日本語の「は」と「が」について。

象は鼻が長い=∀x{象x→∃y(鼻yx&長y)&∀z(~鼻zx→~長z)}。
とりあえず「三上文法」を「批判」します。

(1226)「逆」だけでなく「裏」も必ずしも「真」ではない。

2022-08-03 18:55:46 | 論理

(01)
① 法律を知らないと不幸になる。
② 不幸にならないならば法律を知っている。
③ 不幸になるならば法律を知らない。
④ 法律を知っていれば不幸にならない。
⑤ 法律を知ってるのに不幸になる。
に於いて、
① は「順」 であって、
② は「対偶」であって、
③ は「逆」 であって、
④ は「裏」 であるが、
⑤ は、特に「名前」はない。
然るに、
(02)
① 法律を知らないと不幸になる(順)。
② 不幸にならないならば法律を知っている(対偶)。
③ 不幸になるならば法律を知らない(逆)。
④ 法律を知っていれば不幸にならない(裏)。
に於いて、
①=② は「対偶の関係」であって、
③=④ も「対偶の関係」である。
然るに、
(03)
「逆は、必ずしも真ではない。」
という「言い方」があるように、
① 法律を知らないと不幸になる(順)。
③ 不幸になるならば法律を知らない(逆)。
に於いて、
①=③ ではない。
従って、
(02)(03)により、
(04)
① 法律を知らないと不幸になる(順)。
④ 法律を知っていれば不幸にならない(裏)。
に於いて、
①=④ ではなく、その「意味」で、
「逆は、必ずしも真ではなく、」
「裏も、必ずしも真ではない。」
然るに、
(05)
① 法律を知らないと不幸になる(逆)。
④ 法律を知っていれば不幸にならない(裏)。
⑤ 法律を知ってるくせに不幸になる。
に於いて、
④と⑤ は「矛盾」する。
従って、
(04)(05)により、
(06)
① 法律を知らないと不幸になる(逆)。
④ 法律を知っていれば不幸にならない(裏)。
⑤ 法律を知ってるくせに不幸になる。
に於いて、「実際」には、
①=④ でない、にも拘わらず、
①=④ であると「誤解」すると、
①と⑤ は「矛盾」するという、「勘違い」が生じることになる。
然るに、
(07)
瀧田早苗、二七才、東京大学法学部卒、―中略―つまり、極めて優秀なエリートだということだ。―中略―、
「正義の定義によりますね。先生は、ずっと法律を知らないと不幸になると、おっしゃっています。
 まったく同感です。でも、多くの弁護士は、法律を知っているくせに、依頼者を幸福にできていません。」
(真山仁 作、レインメーカー)
従って、
(07)により、
(08)
瀧田早苗(二七才、東京大学法学部卒、ヤメ検、美人)は、
① 法律を知らないと不幸になる(逆)。
⑤ 法律を知ってるくせに不幸になる。
に於いて、
①と⑤ は「矛盾」するという風に、言っている。
従って、
(06)(07)(08)により、
(09)
① 法律を知らないと不幸になる(逆)。
④ 法律を知っていれば不幸にならない(裏)。
⑤ 法律を知ってるくせに不幸になる。
に於いて、「実際」には、
①=④ ではない、にも拘わらず、
①=④ であると「誤解」することによって、
①と⑤ は「矛盾」するという風に、述べている。
然るに、
(10)
④ 法律を知っていれば不幸にならない(裏)。
というのであれば、
④ 法律家は、誰もが幸福であるが、実際には、
④ 幸福ではない法律家は、いないはずがない。
従って、
(07)~(10)により、
(11)
瀧田早苗(二七才、東京大学法学部卒、ヤメ検、美人)は、「結果」として、
① 法律を知らないと不幸になる(逆)。
④ 法律を知っていれば不幸にならない(裏)。
⑤ 法律を知ってるくせに不幸になる。
に於いて、
①=④ ではない、にも拘わらず、
①=④ であると「誤解」することによって、
①と⑤ は「矛盾」するという風に、述べているが、
④ 法律を知っていれば不幸にならない(裏)。
ということは、「真(本当)」ではない。
従って、
(11)により、
(12)
瀧田早苗(二七才、東京大学法学部卒、ヤメ検、美人)は、
少なくとも、「論理(学)的」であるとは、言えない。
然るに、
(13)
同じく「論理」を展開させるといっても、法律家の論証と数学や論理学の証明問題を解くのとは、同じではないでしょう。では、どこが違うのでしょうか。憲法学の場合はどうでしょうか。
目が眩むほど大きな問いですが、具体例を手がかりとしながら探ってみようと思います(法学の論理、憲法学の論理)。
然るに、
(14)
「法律家の論証と数学や論理学の証明問題を解くのとは、同じではないでしょう。」というのであれば、
「法律家のいう論理」とは、「フレーゲや、ラッセルや、ウィトゲンシュタインタインがいう論理(古典論理)」とは「同じ」ではないし、だとすれば、
「そのような論理(法律家のいう論理)」は、所謂、「論理」ではない


