思わず,「あたりまえ」と思える事にでも感謝の気持ちを表す言葉として『有り難し(ありがとう)』になったというわけだ。
生徒諸君,「あたりまえ」のことが,実はとても「ありがたい」んだぞ。
保護者の皆さん,では,家庭の中でどう育てていったらいいか,少し考えてみて下さい。また,後日,私なりの考えを書きますので,それまで宿題とします。
ちなみに,子育てに正解なんてありません。あったとしても一つではありませんよ。
以下に全文を掲載するので,読んで欲しい。
あたりまえのことですか?
学力第一主義で,まず成績を上げることが何をおいてでも先と感じることが多くあります。家庭で,朝起きればご飯はできている,弁当もできている。支度をして,学校へ行って勉強・部活動,帰るとすぐ塾へ行って,その間にお母さんは掃除や洗濯,子どもが帰ってきて夕食。お風呂の支度もできているから,お風呂へ入って,またすぐ夜遅くまで勉強する。
土日も部活動や休日講座,塾の講習会などで過ごし,掃除・洗濯・炊事など家事に対して親の手伝いをしたことがない。必要以外のことは,親と話さない。そして,親も個性の尊重,自主性の尊重として,ほとんどの要求を聞いてくれる。多少の違いはあれ,ほとんどの家庭でこのようなことが実態としてあるように思います。
このような環境で育つと,子どもたちは自立に向けてのタイミングがかなり遅くなるのではないでしょうか。お母さんは眠くて起きたくない時でも,早く起きて,朝食や弁当の用意をして,子どもを起こして,支度させて,送り出し … と,なんでもしてくれる。子どもは家事に対する苦労を知らないので,こんなありがたいことはないのに,お母さんにありがたいという気持ちがおこらない。ご飯の支度,洗濯物,塾の送迎など子どもにとっては,水道の蛇口をひねると水が出てくるくらい普通であたりまえのこととなっているのです。
「あたりまえ」のことだという感覚しかないから,「ありがたい」なんていう気持ちはおきません。
「勉強優先」「個性尊重」「自主性尊重」の中で,本来の生活の営みや価値観,規範意識が薄れていっていないでしょうか。
先日,仙台市に行く機会がありました。被災から3か月後の仙台,そこに住む同級生や元同僚から話を聞き,現地を目の当たりにして,さらに「あたりまえ」から「ありがたい」を感じることが多くなりました。「あたりまえ」だと思うところには,感謝の気持ちは湧いてきません。それに対して,「ありがたい」と思う気持ちは,何もかもが感謝の連続です。
人間は,究極としては生きていること自体がありがたいと感じるものだ,とも聞いたことがあります。朝起きて命があること,ご飯を食べることができること,仕事があること,勉強できること,友人がいること,家族と生活できること…すべてがありがたいことです。
親には,大人としての視点,先を見据えた考え方,教育観があるはずです。子どもの純粋な部分に耳を傾け,尊重すべきことは尊重し,生活の中で大切な部分を親子で考えて欲しいと思います。
どうか,生活の中で「あたりまえ」という思いではなく,「ありがたい」という思いに切り替えてください。世界が違って見えるはずです。
同じようなことを,学年主任をしていた時に学年通信(ブログへ転載)でも書いた記憶がある。(読みたい人はここをクリック)
「ありがたい」とひらがなで書いてしまえば意味がぼやけてしまうが,これを漢字で書くと「有り難い」となる。つまり,「有り」が「難し」で「有ることがむつかしい」,ここから「めったにない」そして「めったにない」から「貴重だ」となる。
原典をたどると法句経というお経にある『人の生を享くるは難く やがて死すべきもの 今いのちあるは 有り難し』にいきつく。これを簡単に言い表すと,森澤さんが書いているように「今生きている私達は,数え切れない偶然と無数の先祖の計らいで生を受けて誕生したのだから,命の尊さに感謝して精一杯生きましょう」となる。
やがてそれが,生まれ出ることばかりでなく,今こうして生きていることもたくさんの支えがあってこそであることに気づき,「あたりまえ」の事を「あたりまえ」と思わず,「あたりまえ」と思える事にでも感謝の気持ちを表す言葉として『有り難し(ありがとう)』になったというわけだ。
生徒諸君,「あたりまえ」のことが,実はとても「ありがたい」んだぞ。
保護者の皆さん,では,家庭の中でどう育てていったらいいか,少し考えてみて下さい。また,後日,私なりの考えを書きますので,それまで宿題とします。
ちなみに,子育てに正解なんてありません。あったとしても一つではありませんよ。