不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

大月東中学校 美登里の日々

われら励みて人たらむ
われら学びて知るを得む
知るは即ち愛深き
行いをもて証とす
東中学 いや栄えあれ

笹子・初狩方面に出かけてきました。

2014年11月01日 19時28分00秒 | 学校生活

10月29日(水),青く澄みきった秋空の下,1年生の校外学習が行われた。
ここ数年,七保下和田の森武七の墓から大月市営球場を経由して宮谷白山遺跡へ抜け,扇山の麓にある桂川ウェルネスパークで昼食をとり,猿橋の橋下を通って郷土資料館を見学するというコースだったが,大月第一中学校との統合初年ということもあり,笹子・初狩方面のコースを開拓しましょうという一学年主任の森先生と1組担任の蔦木先生の迷コンビから相談をもちかけられ,文献資料の収集,地域の方からの聞き取り,そして実際の現地調査を行い,今回のコースとなった。
記録に残しておくために,ブログで紹介するので,しばらくおつきあい下さい。

まずは,JR東日本中央線下り列車に乗り,笹子駅へ。
1番目の見学場所は,駅前広場に立つ『笹子隧道記念碑』。
1896年に着工し,6年の歳月をかけて1902年貫通・完成した全長4,656 mの鉄道トンネル。
当時日本一の長さを誇ったトンネル完成を記念した石碑だ。
東京と甲府を結ぶ鉄道建設が計画された理由や,石碑の大きさについて説明した。

2番目の見学地は,JR笹子駅の南側の少し高い所にある『笹子設備トレーニングセンター』。
かつてのスイッチバック駅施設を改修して,保線のための様々な訓練施設が造られている。
スイッチバックとは,急坂を直線的に越えることができない時,山の斜面をジグザグに行ったり来たりして高度を上げていく方法だ。水平方向に1,000m進むと25mも高度を上げなければならない大月-笹子トンネル間では,機関車時代,坂の途中で停車してしまうと再び発進するだけの力が無かったため,初狩駅と笹子駅には勾配を持つ本線から水平方向に引き込む線路が敷かれ,そこを停車場として使っていた。電化が進み,複線化される1966年まで続いた。

3番目は,『笹一酒造』。
笹一酒造は,大月市の地酒製造所である。創業者は天野久さん。
塩山の「田辺酒造店」に支配人として勤めていた天野さんが,笹子の水の良さにひかれ,笹子酒造を買い取り,独立・創業した。
ちなみに,天野さんは,戦後国会議員を3期務めた後,山梨県知事に立候補し,4期連続当選し,戦後山梨の復興と発展に尽くしたわが郷土が誇る名士でもある。

案内をしていただいたのは,仲澤さん。
まずは,事務所の横にあった。杉玉の説明。スギの葉(穂先)を集めてボール状にしたもので,『酒林』(さかばやし)と呼ばれている。何でも,新酒ができたことや熟成の度合いを示す案内板のような役割をするもので,吊るされたばかりの青々とした状態から,やがて枯れて茶色に変色する様は,搾りたてから熟成までの過程を表すということだ。

次に清酒(日本酒)を製造場である『天久蔵』に場所を移して,製造過程の説明を受ける。
ちなみに,『天久蔵』と名付けられた理由は,覚えてる?
日本酒は,米と麹と水を主原料として発酵させ,搾り取った液体をいう。その,精米歩合によって区別され,玄米から30%精米したものを原料とするものを本醸造酒,40%精米したもののを吟醸,50%精米したものを大吟醸という。仲澤さんが手にしているのは,歩合ごとに精米されたお米のサンプルだ。
当然,手がかかればかるほど味が良くなり,価格も上がる。
しかし,日本酒をあまり嗜まない私には,味の良し悪しはわからず,酒飲みの知り合いは,二級酒(本醸造酒)が一番うまいという。
君たちは,くれぐれも味見をしようなどとは考えないように。