(1225)「フェルマーの最終定理」と「対偶(の関係性)」(Ⅱ)。

2022-08-03 16:20:02 | 論理

(01)
フライさんは手からチョークを払うため、両手をパンパンと叩きながら続けます。
「さて、よく見ると、この方程式は楕円曲線の形をしていることがおかかりでしょうか?
ということは、フェルマーの最終定理がなりたたないとすればこのよう楕円曲線が存在してしまうことを意味しますね」
「うわっ、たしかに!」
僕の横で聞いていたフライさんの学友が大きな声を上げました。
「で、この楕円曲線はあまりにも特異であるために、モジュラー形式にはならないんです」
「・・・ってことは・・・・・」
「そうです、あとはお察しの通リです」
(ざわざわざわ・・・)
「つまり、対偶の関係性によって、谷山=志村予想が正しければフェルマーの最終定理も正しい・・・?」
([小説]フェルマーの最終定理、日沖桜皮、2010年、138頁)
然るに、
(02)
数学において、谷山・志村予想(たにやましむらよそう、Taniyama–Shimura conjecture)は、「すべての有理数体上に定義された楕円曲線はモジュラーである」という主張であり、
アンドリュー・ワイルズとその弟子クリストフ・ブロイル、ブライアン・コンラッド、フレッド・ダイアモンド、リチャード・テイラーらによって証明された。
(ウィキペディア)
従って、
(01)(02)により、
(03)
(ⅰ)『「フェルマーの最終定理」が「マチガイ」であるならば、ある「モジュラーではない、楕円曲線」が存在する。』然るに、
(ⅱ)『「谷山=志村予想」が「正しい」とすれば、「モジュラーではない、いかなる楕円曲線」も存在しない。』   従って、
(ⅲ)『「フェルマーの最終定理」が「マチガイ」であって、「谷山=志村予想」が「正しい」といふことはない。』  従って、
(ⅳ)『「谷山=志村予想」が「正しく」て、「フェルマーの最終定理」が「マチガイ」であるといふことはない。』  従って、
(ⅴ)『「谷山=志村予想」が「正しい」ならば「フェルマーの最終定理(予想)」も「正しい」。』
然るに、
(04)
(ⅲ)
1(1)~(~F&谷) A
1(2)~(谷&~F) 1交換法則
(ⅳ)
1(1)~(谷&~F) A
1(2)~(~F&谷) 1交換法則
然るに、
(05)
(ⅳ)
1  (1)~(谷&~F)  A
 2 (2)  谷      A
  3(3)    ~F   A
 23(4)  谷&~F   23&I
123(5)~(谷&~F)&
       (谷&~F)  14&I
12 (6)   ~~F   35RAA
12 (7)     F   6DN
1  (8)  谷→ F   27CP
(ⅴ)
1  (1)  谷→ F   A
 2 (2)  谷&~F   A
 2 (3)  谷      2&E
12 (4)     F   13MPP
 2 (5)    ~F   2&E
12 (6)  F&~F   45&I
1  (7)~(谷&~F)  26RAA
従って、
(03)(04)(05)により、
(06)
(ⅰ)『「フェルマーの最終定理」が「マチガイ」であるならば、ある「モジュラーではない、楕円曲線」が存在する。』然るに、
(ⅱ)『「谷山=志村予想」が「正しい」とすれば、「モジュラーではない、いかなる楕円曲線」も存在しない。』   従って、
(ⅲ)『「フェルマーの最終定理」が「マチガイ」であって、「谷山=志村予想」が「正しい」といふことはない。』  従って、
(ⅳ)『「谷山=志村予想」が「正しく」て、「フェルマーの最終定理」が「マチガイ」であるといふことはない。』  従って、
(ⅴ)『「谷山=志村予想」が「正しい」ならば「フェルマーの最終定理(予想)」も「正しい」。』
といふ「推論」は、「命題論理」として「正しい」。