次に見たのは,醸造タンク。昔は木でできた樽を使っていたそうだが,醸造過程の機械化に伴い金属のものへと切り替えられた。何とも味気ない話ではあるが,衛生面や効率性を優先したのだろう。

次は日本酒をビンに詰め,ラベルを貼り付ける工程の説明。写真の通り,ラインはすべて自動化されている。残念ながら,実際に動いているところは見ることができなかった。

最後に,「御前水」と呼ばれ,天野久さんがこの地で酒造業を創業することを決意させた美味しい水を飲んで,『笹一酒造』を後にした。
仲澤さん,ありがとうございました。

新笹子橋を渡り,吉久保のJRガード下をくぐり抜けると右手の道上に『葦池』と刻まれた石碑が見えてくる。「池なんか無いじゃないか」という生徒の声が聞こえてくる。ところが,石碑の台座に上り,滝子山側の方を見ると,くぼ地になっていることがわかる。大水が出たらたちまちのうちに,水がたまりそうな地形だ。
森先生が下見を行った時,地域の人に国道近くまで広範囲にわたって池があったとの説明を受けたそうだ。
ところで,「葦」とは,水辺に群生するススキに似た穂をつける植物で,「あし」が本来の読み方だそうだ。ところが,「悪し」(あし)に通じる不吉な言葉とされ,古くから「よし(良し)」と言い換えられることが多くなり,現在では辞書を引くと両方の読みがのっている。

稲村神社で説明している様子。

みんなが見ているのは,この石塔。左側の看板の後ろに立っているのが『親鸞聖人念仏塚』,右端に立っているのが『毒蛇済度旧跡』。
言い伝えはこうだ。
この辺りの地頭小俣左衛門尉重澄の娘「およし」が失恋から池に身を投げ、それが毒蛇に化身して里人を悩ませていた所,親鸞上人が「南無阿弥陀仏」念仏を小石に書いて池に投げ込み,ねんごろに弔った。
君たちにここで話したとおり,失恋相手が誰(恋人か夫)であるのか,また「およし」の性格(優しかったのか嫉妬深かったのか)はどうだったのか,二説あってどちらであるかは定かではない。

稲村神社境内にある,根が一つで,幹が3本に分かれている杉の木。
これについては,森先生が理科的に説明してくれた。幹が3つに分かれたのではなく,近くに落ちた杉の種がやがて芽を吹き,大きくなるにつれてその間隔が狭まり,そして合体したとのこと。
同じように,2本が合体して夫婦杉とよばれている杉が日本各地に存在している。

こちらは同じく稲村神社の境内にあった道祖神。
説明板には,「合体道祖神」とある。男性器と女性器を形どった石器が祭られている。
道祖神は古来よりの境目に置かれ,悪霊が入り込んだり,悪い病気を持ち込まれたりすることのないよう,の安全を守る神とされていた。また,縁結びや子どもを守る神だという説もある。この形から考えると,子孫繁栄や,子どもを産むことから転じて農産物の豊かな実りを願うものとされてきたのではないだろうか。

お昼にはちょっと早かったのですが,お弁当をここで食べました。

みんなが線路越しに見ているのは何だろう。

これです。『鬼の立石』。この写真は草刈りをする前のもので,君たちが目にしたときは,もっとはっきりと見えたはずだ。
大月の桃太郎伝説によると,岩殿山に住んでいた鬼が桃太郎に退治された際,苦しさのあまり両手に持っていた杖を空高く放り投げ,一本は強瀬の石動の地に,そしてもう一本ははるか遠く笹子の原の地まで飛んでいき突き刺さったものだと言われている。
また,杖は1本であり,東の方角から退治に現れた桃太郎を見ておこった鬼が,それを2つにへし折り,桃太郎に投げつけた一つが石動の地に刺さり,西に回り込んだ桃太郎に向けて投げつけた残る一つが笹子まで飛んで刺さったという説もある。
この他に,「山姥の杖」という話もあり,それぞれの話にそれぞれの想いが込められていて,とても興味をそそられる。