(1224)「フェルマーの最終定理」と「対偶(の関係性)」。

2022-08-03 12:24:46 | 論理

(01)
フライさんは手からチョークを払うため、両手をパンパンと叩きながら続けます。
「さて、よく見ると、この方程式は楕円曲線の形をしていることがおかかりでしょうか?
ということは、フェルマーの最終定理がなりたたないとすればこのよう楕円曲線が存在してしまうことを意味しますね」
「うわっ、たしかに!」
僕の横で聞いていたフライさんの学友が大きな声を上げました。
「で、この楕円曲線はあまりにも特異であるために、モジュラー形式にはならないんです
「・・・ってことは・・・・・」
「そうです、あとはお察しの通リです」
(ざわざわざわ・・・)
「つまり、対偶の関係性によって、谷山=志村予想が正しければフェルマーの最終定理も正しい・・・?」
([小説]フェルマーの最終定理、日沖桜皮、2010年、138頁)
然るに、
(02)
数学において、谷山・志村予想(たにやましむらよそう、Taniyama–Shimura conjecture)は、「すべての有理数体上に定義された楕円曲線はモジュラーである」という主張であり、
アンドリュー・ワイルズとその弟子クリストフ・ブロイル、ブライアン・コンラッド、フレッド・ダイアモンド、リチャード・テイラーらによって証明された。
(ウィキペディア)
従って、
(01)(02)により、
(03)
(ⅰ)『「フェルマーの最終定理(予想)」が「マチガイ」であるならば、ある「モジュラーではない、楕円曲線」が存在する。』然るに、
(ⅱ)『「谷山=志村予想」が「正しい」とすれば、「モジュラーではない、いかなる楕円曲線」も存在しない。』従って、
(ⅲ)『「フェルマーの最終定理(予想)」が「マチガイ」であるならば、「谷山=志村予想」も「マチガイ」である。』
然るに、
(04)
~F=「フェルマーの最終定理(予想)」は「偽(マチガイ)」である。
~T=「谷山=志村予想」は「偽(マチガイ)」である。

とする。
従って、
(03)(04)により、
(05)
(ⅰ)『「フェルマーの最終定理(予想)」が「マチガイ」であるならば、ある「モジュラーではない、楕円曲線」が存在する。』然るに、
(ⅱ)『「谷山=志村予想」が「正しい」とすれば、「モジュラーではない、いかなる楕円曲線」も存在しない。』従って、
(ⅲ)『~F→~T』である。
然るに、
(06)
(ⅰ)
1  (1) ~F→~T A
 2 (2)     T A
  3(3) ~F    A
1 3(4)    ~T 13MPP
123(5)  T&~T 24&I
12 (6)~~F    35RAA
12 (7)  F    6DN
1  (8)  T→F  27CP
(ⅱ)
1  (1) T→ F A
 2 (2)   ~F A
  3(3) T    A
1 3(4)    F 13MPP
123(5)~F& F 24&I
12 (6)~T    35RAA
1  (7)~F→~T 26CP
従って、
(06)により、
(07)
① ~F→~T
②  T→ F
に於いて、
①=② は「対偶」である。
従って、
(05)(06)(07)により、
(08)
(ⅰ)『「フェルマーの最終定理(予想)」が「マチガイ」であるならば、ある「モジュラーではない、楕円曲線」が存在する。』然るに、
(ⅱ)『「谷山=志村予想」が「正しい」とすれば、「モジュラーではない、いかなる楕円曲線」も存在しない。』従って、
(ⅲ)『T→F』である。
従って、
(04)(08)により、
(09)
(ⅰ)『「フェルマーの最終定理(予想)」が「マチガイ」であるならば、ある「モジュラーではない、楕円曲線」が存在する。』然るに、
(ⅱ)『「谷山=志村予想」が「正しい」とすれば、「モジュラーではない、いかなる楕円曲線」も存在しない。』従って、
(ⅲ)『「谷山=志村予想」が「正しい」とすれば、「フェルマーの最終定理(予想)」も「正しい」。』
従って、
(01)~(09)により、
(10)
「つまり、対偶の関係性によって、谷山=志村予想が正しければフェルマーの最終定理も正しい・・・!」
然るに、
(11)
① 大和なでしこ(日本人の女性)であるならば、女性である。
② 女性でないならば、大和なでしこ(日本人の女性)ではない。
に於いて、
①=② であることは、
③「大和なでしこ(日本人の女性)」の「集合」が、
④「女性の集合」の「真部分集合」である、ということからすれば、「当然」である。
然るに、
(12)
①「フェルマーの最終定理」は「命題」であって、「集合」ではなく、
②「谷山=志村予想」も「命題」であって、「集合」ではない。
従って、
(11)(12)により、
(13)
対偶」は、
③「大和なでしこ」の「集合」と、
④「女性の集合」 の「集合」のように、「集合」で「理解」するのが、「一番簡単」であるが、
①「フェルマーの最終定理」は「集合」ではなく、「命題」であって、
②「谷山=志村予想」も「集合」ではなく、「命題」である。