次は,白野宿を甲州街道( 旧国道20号線)に沿って歩き,中宿の辻にある庚申塔と常夜燈。
庚申塔の庚申とは,現在でも年を表す言葉として使われる干支(えと)の一つである。干支は,十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)と十二支(子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)の組み合わせからなり,十干の最初の「甲」と十二支の最初の「子」の組み合わせ「甲子(きのえね)」から始まり、「乙丑」「丙寅」「辛卯」・・・と続き、「癸亥(みずのとい)」まで60種類ある。
ただし,一般的には十二支の方だけで言い表されることが多く,たとえば平成26年の干支は正しくは「甲午(きのえうま・こうご)」と読まなければいけないところだが,午(うま)年とだけ言われている。
さて,話を庚申塔にもどそう。その建立のいわれは,次のようなものである。
人の体の中には,魂(こん)と魄(はく)と三尸(さんし)という3つの虫が住んでいて,宿主である人間が死ぬと魂は天に昇り,魄は地に潜り,三尸(さんし)は現世を自由に遊びまわることができるようになる。そして三尸だけが60日に一度めぐってくる庚申(かのえさる)の日の夜に宿主が寝るとその体から抜け出し,翌朝まで自由に動けることができた。そこでその晩に何をしたかというと,早く永遠の自由を手に入れるために天に昇って人の寿命をつかさどる天帝に宿主のあることないこと告げ口して寿命を縮めさせようとする。そこで,人々は,三尸が体内から出ないようにと,庚申の前日から集団で徹夜して語り明かすこととした。この集まりを「庚申講(講=信仰集団)」といい,この集会が干支が一巡りする60年間続いた記念に石塔を建てることにしたのがそもそもの始まりだとされている。
「春はあけぼの」で始まる『枕草子』には,庚申塔のことが書かれているから,1000年近く前にその起源をさかのぼることができる。ただし,盛んに作られるようになったのは江戸時代で,現存するほとんどの石塔はそのころのものだ。
常夜燈は,現在の街灯と同じ役割をはたした。


白野の宿を抜け,旧道と新道が交わる所で左に折れ,JRの短い鉄橋をくぐり抜けるとそこに一里塚がある。
下花咲にある一里塚は江戸から24番目。白野の一里塚は25番目となる。と説明したのだが,校外学習の数日後に私用で甲府方面に行くこととなり,黒野田橋西詰にある普明禅院の門柱脇に立つ「黒野田一里塚跡」と書かれた標柱を見ると,何と江戸から25里と書かれているではないか。????。いったいどれが正しいんだ????。調査不足を痛感した。
「白野一里塚」の標柱の横には,男女が抱き合っている姿が刻まれた道祖神「双体道祖神」が建っている。しかし,そのデザインと石の風化の具合から考えるに,昭和かひょっとしたら平成に造られたものだと思われる。

旧甲州街道は「白野一里塚」から天神坂林を越えて中初狩の立河原に抜けていたのだが,現在は中央自動車道が街道にかぶさるように建設されたため,歩行が困難になっている。
再び国道20号線に出て,天神坂林北側を国道沿いに巻いていくと,天神坂林の尾根にある送電鉄塔への保守道の登り口が見えてくる。
そこを少し登ると,複線化に伴い廃線となった国鉄時代の鉄道トンネルがある。およそ50mほどの長さで,レールや送電線は撤去されているが,煉瓦でできている天井といたるところに残る煤の跡は,トンネルの向こうはタイムスリップした世界があるのではないかという気にさせる。

ここは,初狩側出口の先にある橋台の上。左に見えるのが複線化された現在の線路だ。
トンネル出口上からカメラを向けると余裕のピースサイン。
ところが,このあとこの笑顔が苦痛と恐怖でひきつることになろうとは,彼女らは夢にも思っていなかった。

トンネルの先は行き止まりなので,さっきの保守道に戻って,天神坂林をめざす。これが思いの外の急登。山道に慣れていない生徒たちにとっては,苦行に感じたようで,わずか5分程度の登りにもかかわず,肩で息をしていた。

「天神坂林」にある送電鉄塔下で『天保騒動』についてひとくさり。
天保の大飢饉のとき,下和田村(大月市)の武七と犬目村(上野原市)の兵助のよびかけに応じてて,甲州街道筋の上野原から大月にかけての農民たちは,道志・秋山,丹波・小菅村の農民たちにも声をかけ,この地に集合した。
この集会で,農民たちは武七(70歳)と兵助(40歳)を頭取に選び,頭取の指示に従うこと,盗みをしてはならないこと,人を傷つけないこと等の15か条の行動の約束を決め,郡内に米を送る大手の米穀商であった熊野堂村(春日居町)の奥右衛門から5年で1割の利子で米を押し借りするために出発した。
笹子峠を越えて国中に入ると,武七たちの動きを知った,国中の農民たちが次から次へと合流し,やがて頭取である武七の命令にも従わず,行動の約束も守られなくなり,乱暴な振る舞いをするようになっていった。
武七はそんな農民たちの行いに嫌気がさして途中で郡内に引き返した。兵助が率いた郡内農民たちも,当初の目的通り奥右衛門から力づくで米を借りると,自分たちの村々に戻っていった。
しかし,国中の農民たちはさらに甲府へと進み,その途上の村々でたくさんの農民が参加してその勢いは増していき,ついには長野や静岡との県境にまで騒ぎが拡大していくこととなった。
幕府は近隣諸藩の応援を得てこの騒ぎが鎮め,一揆の首謀者を処刑するために探し始めると,武七はまだ若かった兵助を逃がし,一揆を起こした罪を一人でかぶって出頭し,処刑されることなく石和の牢で獄死した。

さて,山に登れば,当然下りなければならない。
尾根を北に行くと中央自動車道に突き当たり,道がなくなる。
そこで,杉林の斜面を枝打ちする際につけたであろう踏み跡をたよりに下りることにする。
もちろん,滑落防止のためのロープを張りましたので,ご安心を。
それでも,滑る人はやはり滑るわけで,そのたびにワーワー・キャーキャー,恐怖の声をあげる生徒がいたのも事実。

最後は,初狩小学校前の歩道橋近くにある芭蕉の句碑。
1年生が今年の創美祭で上演した「八百屋お七」の火事(天和の大火)で焼け出された芭蕉は,甲斐谷村藩の家老に招かれ,6か月ほど滞在した。その時に読まれたと思われる句を刻んだ碑が,県内のあちこちに点在している。
ここもその一つ。
「山賊(やまがつ)の おとがいとずる 葎(むぐら)かな」とある。
私としては,花咲一里塚にある
「しはらくは 花の上なる 月夜かな」の方が風情があると思うのだが。

途中誰一人落伍することもなく,参加生徒全員が全行程を無事踏破した。
君たちの命を預かる立場として,何よりもこれが一番の成果。
次は君たちが,この校外学習で見たこと,聞いたこと,感じたこと,考えたこと等,学んだことをまとめる番だ。
読ませてもらい,そのうちのいくつかを紹介しするつもりだ。
良いまとめができることを期待しているよ。

※おまけ
というわけで,1年の校外学習のレポートはこれにて終了。
学んだことや,やったことをこうして文にまとめていると,考えや行動が整理されるとともに,あやふやな知識のままで説明をしていたことや,こうした方が良かったのではと,気づかされることが多い。
早いうちの学びなおし。つまり,これが「自主学習」ですね。

この記事についてブログを書く
« 『学力向上の集い』に参加し... | トップ | 朗読会と職業講話が行われま... »
最新の画像もっと見る